ピアノとワインと時々パリ──務川慧悟 ラヴェル: ピアノ作品全集 他
何年かに一度、「今、この人の音を聴かなければ」と思わせる音楽家に出会う。
務川慧悟というピアニストを知ったのは、2017年のシャネル・ピグマリオン・デイズのときだった。それが一昨年あたりから、一気に「聴かなければ」の焦燥に変わり、昨年実演に際して確信に変わった。
日本とパリを拠点に活躍する務川さんの魅力は、なんといっても空気感だと思う。抽象的な雰囲気だけではない。音楽の時間軸や空気を自由に操り、聴衆を世界に耽溺させる力のことである。パリにゆかりある音楽家を「エスプリ」で語るのは野暮かもしれないが、そうとしか表現できない知性──どこか左岸っぽい、静謐な探究のようなものがあるのだ。
その印象は、洗練された私生活でも変わらない。気鋭のピアニストは昨年、突然ワインエキスパートの資格まで取ってしまった。
十数年前パリに住み始めた頃から、自然と身近な存在になり、そして昨年「えいっ」と思い切って資格を取得したことによって、僕にとっての正式な”趣味の一つとなった、ワイン。ブドウのみから造られる一見シンプルなこの液体は、しかしその奥底に、まさに自然の微智と呼ぶに相応しいであろう深淵な奥深さを、秘めている。
この春、彼が『小説すばる』ではじめたエッセイ連載に歓喜した方も多いだろう。そのタイトルをお借りして、彼の奥深い音楽の魅力をご紹介する。
1) ラヴェル:水の戯れ(7/2放送分)
2014年に渡仏後、フランク・ブラレイの下でバロックから現代曲まで幅広いレパートリーを磨いてきた務川慧悟。彼を象徴する作曲家といえばモーリス・ラヴェルだろう。2022年にはラヴェルのピアノ作品全集をリリース。今年7月にはラヴェル生誕150年を記念し、3時間におよぶ全曲演奏会を行った。
1901年に作曲された《水の戯れ》は、パリ音楽院の学生だったラヴェルが、独自の作風をつかみとるきっかけとなった作品だ。作品は作曲の師であるガブリエル・フォーレに献呈され、1902年に親友リカルド・ヴィニェスによって国民音楽協会で初演された。
ラヴェルはJeux d’eauという言葉によって、光の加減とともに変化する水の色彩と音響を表現しようとした。冒頭、噴水の規則的なリズムが淡々と進む8分音符の動きで表現されるが、やがて厳密な調性進行とは異なる和声に変化し、変幻自在な水の印象を再現する。
務川さんのリサイタルを思い出す──静寂の中の熱情に、肌が粟立つ夜だった。愛に満ちて、孤高なその音楽に、務川さんはどれだけの時間向き合ってきたのだろう。本物の共鳴は聴く者に伝わる。演奏が終わっても、圧巻の静寂がつづいた。ピアニストが立ち上がってから、湧き上がった拍手の余韻が忘れられない。
透き通った音色の「水の戯れ」は、夏にふさわしい。務川さんはこの曲とシャブリとのペアリングを推奨していると話すと、みんなが納得してくれた。収録では「(そうした助言は)クラシックを知らないけれど聴きたい、というたくさんの人の大きな助けになりますね」と早見沙織さんが呟き、とても示唆的だった。
2) ラヴェル:夜のガスパール より オンディーヌ(7/3放送分)
務川さんの代名詞であるラヴェルをもう1曲。
「夜のガスパール」は元々、夭折の詩人アロイジュス・ベルトラン詩集のタイトルである。ラヴェルは64編の詩から、幻想的で怪奇性の強い3篇を選び、そのイメージに技巧を織り交ぜながら神秘的なピアノ曲に仕上げた。第1曲「オンディーヌ」では、右手の細かいあ連打の中に、幻想的なメロディーが浮かび上がる。人間の男に恋をした水の精、オンディーヌ。彼女は男の拒絶に泣きむせび、やがて笑いながら消えていく──。
以前早見さんが教えてくれたラニュイ パルファンのオードトワレは、この曲にインスピレーションを得たものだった。甘やかな微笑みで、死へと誘う水の精を表現する、ウォーターアコードやバイオレット。嗅覚、そして味覚。五感でアプローチしていくと、形のない音楽がぐっと近づいてくる。
2) ルトスワフスキ:パガニーニの主題による変奏曲(7/4放送分)
務川さんの事務所の社長であり、相方でもある反田恭平さんとの2台ピアノである。
当初、ラジオの3日目はフォーレについて話すことになっていた。しかし収録日を前に、務川さんとフランク・ブラレイ、沖澤のどか指揮 東京都交響楽団の共演に接したのである。曲はプーランク「2台のピアノのための協奏曲」。ピアニストたちの楽しげな表情とそこから生まれる音楽に、「孤高」とは別の魅力を話したくなって、急遽変更してもらった。
ヴィトルト・ルトスワフスキは、ポーランド、ワルシャワ生まれの20世紀の作曲家。この曲はパガニーニのカプリースをピアノ2台用に編曲したもので、12の変奏とコーダで構成されている。
5分くらいの小品だが、もっと長い曲を聴いたような気がするほど密度の濃い曲だ。2台のピアノが、テクニックとスピードを競いながら、攻撃的になったり、ぴったり寄り添ったり、複雑なリズムのなかでスリリングに掛け合う。デュオからは、彼らの仲のよさと楽しげな空気感が伝わってくる。
ご存知の方も多いと思うが、反田さんはアクティブな野心家だ。ショパンコンクールで一躍国民的存在になったが、個人的には「リストタイプ」のピアニストだと思っている。一方で、務川さんはまるきり「ショパンタイプ」。たとえば昨年、パリで引越したとき、「毎朝起きたらまずピアノの前に座って、朝の光のなかで練習しているのですが、その時間が本当に楽しい。もしかしたら、これ以上もう何もいらないんじゃないか」などと語っていて微笑ましい。
『F ショパンとリスト』を書くとき、ふたりの天才の共演記録を血眼になって探したが、21世紀では録音になって残る。よき時代だと思う。
さまざまな演奏形態で、音楽家の新しい魅力を知ることは幸福だ。新しい録音を期待しつつ、実演を追いつづけたいと思う。
(2025/6/15記、8/2加筆修正)
※本稿は、JFN系列のラジオ『Memories & Discoveries』で7月にお話した内容に加筆修正したものです。次回の担当は9月。毎朝5時台、JFN系列38の全国FM局とradikoタイムフリーでもお聴きいただけます。
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読んでいただきありがとうございます。新しい「物語」のため、大切にします。