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【東京・上野】髭切・膝丸に会いに東京国立博物館へ〜大覚寺展〜

『滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
 名こそ流れて なほ聞こえけれ』

というわけで、大覚寺展に行ってきました
同時期に本館で展示されていた小龍くんにも会ってきました



特別展「大覚寺」展


まずは特別展「大覚寺」展にいってきます

今回の大覚寺展では、華やかな障壁画を中心に、天皇家ゆかりの五大明王、歴代天皇の書、
さらに、刀剣乱舞にも実装されている鬼切丸(髭切)・薄緑(膝丸)のふた振りが並んで展示されるとのことで、見どころがいっぱいありました

まず大覚寺とは?

刀剣乱舞では膝丸さんが所蔵されているところでお馴染みの大覚寺
改めてどんなところ?と思ったので調べてみました

●嵯峨天皇

大覚寺の歴史
大覚寺の歴史は、今から約1200年前に嵯峨天皇が離宮・嵯峨院を造営したことにはじまります。その後貞観18年(876)、皇女・正子内親王(まさこないしんのう)の願いにより寺院に改められました。

https://www.tnm.jp/modules/rblog/1/2024/09/04/2025Daikakuji_01/

なるほど
嵯峨天皇は平安京に遷都した桓武天皇の息子で、漢詩や書をよくし、空海や橘逸勢とともに平安時代初期の三筆の1人となっています
漢詩が得意だったことは、「子子子子子子子子子子子子(ねこのここねこ ししのここじし)」の小野篁とのエピソードも現れており有名ですね


検非違使を設置したり、律令制度の細かい取り扱いを示した弘仁格式を編纂したりと、政治も文化活動も積極的に行なっていた天皇のようです

その側近として活躍したのが藤原北家の藤原冬嗣
宗教面では、日本に密教を伝えた空海・最澄が活躍している時期です

●嵯峨源氏と鬼切丸

また嵯峨天皇は、光源氏のモデルとなった源融のお父さんでもありますね

また、源融など臣籍降下した嵯峨天皇の子供達から始まる一族が「嵯峨源氏」
主な嵯峨源氏には、鬼切丸で鬼の腕を切ったという「一条戻橋の鬼退治」に出てくる渡辺(源)綱がいます
この大覚寺展で鬼切丸が展示されているのも、そういうご縁があるからなんですね〜

●藤原氏との関係

雅なご一家なんかな〜と思ったら、藤原氏一族の権力争いによって、しばしば事件と変が起こっていた時代のようです

当時の天皇家は藤原氏の南家・北家・式家と深い関わりがありましたが…
まず平城天皇が即位後、807年に「伊予親王事件」が起こり、謀反の疑いをかけられた伊予親王と母の吉子が自害
これで吉子の実家の南家が没落

自害した伊予親王母子の怨霊を恐れた平城天皇は病気になり、同母弟の嵯峨天皇に譲位します

が、病気が良くなった平城天皇
皇位復帰を求めたため、嵯峨天皇の即位の翌年810年に「平城太上天皇の変」いわゆる「薬子の変」が勃発
まあ同母兄・平城天皇が体調不良で譲位→元気になったので復帰したい、なんてややこしい経緯があったから起きたんですが…
平城天皇には式家の藤原仲成、嵯峨天皇には北家の冬嗣がついていたため、藤原一族の争いでもあったようです
これで敗北した藤原仲成は処刑、薬子は自害
式家が没落していきます

https://m.youtube.com/watch?v=g4G7-CKnnGc


さらに嵯峨天皇崩御の842年には藤原氏の他氏排斥事件「承和の変」が起きています
これによって、淳和天皇の息子・恒貞親王は出家。さらに先にあげた三筆の1人・橘逸勢が流刑になっています

https://manareki.com/jouwanohen

当時、嵯峨天皇と異母弟・淳和天皇の二つの系統が交互に皇位継承する取り決めだったようですが、これにも嵯峨天皇の系統には藤原良房、淳和天皇の系統には伴健岑・橘逸勢がついており、それぞれの天皇のグループが対立していたようです
結果、淳和天皇派が敗北し、伴氏や橘氏などの他氏族の勢力を抑え、藤原氏が天皇の外戚として摂関政治の基盤を作っていきます

この後にも、応天門の変や阿衡の紛議、安和の変と藤原氏の邪魔になる他氏族を排斥する変や事件がてんこ盛り
藤原道長の摂関政治全盛期につながっていきます

※ちなみにこの応天門の変を、12世紀に絵巻にしたものが、やまと絵展でも展示されていた国宝『伴大納言絵巻』になります

※現在の平安神宮には、縮小復元された応天門があります。


●大覚寺の始まり

話を元に戻して

嵯峨天皇は823年に淳和天皇に譲位、さらに833年に淳和天皇から仁明天皇に皇位継承されると、離宮・嵯峨院、のちの大覚寺に移り住みます

いけばなの嵯峨御流は、この嵯峨院で嵯峨天皇が菊を飾ったことからはじまったとされます
皇位継承がややこしいわ事件や変の絶えない時代だったけど、晩年はのんびり過ごしていたといいですね

いけばな嵯峨御流の誕生
平安の初め、嵯峨天皇が大覚寺の大沢池で、菊ガ島に咲く可憐な菊を手折り殿上の花瓶に挿されました。
その姿が「天、地、人」三才の美しさを備えていたことに感動され、「後世花を生くるものは宜しく之を以って範とすべし」とおっしゃいました。これがいけばな嵯峨御流の始まりであると伝えられています。嵯峨天皇の自然や草木に対する慈しみの心が、嵯峨御流の礎になっています。

https://www.sagagoryu.gr.jp/sagagoryu_3min/

876年に嵯峨天皇の娘・正子内親王が嵯峨院を大覚寺に改め、出家していた恒貞親王こと恒寂入道親王が初祖となります

https://shisekinavi.com/daikakuji/

家系図を見ると、
正子内親王は嵯峨天皇の娘であり、
叔父の淳和天皇と結婚しており、
さらに恒貞親王のお母さんになります
皇位継承は嵯峨天皇の直系の孫・文徳天皇に渡りますが、いわゆる外孫の恒貞親王に大覚寺を任せたような感じになったわけですね

●大覚寺統と持明院統

鎌倉時代後期に入ると、後嵯峨天皇からの両統迭立の時代へ
後嵯峨天皇の2人の息子、後深草天皇からの系譜と亀山天皇からの系譜が天皇の座を巡って対立することになります

鎌倉時代後期には大覚寺統(後の南朝)の拠点となり、政治的に大きな影響力を持つようになります。応仁の乱により堂宇(どうう)は焼失しますが、安土桃山時代から江戸時代にかけ御所の一部が移築されるなどして、現在の寺観が整えられました。

https://www.tnm.jp/modules/rblog/1/2024/09/04/2025Daikakuji_01/

うーん?
ちょっとわかりにくいので家系図調べてみました

https://history.kaisetsuvoice.com/Nanboku16.html

南北朝時代の「大覚寺統」「持明院統」の大覚寺統はここから来てるんですね
なるほど〜

亀山天皇の息子・後宇多上皇は、息子の後醍醐天皇に実権を譲ったのちは大覚寺の門跡となります
ここから亀山天皇の系譜は大覚寺を拠点としていきます
この後宇多天皇が伽藍の整備などを行ったため、大覚寺の中興の祖とされているようです

ちなみに、南北朝が合一したときの天皇、後小松天皇は、一休さんのモデル・一休宗純のお父さんと言われています

南北朝の動乱や戦国時代の間に大覚寺の建物は焼け落ち荒廃していたようですが、江戸時代になった1624~44年にやっと伽藍が整えられたとのこと
よかったねえ

皇室ゆかりの寺院であったため、本当に歴史の表舞台や著名人と深い関わりのあるお寺なんですね


それでは順番に展示を見ていきましょう
今回は1〜3章までは撮影禁止
4章の襖絵のみ撮影可能とのことだったので、
Xのポストなどお借りして紹介していきたいと思います


第1章 嵯峨天皇と空海

まず最初のキーパーソンである嵯峨天皇に関わるものから
この時代、空海・最澄が唐にわたり日本に密教を伝えました
密教は加持祈祷などの修行をすることによって現世利益を実現しようとする、当時としては画期的な思想だったようです

大覚寺も真言宗のお寺のため、密教の仏様が祀られています。空海の時代の像はありませんが、12世紀の平安時代に作られたものと、室町時代・江戸時代に作られたものが残っています

それが最初にある「五大明王像」
院信作と明円作の2種類がありました
院信作のものは不動明王・軍荼利明王・大威徳明王の3つ
室町時代のもので、2メートルほどある大きな像です
インパクトがすごいですね。圧倒されます

明円作の五大明王像は50センチほどの大きさで、2メートルの大きな像を見た後だとこじんまりした感じに見えますが、生き生きとした作りでリアルな像です
こちらは明円がつくったものが全部残っています

また今回の展示のため調査したところ、明円作・五大明王のうち、軍荼利明王には内部に納入品があることが判明したとのこと

舎利とは仏教を開いた釈迦の遺骨のこと。仏像の像内に納める例は、奈良時代にいくつか見られるものの12世紀前半までは少なく、12世紀後半以降に増えていきます。大覚寺軍荼利明王が作られたのはその12世紀後半に含まれる年代ですので、まさに舎利を仏像の像内に納めることへの関心や事例が高まる時期に作られ、かつ年代が明らかな重要な例です。しかも、木柱の頂部のなかに舎利を納める点や、木柱を打ち付けて固定する点など、入念な作りが特徴です。

https://www.tnm.jp/modules/rblog/1/2025/02/17/2025Daikakuji_03/

なんで一つだけ舎利入れられているんだろう?
舎利を入れた木柱もそれ用にちゃんと作られたものみたいだし…
まだまだ解明されていない謎があるみたいで、面白そうですね

他にも60年に一度開封される「勅封般若心経」の関連文書も展示されていました

来たる平成30年(2018)は、旧嵯峨御所大本山大覚寺並びに華道嵯峨御流のご始祖である嵯峨天皇が、宗祖弘法大師のお勧めにより、般若心経を書写された弘仁9年(818)から丁度1200年に当たります。この弘仁9年の春、大旱魃かんばつから全国に疫病が蔓延したことに対し、嵯峨天皇は「朕の不徳にして多衆に何の罪かあらん」と、正殿(御所)を避けて離宮嵯峨院で質素倹約に努められました。そして4月26日から28日までの3日間、弘法大師のお勧めにより、嵯峨天皇及び公卿百官は素食精進のもと、般若心経に帰依して読誦転経し、殊に嵯峨天皇が紺紙に金泥で一字三礼の誠を尽くして般若心経を書写されると、霊験あらたか、疫病はたちまちに治まり、大いなる功徳を得られました。

https://www.daikakuji.or.jp/bojutsu/intro/


そんな霊感あらたかな「勅封般若心経」
今でも定期的に開封されているようで、最近では2018年に行われていたようです
次は2078年かあ〜生きている間に見れるかな?


第2章 中興の祖・後宇多天皇 「嵯峨御所」のはじまり

2章からは、2番目のキーパーソン・後宇多天皇にちなんだ展示がありました
この時代に境内の伽藍が整備されたようですが、「大覚寺大伽藍図」を見ると、もともとお寺は大沢池の北側にあったみたいです
そうだったんだね〜

そんな天皇直筆の「国宝 後宇多天皇宸翰 御手印遺告」には、手形も押されています
弘法大師(空海)に倣って25条の遺言書を作成しようとしたみたいですが…21条までみたいですね
仏教や大覚寺のこと、国家のこと、修行に関わること、教育方針や行者の禁止事項に自分のお墓のことなどが様々書かれています

そして本物の遺言書だと示すため、天皇本人の手形が7か所押されています
手形…結構肉厚な手だったのかな?
見る限りふっくらした手のひらだったのかなと思える手形です
いかにもやんごとなき立場の方の手という感じですね

第3章 歴代天皇と宮廷文化

3章では、皇室ゆかりの寺院らしい宮廷文化に関わる品が

戦国時代の門跡・義俊が大ファンだった「源氏物語(大覚寺本)」の写本が展示されていました
これだけ見ると雅な生活をしていたのかな?と思いますが、この時代かなり大覚寺も戦乱に巻き込まれていたようで
幕府から殿舎没収されてたり、放火されてたり、
義俊も一時、越前の朝倉義景の元に身を寄せています
本当にその当時の京都は治安が悪かったんだな…

●朝倉義景の館のあった、一乗谷朝倉氏遺跡への旅はこちら↓↓

関白近衛家の生まれという家柄からか、将軍や各大名とのやり取りや中継ぎしたりと、重要な役割をになっていたようで
なかなか忙しい人生を送った方のようですね

この他にも織田信長・豊臣秀吉・徳川家康から大覚寺宛の書状があったりと、時の権力者と様々なやり取りをしていたことが伺えます

ちなみに「豊臣秀吉判物 大覚寺宛※」にかいてあった、「近江国蛭口村」
どこなんだろ?と気になって調べてみました…今の滋賀県高島市マキノ町、福井県寄りの場所見たいですね…ここも古代の出土品が発見されているところなので、歴史的な繋がりを見つけられて嬉しいです

※聚楽第で行われた後陽成天皇の行幸で、功労があった大覚寺に領地を与えたという内容。


●髭切と膝丸

またこちらの章の最後に、「鬼切丸(髭切)」「薄緑(膝丸)」の二振が並んで展示されていました

前方からも後方から見えるケースだったので、裏側もしっかり見ることができました
解説では、鬼切丸は童子切安綱と同じ安綱の作、薄緑は備前派の作とのこと

鬼切丸の銘…確かになんか読みづらい感がありますね…
※銘を安綱→国綱なぜ変えたかについては、最上義光歴史館のホームページにちょっと解説されていました
↓↓

薄緑は鬼切丸よりちょっと幅が広く感じました
以前、大覚寺と北野天満宮で別々に見た時はそこまでわからなかったけれど、こうやって並んで展示されると微妙な違いがわかりやすいです
似てるようだけど、ちょっと違うんだね

さらに横に「薄緑太刀伝来記」があり、薄緑の歴代持ち主が記録されています
髭切には「鬼切丸伝来記写」が別にあるようですね

う~ん…髭切の伝来のほうが今一つわからないんですが…伝来を簡単にまとめるとこんな感じ?

【薄緑】 ※ほぼ「薄緑太刀伝来記」から
源満仲→源頼光→源頼基→源頼義→源義家→源為義
→熊野別当教真(湛増の父・湛快?)→熊野別当湛増→源義経→箱根権現→曽我時宗→源頼朝→大友能直→田原泰広→田原親貫→田原親武→西園寺経子→西園寺実晴→安井門跡中興祖大僧正性演→安井門跡中興祖大僧正道恕→大覚寺

【髭切】
※最上家以前の伝来が不明?
説①源満仲→坂上田村麻呂→伊勢神宮→源頼光→渡辺綱→源頼光→源国方→源義家→箱根権現→源頼朝→?→新田義貞→斯波高経→

足利義氏→足利泰氏→斯波家氏→斯波宗家→斯波家兼→斯波(最上)兼頼→最上直家→最上満直→最上満家→最上義春→最上義秋→最上満氏→最上義淳→最上義定→ 最上義守→最上義光→最上家親→最上義俊→最上義智→最上義雅→(以降最上家)→最上義連→篭手田安定→最上家→北野天満宮

へえ〜熊野や箱根にもいたのね
「教真」という方はなんか調べてもわからなかったのですが…熊野別当・湛増は人形劇平家物語の「紀伊の巨鯨」などの回に登場する人物ですね

さらに曽我物語の時代のあとは、大友氏→分家の田原氏へ
膝丸さん、大分県あたりにいたこともあるんでしょうか?
そして安井金毘羅宮と関わり深い蓮華光院を兼帯した経緯などから、大覚寺に伝わっている、ということですかね?
境内に安井堂があるのも、そういう経緯があるからなのか。なるほど

髭切さんも紆余曲折経て山形の最上家にたどり着いたようですが…
歴代持ち主であった斯波氏については、
火伏せの虎舞で有名な宮城県加美町や、最上氏の居城・山形城があった山形駅前すずらん通りなどに、斯波家兼・兼頼の像が建てられています
山形城跡の霞城公園にある最上義光像もお馴染みですね

宮城県加美町の中新田城跡にある、奥州管領・斯波家兼像
引用:https://www.town.kami.miyagi.jp/material/files/group/32/43-nakaniidajou.pdf
山形市駅前すずらん通りにある、最上家初代・斯波兼頼像
引用:https://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=101254370422364&c=10
山形市霞城公園(山形城跡)にある最上義光像
引用:https://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=101134071111571

これらの最上家の系譜を辿って最上義光歴史館に行ってみるの楽しそうですね

最上義光歴史館↓↓

●斯波氏の居城のあった加美町の無形文化財「火伏せの虎舞」を見に行った時の旅はこちら
↓↓



第4章 女御御所の襖絵

ここからは正寝殿と宸殿の襖絵や建具など
キービジュアルにもなっている牡丹や梅など華やかな襖絵を見ることができます

●宸殿
江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子が、女御御殿として使用していたもの。妻飾つまかざり、破風板はふいた、天井などに装飾がこらされている。正面には御所の名残りとして右近の橘、左近の梅を配す。蔀戸しとみどの蝉の飾りは精巧な作りとなっている。牡丹の間と紅梅の間を飾る襖絵、「牡丹図」と「紅梅図」は狩野山楽筆。

●寝殿
12の部屋をもつ書院造り。南北に3列の部屋が配置され、東列は、「剣璽の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」、中央列は、「雪の間」「鷹の間」、西列は「山水の間」「聖人の間」を並べ、その南と東に狭屋の間を配置する。上段の間は後宇多法皇が院政を執った部屋で、執務の際は御冠を傍らに置いたことから、「御冠の間」と呼ばれている。南北朝媾和会議が、ここで行われたと伝わる。

https://www.daikakuji.or.jp/precincts/
大覚寺境内
https://www.daikakuji.or.jp/event/equipment/
正寝殿の間取り

まずは正寝殿の襖絵を見ていきます
上にある間取りにあるように、8部屋それぞれに見事な絵が書かれています
通常は非公開となっている建物なので、その内部の様子が全て見られるのはとても貴重な機会ですね

●野兎図

まずドーンとでてくるこちらの絵
紅葉の間・竹の間の東狭間の間側にある障子の下に書かれた絵で、ふわふわのうさぎさんが19羽書かれています
一匹一匹違うポーズや模様で躍動感があり、本物のよう
動物園にいるうさぎさんもほんとこんな感じだよなあ

手前の黒いうさぎさん、足伸ばしてぐてーっと熟睡してます
みんなと一緒で安心してるんですかね?

こちらは12歳で入寺した近衛家の寛深門主のために書かれたと言われます
寛深門主が卯年であったことからうさぎをかいたとのことですが…ご本人の干支という他にも子供は小動物好きだからなあ
かわいいうさぎがずらーっと並んでいるのはとても嬉しかったでしょうね

山水の間・賢人の間・雪の間・鷹の間などにも、それぞれの部屋のコンセプトにあった絵が飾れていたそうです

竹林七賢図
松に山鳥図

また竹の間・紅葉の間には、春→夏→秋と続くような襖絵が
奥に進むごとに、筍が生える春先から秋の紅葉に季節が進んでいくようで、なんだか昔話の「うぐいす長者」にでてくるお屋敷みたいな襖絵ですね

竹図
桃竹図
紅葉柳図

●御冠の間・山水図

正寝殿の奥にあるのが「御冠の間」
ここで後宇多法皇が政務を行っていたとこと
その際冠を脱いで横に置くため、その名前がついたのだそう
この奥の剣璽の間に三種の神器が保管されていたようです
今回は襖絵と一緒に、お部屋の再現コーナーがありました

「御冠の間」再現コーナー

なるほど
この前に山水図の各パーツが展示されていましたが、実際のお部屋ではこんなふうに組まれているのか〜わかりやすい!
建具にも桐竹など皇室を表す模様があり、ここが皇族の方が使用する部屋であることを表しています

桐竹蒔絵帳台構蒔絵部材
桐竹鳳凰紋にちなむ天子を表すモチーフが使われています

またこの山水図、中国の景勝地・浙江省西湖の風景と似ていることから「西湖図」とも呼ばれているそう
西湖の風景は浜松町の芝離宮恩賜公園の池や岩国の錦帯橋のヒントにもなったと言われ、日本でも風光明媚の代名詞になっています

山水図
山水図

四大民話の「白蛇伝」の舞台で、今でも風光明媚なことで知られる西湖
湖内にある小島に橋をいくつもかけた様子が書かれています
※「白蛇伝」…様々なパターンはあるものの、基本的に白蛇の化身の女性と人間の男性の恋物語「雨月物語」の「蛇性の婬」の原作『白娘子永鎮雷峰塔』もこの一つヘビの妖怪に取り憑かれる怪談話もあれば、現代アニメではハッピーエンドになるパターンもある

https://note.com/__luchia_/n/nd4b91ffbd17c?sub_rt=share_b
「西湖遊覧志」 引用:https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/08_vol_119/feature02.html

●錦帯橋や白蛇で有名な岩国への旅はこちら
↓↓


さて次に宸殿の襖絵のエリアへ…

うわー!!すごい!!
全方向に豪華な襖絵がずらり
上には特に華やかな牡丹図と紅梅図のディスプレイが浮かんでいて
まさに百花繚乱の空間です
きれいだなー!!!

宸殿は後水尾天皇と結婚した徳川秀忠の娘・和子が御殿として使用していたとのこと
奈良時代の孝謙・称徳天皇から859年ぶりに即位した女性天皇・明正天皇のお母さんにあたる方ですね
展示でも「建物や内装には、どんな人がここに住んでいるのかその様子が表されている」といった内容の解説がありましたが、それがわかるような襖絵や建具がみられます

 松鶴図

松と鶴というおめでたいモチーフに、よく見ると松の木には巣があり雛が3匹ほどいます

婚礼のお祝いと子供に恵まれてほしいという願いが込められた絵です
天皇家と将軍家の婚礼なので生まれた子供たちは双方の血を引くことになる訳ですから…
朝廷・幕府が仲良く世を治める象徴でもあり、当時の政治的な意図も読み取れるということですかね

正寝殿襖引手金具

襖絵についた引手の金具も、皇室の菊と徳川家の葵紋が
これも朝廷と幕府が協力しながら政を行う・婚礼により関係を強めるなどの意図があり、まさに「ここに住む人の様子や状況を表す」ものであると言えます

お嫁入りした和子さんこと東福門院の気苦労は相当だったかと思いますが…センスがよく手先が器用な方だったようで、押絵を作るのが得意だったとのこと
趣味があったことでいくらか心の慰めになっていたらいいなと思います

●牡丹図・紅白梅図

そんな女御御殿でも特に華やかな襖絵
狩野山楽筆の「牡丹図」

狩野山楽筆「牡丹図」

全長22メートル、全18面にわたる華やかな牡丹図
金の下地に溢れるような牡丹がたくさん
この裏面が同じ狩野山楽筆の「紅白梅図」で、こちらも金の雲に見え隠れする梅が、のどかな春の日の中にいるようです
表も裏も桃源郷みたいな襖絵
ほんと、昔話「うぐいす長者」の開けてはいけない最後の蔵、春の蔵の風景のような絵です

狩野山楽筆「紅白梅図」

グッズにもなっていましたが、確かにこれ見たらお家に欲しくなりますね…


出口にあった四季折々の大覚寺

普段は見られない襖絵が多いのですが、この特別展で四季折々の絵を見ることができてとても楽しかったです

リアルの大覚寺の四季もとてもきれい
出口にあったパノラマ写真、大沢池の四季の様子が繋がってていいなあ
秋には「観月の夕べ」があるそうなので、これもいつか見てみたいなあ



ラウンジ(鶴屋吉信 出店)

今回は京都の老舗のお菓子屋・鶴屋吉信のポップアップストアがラウンジに出店していました

まだ寒い日だったので、ホットの抹茶ラテ「京ふわわ」を
お土産に柚餅を買いました

…美味しいなあ、この抹茶
お茶の旨みが、とっても美味しい
ラテだけど甘味がそこまで強くないのが、逆にお茶のおいしさがわかりやすくて、とてもバランスよく感じられます

本館 展示


ひと休みしたところで、本館へ
小龍景光が展示されているとのことだったので、行ってきました

●小龍景光

2022年の国宝展で一度見ていたのですが…
当時はとても混雑していてなかなかじっくり観ることができなかったので、今回ゆっくり見れてよかったです

覗き龍がよく見えるなあ

小龍景光

6センチほど磨り上げられたので、実際に刀装具つけた時には龍がのぞいているような感じになるわけですね
刀装具つけたら見えなくなってしまう下部分ですが、これも繊細な彫刻がされており、この部分もそのまま残っていてよかったなと思います

この他にも国宝の古備前友成の太刀や来国俊の短刀が展示されていました
時々金属のはずなのに、なんだかちゅるんとしているというか…水感があるように見えるのなんでなんだろう?
あまり刀剣鑑賞の作法はわからないので、見る角度や光の当て方によって違うんだろうな?とは思いますが…不思議だなあ

国宝 古備前友成
国宝 来国俊

また、ちょうどお雛様の時期だったので、可愛らしいお人形がたくさん展示されていました
御所雛がたくさん
今にも動き出しそうな躍動感ある五人囃子、今時のお雛様にいても違和感ないなあ
洋風の雛道具もありました
ガラスの食器は珍しいな…ハイカラなお内裏様とお雛様だったんでしょうか?

この他にも「博物館でお花見を」をテーマに、桜をはじめ、花々が描かれた絵巻物が展示されていました
色鮮やかな花鳥の「雀の発心」や「天狗草子」の清瀧会(桜会)の場面など、本当に花盛りの展示だなあ

「雀の発心」ヒガラ
「天狗草子」清瀧会



桃の節句が過ぎると、そろそろ桜の季節だなあ〜
桜が咲く頃には、石田正宗が展示とのこと
刀剣乱舞の宝物にもある、模造小桜黄返威鎧も展示されるそう
また東博に来る楽しみが増えました

↓↓本館前のユリノキが咲く頃に展示された
石田正宗を見に行った旅はこちら



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