寺田ヒロオが語った〈草野球とマンガ〉
若き「漫画家の卵たち」が集って競い夢を語った伝説の「トキワ荘」における頼れる兄貴分だった寺田ヒロオ(1931-1992)。彼をフィーチャーした『トキワ荘の時代』(梶井 純)は昔に読んだが、内容はほぼ忘れてしまいました。
テラさん(寺田氏の愛称)は、トキワ荘出身?だけど、「手塚ウィルス」には罹っていないらしい。生年も没年も、手塚治虫(1928-1989)より3年遅れだ。
実写映画『トキワ荘の青春』(1996年)は観ています。意図的だと思いますが「明らかな説明不足」が多く、不親切ではあるが、なかなか沁みる△佳作。

鈴木伸一氏所蔵写真のテラさん。隣は奥さん? 水野英子氏ではなさそう。

↑は、↓の写真を加工。「上段左」から鈴木、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、「中段右」がつのだじろう、「下段左」が寺田ヒロオ。寺田氏の自宅?

『スポーツマン金太郎』(虫プロ商事/全3巻)第1巻表紙のイラスト部分。

★ 寺田ヒロオが語った〈草野球とマンガ〉(1982年)
1982年の『Number』(文藝春秋)の【スポーツマンガ大特集】より。大島賢洋という人の文章と寺田のインタビューによって構成。キャプション⇒《寺田ヒロオにとって人生でいちばん大事なものは野球とマンガだった。その結晶が野球マンガ「スポーツマン金太郎」。そして「スポーツマン金太郎」が描かれたのは、マンガが、本当に子供のためのものであった時代だった。》
_このところ、スポーツマンガの様子がどうもおかしい。試しにマンガ雑誌を開いてみるといい。かつてあれほどの迫力で、全篇を圧していた、あの血の汗と炎の目の玉(※いわゆる「スポ根」「熱血」もの)がどこにもないのだ。現在、「少年サンデー」で人気を集めている「タッチ」(あだち充)という高校野球マンガなど、様子のおかしいスポーツマンガの典型といえる。一言で言えば、かつてのスポーツ劇画とは正反対のほのぼのマンガ。柔らかで上品な線で描かれた、おとなしく、白っぽい、どこかポカーンとした不思議な画面。読む者をその空間に引きこんでいく、軽い話のテンポ……。_こんなスポーツマンガ、ずっと昔に読んだことがある。それが「タッチ」の第一印象だった。_そこですぐに思い出したのは、熊のキャッチャーに豪球を放りこみ、長嶋や王を三振に切ってとる、クリッとした目のかわいい少年の姿。昭和30年代(※1955~1964年)、「少年サンデー」に連載された、寺田ヒロオ描く人気野球マンガ「スポーツマン金太郎」だった……。_寺田ヒロオさんを訪問する計画は、こんなきっかけで生まれた。つまりスポーツマンガのニューウェーブ、ほのぼの野球マンガのルーツを探ってみようというわけだ。
草野球がぼくのマンガの原点
「もうずーっと、草野球ばかりやってきました。外野の芝生に寝ころんで空を見上げるような草野球が、ぼくにとっての野球なんですよネ」_寺田さんは、あのマンガそのままのほのぼのとした笑顔で、まず野球についてこんなふうに話し始めた。「スポーツマン金太郎は舞台をプロ野球にとっていますが、実は一度もプロ野球を取材したことがないんです。たまたまプロ野球を描いていますが、ぼくの基本は草野球で、自分でやる野球ですから」_プロ野球の選手に会ったのは長嶋と二度並んで写真を撮られただけだとも、恥かしそうに話してくれた。「ぼくにとってのプロ野球は、決して特別な人たちの集まりじゃなくて、草野球のうまい人たちの集団の延長ぐらいにしか思えない。だから、テレビとスポーツ新聞と週刊誌を資料に勝手にプロ野球を描いていました」_たしかに「スポーツマン金太郎」で描かれるプロ野球は実在の人物が登場するにもかかわらず、描かれる人物はいっさい現実から切り離された、寺田野球世界の住人でしかない。_しかし、ここで「スポーツマン金太郎」を改めて読み返して気づくことがある。これは後に「スポーツマン金太郎」とは対極に位置づけられる「巨人の星」と読み比べると、一層はっきりするのだが、「スポーツマン金太郎」が現実とは離れた荒唐無稽な世界を描いているにもかかわらず、一旦試合の場面になると、実にリアルなプレーが、その細部まで展開されることだ。また金太郎の打球が一直線にスタンドに飛び込むシーンなど、比類のない迫力なのだ。_このことは、「巨人の星」が、綿密な取材でリアルな劇的状況をつくっていながら、いざ試合となると、現実のスポーツとしての野球から遠く離れた、魔球乱発の荒唐無稽なものになっていることと、好対照をなすだろう。これは、とりも直さず、作家の野球に対する思いの違いとしか言いようがない。「スポーツマン金太郎」の中で、金太郎はいつだって、野球というスポーツそのものを無心に、そして全身で伸びやかに楽しんでいる。だから、ぼくたちも「スポーツマン金太郎」を読んで無条件にニコニコさせられてしまう。このマンガが、発表されてから20年以上もたつのに読んで充分に楽しい、その魅力はここから来ているのだろう。そして言葉を重ねるならば、マンガの中で無邪気にボールを追っているのは寺田さんそのものなのだ。「本当に毎日野球ばかりやっていました。旧制中学の二年生で終戦。もうボールなんてボロボロで、打つでしょう、ところがそのショックでボールの縫い目が切れて皮がむけてしまう。守っているとその皮がプロペラみたいに回転して飛んでくる。こう、ベロベロベローってネ(笑)。そんな野球ですヨネ。」
雑誌「漫画少年」との出会い
_こうして毎日ベロベロボールだけを追っていれば、寺田ヒロオさんもごく普通の、川上の赤バット、大下の青バットに憧れた野球青年でしかなかったのだが、もうひとつ、寺田青年を夢中にさせるものがあった。それは言うまでもなく、マンガ。晴れた日は野球、雨の日は、当時のマンガ家の卵の登竜門だった、「漫画少年」への投稿マンガを描き続けた。_寺田マンガの、明るい素直な画風、上品で健康的なストーリー展開の多くを、この「漫画少年」によっていることは、多くの人が指摘するところだ。寺田マンガの原点は「漫画少年」というわけだ。_この「漫画少年」の思い出として、本誌の連載でお馴染みの阿奈井文彦氏がこんなことを語ってくれた。「ぼくは終戦で朝鮮から引き揚げてきて、九州の田舎にいたんですが、そんな田舎の本屋には『漫画少年』はこなかった。月に何度か出かける町の本屋でやっと買う本だった。だからぼくにとって『漫画少年』は中央文化、つまり東京文化そのものだった」_全国に散らばって、マンガ家を夢見る少年たちにとって思いは同じだったのだろう。「当時、『漫画少年』以外にも、多数の少年マンガ雑誌があったのですが、『漫画少年』はもっともマンガマニア向けで、都会的な、ちょっと知的で上品な笑いのマンガがほとんどだった。ぼくも似顔絵をセッセと投稿したものです」_しかし、残念ながら阿奈井少年は一度も入選することがなかった――。_阿奈井氏が落選の悔しさにくれているころ、寺田さんは、常連入選者となり、ついに昭和28年(※1953年)、マンガ家を目指し上京することになる。「漫画少年」は、寺田さんにプロのマンガ家への道を開いたことにとどまらず、それ以後の寺田マンガの方向をも決定した。それは「バット君」との出会いだった。子供たちの心の中にある純粋なものを、純粋なかたちでマンガにしていくことを、「バット君」から学んだと寺田さんは語る。「廃刊間近の『漫画少年』から始まって、『野球少年』の『背番号0』、そして『少年サンデー』の『スポーツマン金太郎』まで、これに徹して描き続けました」_寺田氏にとって、人生で最も重要なもの、野球とマンガの理想的な一体化がこれらの作品の中で行われた。描き手にとって、そして読み手にとっても幸福な時代だったといえる。しかし、日本の高度経済成長の始まりとともに寺田野球マンガは姿を消していく。「高度成長というのは、成長することがイイという概念ですから、なんでもうまくなれ、出世しろ、金を儲けろ。ところがぼくの草野球は成長しないんですネ。負けても楽しければイイと言っていては、成長はしませんものネ(笑)」_最近はなにをしていますかという質問に、カメラを持ってフラフラ旅をしているという答が返ってきた――。
「草野球」と言えば松任谷由実の『まぶしい草野球』が良い曲だなとラジオで聞いて心地よかった。↓は一般の方?のカバーらしいですが、歌も上手。
1980年の不二家「 ソフトエクレア」のコマーシャルソングだったらしい。
『Sports Graphic Number 64』(文藝春秋)の表紙と掲載ページ(P54-55)


★ 「寺田ヒロオ」 と 「J・D・サリンジャー」
『ライ麦畑でつかまえて』で知られるJ・D・サリンジャー(1919-2010)。彼の小説『ライ麦畑~』は最初の数ページだけ読んだが、すぐに断念(小説を読むのが苦手)。代表作と、早すぎる晩年?の「隠遁生活」の印象しかない。
晩年のサリンジャーは人前に出ることもなく、2メートルの塀で囲まれた屋敷の中で生活をしていたとされる。彼には世捨て人のイメージがつきまとうようになり、一度小説を書き始めると何時間も仕事に没頭し続けており、何冊もの作品を書き上げている、など様々な噂がなされた。
ベストセラー作家で「隠遁者」イメージの作家では、庄司 薫(1937-)氏も?
『赤頭巾ちゃん気をつけて』は1970年の映画版だけはビデオで観ています。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』以降の庄司作品に野崎孝訳版、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の影響を見る向きもある。『ライ麦畑でつかまえて』と文体やプロットから主人公の設定や小道具まであまりに似すぎているのではないかという声は『赤頭巾ちゃん』の発表当時から存在し、『東京新聞』は1969年9月2日朝刊ワイド面「こちら特報部」に「"薫ちゃん"気をつけて」と題する記事を掲載したことがある。
「寺田ヒロオを探して」というタイトルに、似たタイトルの本があったな?と連想。↓は寺田ヒロオの「早すぎる晩年(隠遁生活)」について書かれてる。
↓これは一部で囁かれているところでは、楳図かずおの恐怖マンガ?らしい。
鈴木(※鈴木伸一)によれば、寺田は少年サンデーの編集者に、寺田が「堕落」と考えるあるマンガの連載をやめるよう直談判したのだという。
「いくらテラさんが子どもたちにとってよくないと言ったって、編集部としては、そのマンガの連載をやめることなどできない。だったらば、自分がやめる、と筆を折ってしまったんです」
真相は知り得ませんが、教師志望?で児童マンガ志向らしい寺田氏の決断。
藤子不二雄A(安孫子素雄)の描く『まんが道』では、手塚治虫が、安孫子と藤本に、熱くこう語りかけている。
「現代の漫画はどんどん進化している。その進化の先へ、僕たちは行かなければならない」
ところが、寺田は違った。トキワ荘に下宿した若いマンガ家の中で、寺田ヒロオは唯一、手塚治虫の影響をうけていなかった。寺田は、戦前『少年倶楽部』の編集長をつとめ、戦後公職追放で講談社を追われた加藤謙一が1947年に創刊した『漫画少年』の考える漫画こそが本当の漫画だと考えていた。
私は当初、寺田が、石森や赤塚らの圧倒的な才能に気押されて、筆を折ったのかと考えていた。 ~中略~
しかし、トキワ荘最後の生き証人である鈴木伸一は、それは違うと言う。
「石森は確かに凄い才能でしたが、テラさんにとっては、手塚以降のマンガというのは別物なんです。テラさんにとっての理想の漫画は、『漫画少年』であり、そこに掲載されていた井上一雄の『バット君』なんです。だから石森たちのマンガを見て気押されてということはなかった」
学校の先生になりたいと考えていた寺田にとっては、子どもは「清く明るく正しく」伸びなければならないもの(『漫画少年』創刊の辞)、漫画はそのためにあるのだった。
「テラさんの『スポーツマン金太郎』は、それこそ金太郎や桃太郎が野球をして活躍するおとぎ話のような漫画で、こんな漫画が現代に成立するのか、と思っていた。でも人気はあったんです」
《あまりに高潔な性格ゆえの、何とも悲しい、緩慢なる自殺でした。テラさんがいなかったら、トキワ荘の仲間たちのその後はなかったと思います。》

https://x.com/bona_from_C/status/1634359242915459077
「寺田ヒロオを探して」での連想本『サリンジャーをつかまえて』は未読。
↑の原著『In Search of J. D. Salinger』の↓米国のカスタマーレビュー
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