春風みたいに、名前を呼んで
キラキラと若葉の光る朝。
ユウコは半泣きになって、自転車を漕いでいた。
(もー、寝坊なんて最悪……!あんなに楽しみにしてたのに!)
園芸部のみんなが「面倒くさい」と敬遠する長期休みの水やり当番。ユウコは順番が回ってくるのを、待ちわびていた。
花壇からは野球部のグラウンドがよく見える。
だからいつも、こっそりそこから練習を見ていた。
クラスメイトの篠森くん。
ユウコは彼に恋をしていた。
クラスメイトとはいっても、話しかけたことなんてない。もしかしたら、名前も覚えてもらっていないかもしれない。
引っ込み思案のユウコは、大好きな花がそばにいてくれるときだけ、勇気を出してそっと彼を見つめることができた。
この気持ちを、小さな蕾のように胸に大切にしまっていた。
ようやく学校に着き自転車を近くの駐輪場に置いて、花壇に向かう。
でも角を曲がった瞬間、ユウコは花壇の人影に驚いて足を止めた。
「えっ……だれかいる」
サアァァ―――。
細い水しぶきのアーチが花にやさしくふりそそぎ、空中に淡い七色の光を映していて、そのまぶしさにユウコは目がくらんだ。
春なのにすでに少し日に焼けた首筋と、
スッと背筋の伸びた白いユニフォーム姿。
いつも遠くから見つめていた後ろ姿が、すぐそこにはあった。
「……篠森、くん……?」
夢かもしれない、とユウコは慎重にそっとつぶやく。
立ち止まったまま、足は少しも動かなかった。
そんなユウコの気配に篠森が気づき、ゆっくりと振り返ってしまった。
(ど、どうしよう……!)
咄嗟の出来事に、ユウコは心の準備が間に合わない。
どうしたらいいのかわからず、結局俯いていた。
彼がすぐそこにいる。
ユウコは体中が心臓の音でいっぱいになり、息のしかたもわからなくなってしまった。
「遅刻。やる気ないなぁ、園芸部さんは」
そんなユウコに、少し意地悪でからかうような声がやわらかく降ってきた。
差し出されたホースに、ユウコはおそるおそる手を伸ばす。
震えてしまいそうな手を、見られはしないかしら。と、ユウコは気が気じゃない。ようやく端の方だけ、そっと受け取った。
「あ、ありがと……。篠森くん」
水滴よりも小さな声を落とすのが精一杯。顔はきっと、今日のおひさまより熱くなっているはずだ。
(やだ。こんな顔じゃ、変に思われちゃう……)
顔を隠したくて下を向いたままのユウコに、篠森は屈託なく声をかけた。
「ねえ、いっつもさ。ここから花見てるよね。好きなの?」
ユウコは上ずったままの気持ちで、コクンとうなずく。
「だよね。もうそろそろかなって思ってたのに今日いないから。どうしたのかなって、つい」
篠森は、照れくさそうに鼻の脇をかいた。
「私のこと知っててくれた……」
夢見がちなまま、ユウコは思わずぽつりとつぶやいていた。
「あっ」と我に返っておそるおそる見上げると、篠森とはじめて目があった。
「なんでよ、俺たちクラスメイトじゃん」
ふっと緩められた目尻。
いつも誰かに向けてしか見ることがなかったその表情が、今はユウコにだけ向けられている。
(もう。そんな顔……ずるい)
ユウコは手元のホースをぎゅっと握って、足元の花たちに助けを求めた。なにか言わないと。篠森に変なやつだと思われたくなかった。
「……朝練、いいの?」
やっと出たセリフがそれ。
ユウコの今の精一杯だった。
「やべ。じゃ俺、朝練戻るから」
篠森くんは帽子をかぶり直して、グラウンドへ駆け出す。
まるで春の風みたいだ。
ユウコは風にゆれる花のように、あわてて声をかけた。
「み、水、ありがとう……!」
篠森はくるっと振り返って、こっちを見て大きく手を振った。
「関谷っ!またな!」
逃げるように走っていった篠森の顔は、逆行で見えなかった。でも彼は、ユウコの名前をたしかに呼んだ。
花びらを散らす突風のような出来事に、ユウコは返事も忘れて、ただホースを握りしめたまま立ち尽くしていた。
春の空に放物線を描いた光の粒。篠森の声はいつまでも消えない虹のように、きらきらと耳の奥に残っていた。
ユウコの中の淡いもも色の小さな蕾は、
いま胸いっぱいに花ひらいた。
今回こちらの企画に参加しています。
恋心、難しいのねぇ。
ユウコは恋は伝わりますか。
もう私にはさっぱりわかりません。
いいなと思ったら応援しよう!
読んでくれてありがとう!うれしいです。