掌編小説|はじまりの声、終わりの呼吸
生まれたての赤ちゃんの泣き声が聴こえる。おぎゃあーっ──その小さな身体で、精一杯、言葉にならない気持ちを叫びながら、泣き声に変えながら、世界に向けて自分の存在を知らせようとしている。
同じ病院の、別の階で。ひとりの老人が、静かに息を吐いた。吸って、吐いて、吸って。それだけのことが、こんなにも重たいのか……と、今さらのように思う。
もう、いいや。ずっと、ひとりだったんだから。妻は、アルコール中毒で早くに亡くなった。残された娘を二人、ひとりで育てた。
吸って、吐く。
仕事をして、帰って、家のことをして。目が回るほどの忙しさだったはずなのに、思い出せるのはいつも足りないことばかりだった。下の子は、高校を途中で辞めた。姉の進学費用を助けるために。
あのとき、なにも言わなかった。なにも言えなかった。吸って。──うまく、吸えない。立派な親ではなかった。だから、最期くらい迷惑をかけずに逝きたかったのに。
おじいちゃん。──声がする。いつの間にか、孫は五人になっていた。小さな手が、何度も自分を引き留める。そのやさしさが、いまは少しだけ、痛い。
窓の外は、新緑の季節だった。葉はきらきらと輝いていて、青空が目に刺さるように眩しい。遠くで、赤ん坊が泣いている。
はじまりの声。
終わりかけの呼吸。
重ならないはずのものが、同じ空気の中にある。老人は、もう一度、息を吸おうとする。わたしは、その背中を見守っている。かつて、一緒にラーメンを食べに行ったその背中に重ねるように。まだ、あともうすこし。
了
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