掌編小説|月を渡る
冬の夜の川は、すぐに人の体温を奪っていくくらいにひどく冷たかった。橋の上から覗き込むと、水面は街灯の光を細かく砕いて、きらきらと反射させながら、ゆっくりと流れていた。黒い水の上に散らばった光は、割れてしまったガラスみたいに見える。触れたら切れてしまいそうで、それなのに、どうしてか指先を近づけてみたくなる。危ういものをうつくしく感じる。
こんな夜は、音がすこしだけ遠く感じることがある。遠くを走る車の音も、コツコツと歩道を歩くヒールを履いたお姉さんの足音も、みんな薄い膜の向こう側で鳴っているみたいだ。世界と自分のあいだに、透明な仕切りがあるような気がする。
ポケットに入れた手を握りしめると、指先がじんわりと冷たかった。ニュースでは、毎日のように誰かが亡くなっている。事故だとか、事件だとか、名前のついた理由で。
けれど、理由のない夜もあるのだ……と、彩は思う。画面の向こう側で、たしかに起こっている争いごとを見て、怖いと思ったことを、誰にも話せなかったこと。みんなが平気な顔をして、普通に笑っていること。そんなときに、彩の心は、ぽつり、ぽつり……と小さな穴が開いていく。そこから少しずつ自分が抜け落ちていくみたいな感覚になる。……さみしいのだろうか。
橋の欄干に手を置く。金属は思っていたよりも冷たくて、ひゃあっ……と、思わず指を離した。生きていることを嫌でも感じさせてくれる。皮肉だなあと思う。
川の音を聴いていると、どうしてか、色々なことを思い出す。子どものころ、冬の川には近づくなとよく言われたこと。手袋を片方流してしまって、母親に怒られたこと。すぐに手がかじかんでしまったこと。ああ、そのときはまだ、世界は真っ直ぐで純粋なように見えていたのに。
夜の川は、なんでも吸引してしまいそうな引力がある。壊される前に、自分から壊しに行きたい。一瞬で、全部を奪ってくれるなら。そんな衝動が、ふと胸の奥をかすめる。そして、そんなことを考えてしまう自分に苦笑する。人は案外、簡単に境界線の近くまで来てしまうのだ。向こうで誰かが、必死に生きたいと願っていることを知っているのに。
スマホの向こう側では、サイレンが鳴っている。煙が上がる。もくもくと。それを見ていられなくなって、彩はスマホを川へ落とした。ちいさな音がして、黒い水のなかに光が沈んでいく。もっと良く見たくて、彩は少しだけ身を乗り出していた。落ちていく光を、最後まで見届けたかったのだ。その瞬間、足の裏から、ふっと力が抜ける。世界が、すこしだけ傾いた。月が、反対側に見えた気がした。そのあとで、ひどく冷たい水が、すべてを包みこんだ。それでも川の中から眺める月は、変わらずきれいで、うつくしくて、まばゆかった。こんなにもうつくしい世界なのに。
気づいたら、彩は月の中にいた。薄くて黄色い幕のようなものに覆われていた。そこから見える景色は、ひどく遠かった。街も、人も、すべてが小さくて、ミニチュアのようだった。よく目を凝らすと、人の動きが見える。忙しそうに歩いている人。立ち止まって空を見上げる人。蠢く蟻みたいだ、と彩は思った。くるりと反対側を向けば、どこかで煙が上がって人が叫んでいる。また、くるりと反対側を向けば、試合で勝った選手が泣いて喜んでいる。
結婚式の鐘がなる。サイレンの音が鳴る。世界は、ずうっと、そうやって回っていたのだろう。泣く人と、笑う人が、同じ夜に生きているんだ。
彩は、しばらくそれを眺めていた。やがて、月の光がゆっくり揺れた。薄い膜のような光が、静かにほどけていく。その流れに身を任せて、目を閉じた。そして月の光のなかで、自分がどこまで薄くなれるのかを、ただ静かに待っていた。
了
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