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自分から見た母と、他人から見た母


私は40代。20代で結婚し、今は高齢出産で授かった子どもを育てています。

少しだけ家族構成を説明すると、私の父は再婚で、私は母にとって連れ子でした。血のつながりはなくても、実父よりもずっと深い関係を築いてきたと思っています。
そんな母のことを、今日は書きたいと思います。
(母本人の了承を得ています)

昭和の母の原点

母は昭和30年代生まれ。田舎の農家の三姉妹の末っ子として育ちました。
親戚はみんな小柄で、母も「食べ物が少なくて、いつもお姉ちゃんたちに譲ってた」と笑いながら話していました。
虫歯ができても歯医者には行けず、体調悪くても放置でやっと医者へかかったら栄養失調の診断。洋服もお下がりばかり。
決して裕福とは言えない時代だったそうです。

結婚、そして“母”になること

学校を出て働き始めた母は、人の紹介で父と出会い、結婚。
そのとき私はまだ3歳前。いきなり「一児の母」として東京での生活が始まりました。

慣れない土地での育児、家事、そして夫(=私の父)からの厳しい言葉や態度。母はストレスから体調を崩し、昼間寝込むことも多かったのを覚えています。幼稚園のお迎えに来られず、友達のおうちに預けられることもたびたびありました。

でも夕方、父が帰ってくる時間が近づくと、どんなに具合が悪くても起き上がって家事をしていました。
怒鳴られないように、とにかく“頑張る母”。
あの時間帯の家の空気の重さを、今でもはっきり覚えています。

それでも「笑える母」

そんな母ですが、ただ苦しそうな人ではありません。
冗談もよく言いました。

私が20歳前後のころ。
家の電話には、振袖や化粧品、アクセサリーの営業電話がひっきりなしにかかってきていました。
そんなとき母は、「娘はもう死にました…(泣きまね)」と真顔で応対して撃退していました(笑)

また、私が小学生男子のような下ネタを口走っても、怒るどころかノリノリで返してくる。
「やめなさい!」じゃなくて「それはすごい発想ね」と笑うタイプ。
今思えば、その「否定しない感じ」が、私の根っこを作ってくれた気がします。

また「私は本を読みたくても読めなかったから、本は好きになってほしい」と夏休みはほぼ毎日図書館に付き合ってくれました。(遠出できなかったこともありますが)
今思うと母は学習障害の可能性があったのかもしれません。文字がうまく読み書きできないことがあるとよく言っていました。
買った本や漫画に薄く鉛筆でルビを振って回し読みをしたり、「これはなんて読むの?」と質問に毎回答えていました。

他人が見た「母」は、まるで別人

そんな母を「明るい」と言われる日が来るなんて、思ってもみませんでした。
私が大人になってから、同級生のお母さん2人にこう言われたんです。

「〇〇(私の旧姓)さんのお母さん、すっごく明るくてしっかりした人だったわよ?」

え? あの母が?
私は思わず聞き返しました。

「いや、そんな感じじゃなかったと思いますよ……」

でも彼女たちは口をそろえて言いました。
PTAでは笑顔で話していて、仕事もてきぱきこなしていたって。


一方で、母の姉2人――つまり私の伯母たちから見た母は、また違った印象だったようです。
「おとなしい」「悪く言えば、決断力がない」
そんなふうに映っていたふしがあります。

だからこそ、母が熟年離婚したとき、伯母たちは口をそろえて驚いていました。

「よっぽど嫌だったんだね」
「まさか、そこまで思い切るとは」

その言葉を聞いたとき、私は少し胸がすっとしました。
母は長い間、“我慢することで”生き抜いてきた人。
その母が、ついに自分の人生を選び取った瞬間を、
周囲の人たちもようやく見たのだと思いました。

思えば、母という存在は、
見る人によってまったく違う顔をしていたのかもしれません。
外では明るく、家では必死に、家族の前では我慢強く。
そして、最後には自分の意志で新しい道を選んだ人。

そう考えると、母は決して「決断力がない」人ではなかった。
むしろ、決断のタイミングを見極める人だったのだと、今なら思えます。

“母”という役割の中のいろんな顔

母の中には、私が見ていた「家庭の中の母」と、他人が見ていた「外の母」、そして姉妹が見ていた「家族としての母」がいました。
どれも本当の母であり、どれもその時代を生きた“ひとりの女性”の姿でした。

自分が母親になった今、少しわかる気がします。
家ではうまくいかない日もあるし、笑顔を保つだけで精一杯な時もある。
でも外では「しっかりした母親」であろうとする。
あの頃の母も、きっとそうだったのでしょう。

母を「母として」ではなく「ひとりの人間として」見られるようになったのは、私自身が母になったからかもしれません。

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