つながれない即つながれる 西田幾多郎 『私と汝』について

普段、何かを考えるときはイメージや映像にしてからそれを文章に直すという順番をとっている。
視覚的に考えた方が無理がなく、的確に言いたいことが反映される。しかも、視覚的な手がかりを介して過去の記憶や体験が連想されるため、自分でも予想だにしない事柄が芋づる式に引き出され、意外にぴったりはまることもある。
そこでの言語化は「いかに脳みそを素敵な言葉で言い換えるか」の翻訳作業という感じになる。
昔はこれが苦手で、相当な「がんばり」を要していたが、最近は比較的たのしく書き起こせるようになった (実は、森茉莉のエッセイのような贅沢で豪奢な言葉選びにあこがれている)。

ただ、今回の話題は図の方が伝わりやすいと思うので、メモをそのまま載せることにする。

西田幾多郎『私と汝』を改めて通読したが、やっぱりこれなのである。
水よりも抵抗なく組織を均等に潤し、空気よりも圧迫なしに内側を満たす。
いくつか好きな箇所を引用する。太字にしたところは、全て語末に「!」をつけたいくらい。

「自己が自己の中に絶対の他を含んでいなければならぬ。自己が自己の中に絶対の否定を含んでいなければならぬ。・・・自己は自己自身の底を通して他となるのである。何となれば自己自身の存在の底に他があり他の存在の底に自己があるからである。私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何らの一般者もない。しかし私は汝を認めることによって私であり汝は私を認めることによって汝である私の底に汝があり、汝の底に私がある私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合するのである。」(上田閑照編『西田幾多郎哲学論集Ⅰ 場所・私と汝』pp.306-307)

「私と汝とは各自の底に絶対の他を認め、互に絶対の他に移り行くが故に、私と汝とは絶対の他なるとともに内的に相移り行くということができる。・・・我々が各自の底に絶対の他を認め、互に各自の内から他に移り行くということが、真に自覚的なる人格的行為と考えられるものであり、かかる行為において私と汝とが相触れるのである、即ち、行為と行為との応答によって私と汝とが相知るのである。」(同上, p.318)

以上をごく簡略化して図にすると、

こういうことだと思う。

私はこの世界こそ「ほんとう」としか思えないのである。
いやむしろ、このような世界が紛れもなく「ほんとう」であるから、日常世界が輝くといってもよい (どちらにしても同じことである)。

私は「ほんとう」を「ほんとう」だと認めてしまったから、「ほんとう」の「ほんとう」を損なわず、「ほんとう」につながれるとかたく信じてきたし、ずっと信じている。
私の中での行動選択の大前提に「美しさ」というのがあるけれども、根っこはやっぱりこれで、表現する言葉は色々あれ、要は絶対無が煌めくかどうかなのである。

以前は、孤独に孤高に「ほんとう」に浸かっていれば十分と、それこそ森茉莉的な、ロココな精神貴族、貧乏贅沢(ブリア・サヴァラン)の気分でいた。日常の煤煙の中から透き通る綺麗なものだけを、ひとつまたひとつと収集しては、色別に窓際に並べ、日がな眺めていればよいと思っていた。たとえ報われなくても。。
たしか、森茉莉は自分の審美眼にかなった気に入りのガラクタに囲まれて、孤独死状態で亡くなったのだった。
彼女は側から見たら哀れな老婆だったのだろうが、「鴎外に愛されたとっておきのマリア」であるのもまた「ほんとう」で。むしろ、後者のすがたの方に、確かな魂が映されているはずなのだ。


それはさておき、西田幾多郎である。
西田は抽象的な論理や特異な神秘体験を論じているわけでは全くなくて、あまりにも現実的なこと、この身体で経験したことだけを切に語っているのだと思う。
ただ、自分の内側ではこれほどまでに絶対的でも、誰かと共有せんとして外在化した途端、全く別のものに成り下がってしまう。その悔しさたるや。

西田の文章が内言的なのは、そもそもそういう世界が詳らかな説明にそぐわないからかもしれない。発された言葉にごく細い糸がついていて、放られた端から即座に内側に回収されていく。だが、「〜なければならない」と絶えず口にしているうちに、「なければならない」のおぼつかなさ、不確実性は脱色されるものである。
行きつ戻りつして進んできた道に散らばる糸が、歩みごとに踏み固められてゆく。激しく交錯する「なければならない」の糸は銀色の丈夫な織物となって、「そうとしか思えない!」の力強い確信の流れにおのずと転ずるのである。


「ほんとう」に向こうから魅入られるのか、それともこちらが魅入るのか。
それが美しいばかりに、私は「ほんとうのおもかげ」をあちらこちらに求めるしかないのだが、「ほんとう」には、このすがたでは触れることができない。

手の中に雪を包んで、大切に持って帰っても、大事がるあまりに、体温の熱で溶けてしまう。そっと掌を開いてもそこにはない。はじめから、なかったのかもしれない。でも、なかったことにはしたくない。

よって、たまりかねて
「早いとこそちらでつながりたいよ〜」といじけることも多いが、
「手に入ることには終わりがあるけれど、手に届かない遊びには終わりがないのです。それ以上におもしろいことってないでしょう」というふうに、毅然としたやさしさで自分を諭すこともできる。

なぜそこまで「ほんとう」にこだわるのかというと、ただ「つながりたい」ためである。
その背景には、「つながれない (少なからず、私はつながっている気がしない・私が求めるつながりではない)」ことがあるのだと思う。いわば、「つながれなさのつながりたがり」なのだ。
この、「つながれなさ」の「つながりたがり」について、少し考えてみる。

普段、多くの人々が「つながっている」場面を想像してみると、そこでは、疎通の成立、不成立にかかわらず、個物主体同士が水平に情緒や言葉をすべらせている。
そこで話されることは全く難しくないはずだ。しかし、交流の場に参与するための前提として「私」が成立している必要がある

この「私」の成立が大問題なのである。


私は、どうしても確たる自己というものが持てず、というか実感が全く湧かず、いつまでたっても自分がままならないことが猛烈にコンプレックスであった。

ただ、周りに合わせて真面目に振る舞うことはできたから、つつがなく、主張せず、淡々と与えられたことをこなして、やり過ごしてきたのである。
しかしそれは、「自分のなさ」をカムフラージュするための自己欺瞞でしかなかった。そのため、いざ「自分」が問われる状況に迫られると、「なにもない」ことが露呈する。どこかで見聞きした「個性」や「自分」が一人歩きしはじめる。結果、その辺の他者を完全に模倣しようとしたり、ちぐはぐな人格をやっつけで身につけたりして、逃避的に体調を崩した。
周囲が「自己を形成すること」を着々と達成していることにはたと気づき、同じような環境にいたはずなのにこれほどまでに差が出る自分の圧倒的な遅れと不足に苛まれた。しかし、「何が不足しているのかわからない」。その不安と焦燥感は相当なものであった。
思い返せば、意地悪をされたり嫌なことを言われたとき、状況を整理して返答しようにもテンポがあわず、相手がなぜそんな利益のないことをするのか行動の意図が理解できずに「?」を浮かべたまま勝手にハブられて勝手に関係が修復されたり、勝手にものを盗られ、盗られたものがいつの間にか返ってくるような感じであった。

そのように景色が過ぎ去っていった。

それから数年後、どうやらこうした「自己感覚の持ちづらさ」というのは、ASD(高機能自閉症)に見られることが多いらしいことを知る。自分というものが一向にわからず、主体が確立されず、周囲の影響を受けやすい。
かつて、単に自分は未熟で精神的に幼く、文字通り何か大切なものを欠落しているのだろうと思っていたため、「そういう人もいる」という事実は意外なものであった。それとともに、「そういう感じでもいいかもしれない」と心を軽くしてくれた。
私は専門機関で正式な診断を受けているわけではない (今のところすごく困っているわけではないから)。しかし、特徴をみる限り納得することが多いため、特性はあるんだろうな程度に捉えている。

ところで、この「ASDっぽさ」というのは極めて重要な要素だと思う。
近年、國分功一郎さんや熊谷晋一郎さんが現代哲学の知見と当事者研究を横断的に結びつけた議論を展開されているけど(『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』など参照)、西田をはじめとする京都学派の思想は「今・奔出型」、時間というものがとびとびの今の連続で、一貫した個人的歴史や「変わらない私」という自己概念を持ちづらいことを特徴とする「発達らしさ」と極めて相性が良いと思うのである(西田幾多郎がファッション性に欠けるせいか、思想トレンド的な意味であまりスポットが当たっていないのが残念)。

精神科医の木村敏先生がてんかんや躁鬱などの忘我的に現在に没入する心的時間を「イントラ・フェストゥム(祭りの中)」とあらわしていたが、すっと溶け込むように対象と一体化できてしまったり、理性的な分別の手前で衝動的に行動してしまうなどの特徴において、これらは似たところがあるかもしれない。発達性のトラウマ(記憶特性ゆえに、嫌な断片記憶が突然生々しく再体験される現象)も極めてイントラ・フェストゥム的ではないだろうか。

図1


図1は、これまでの内容の要約であり解説である。
まず、図1の上部、円錐の底辺は個物に対する一般、すなわち西田のいう「絶対無」の領域をあらわしている。ここは、主客の分別の手前であり、融通無碍にみるものとみられるものが入れ替わるなんでもあってなんでもない地平である。
そこでは、「わたし」は「わたし」であり「あなた」であり、同時に「わたし」でもなく「あなた」でもなく、あるいは「わなた」でも「あなし」でも「わなし」でも構わない (いずれにせよ大差ないことである)。
「絶対無の自己限定」「永遠の今の自己限定」というのはこうした「あなたでもわたしでもあり、どちらでもなく、どちらでもある」領域から「私」や「あなた」といった個物主体が絞られていくことである (強力な浮力で浮かび上がるビート板を抑え込み、ヨイショー!と上方に身体を持ち上げるイメージがある)。あてがわれる概念、用語は要所要所で異なっていても、動きは共通している。

ASD的な傾向ゆえに、一貫的な自己感、安定した「私という手応え」を持てないということは、大局的に捉えれば、絶対無から個物への自己限定の徹底が甘いということだと思う。厳密には、その都度の自己限定をいちいち間に受けてしまって(後のノエシス的契機の話とも関連する)、限定ごとのブレ・ズレをざっくりと均して統合できない。この「厳密に言えば」という実相と、「対局的に捉えれば」の見えを区別することは重要であろう。西田的に言えば、「非連続の連続」「非連続」に比重が偏ったものを地で行ってしまう。よく言えば細やか。悪く言えば実存にマジレスしすぎ。

西田は、死ぬことによって生まれ、生まれることによって死ぬ自己限定の否定作用が存在肯定に跳ね返る動きを繰り返し述べている。
これでいうと、個人内部で連綿と営まれる生死のゆらぎ・さざなみに対して「非連続の連続」のからくりが背景化されないことは、単独の個が生存する数十年間においては、「生」側がメインの図として表面化することになるところ、でんでん太鼓を高速で回した際、通常片一方の面しか見えないはずが、生と死の表と裏が切り替わる瞬間の断絶が常に際立っている感じと言えるかもしれない。
近代的な価値観では、生と死はオセロの黒と白のように断絶し、二分化した様態とみなされている。つまり、方向で言えば生→死 と不可逆的な図式で捉えられている。これに対して、生死のあわいが浮かび上がるということはどのようなことかというと、生⇄死 と往還構造を呈しているということではないだろうか。
これは、私⇄汝でも同様に言えることだ。

「個物が個物自身の底に絶対の他を見るということは、自己自身の底に絶対に自己自身を否定するものに撞着するという意味を有っていなければならない。かかる意味において絶対の他と考えられるものは、私を殺すという意味を有っているとともに、我々の自己は自己自身の底にかかる絶対の他を見ることによって自己であるという意味において、それは私を生むものでなければならない。」(同上, p.328)

つまり、
○⇄●⇄○⇄●⇄○⇄●⇄○⇄●⇄○⇄・・・ 
という非連続の連続(じゃばら)が、一般的な生死(我と汝でもよい)の見方では、
○とか●とかに一点還元されてしまうのである。
要するに、具体的な項の内容は別として、○や●に「まとまる」ことができず、代わりに○⇄●⇄○⇄●・・・という「ばらばら」が常に足元で展開されてしまって、構造が閉じない(実存が綻ぶ)ことが「自己の確立されなさ」の背景にあるのではないか。ここでは詳しく言及しないが、レヴィナスもこういうことを言っている気がしてならない。
(ちなみに、オセロの例で言えば、目の焦点をずらして、白と黒の碁を同時にぼーっと眺めつつ、どちらを特に見るということなしに、高速で目を瞬いてみると ⇄⇄⇄⇄・・・のイメージが感覚的に伝わるかもしれない)


では、自己限定に苦労するとは具体的にいかなることかというと、「私」という図を名乗りつつも「あなた」「わなし」「わなた」等々の可能項が完全に背景化されずに図に貼り付いたままになっている感じといえる (図中の説明②後半)。
また、図式の見方が一つに定まらずに右往左往することは、存在論的にダサいということも意味する (こちらの記事参照)。

このようなあり方だと、周囲の他者は自己限定をスムーズに達成して個物としての明確な形状を確立しているのにもかかわらず、自分だけ個としてのまとまりが「ゆるい」ような感覚に陥る。「ばらばら」(絶対無)に溶け出してしまうところを、苦し紛れに「私」にまとめる。同時に、決して特定の形に固まることのない流動生命への憧れを携えたまま。。


続いて、図2は、そうした「まとまらなさ」が実際に現実場面においてどのように体感されるか、さらにはそうした違和感がどのような帰結に発展するかを示したものである。

図2


通常、利害関係に若干の恩と義理の延長がまぶされたレベルの社会組織では、当たり前だが表層の個物実体世界で物事は完結している。
したがって、その水準の領域では、自己限定をとりあえず完遂し、個物実体化しないことには「私」同士の交流が成立しない。おおかたそこでは「私」というよりかは「我」の主張と対立が主に行われているのかもしれないが、一見すると何だか皆楽しそうで、自分というものをしっかりと持っているように見える(見える、という点が重要である)
一方、「一般」の地平で浮き沈みしている主体以前はというと、そうした雰囲気についていかなければ、私もその中に入って「自分」を確立せねばと駆り立てられ、実体のないアイデンティティを取っ替え引っ替えして苦しむ (図2上半分)。

合わせようとしても、合わせたつもりでも、場違い感。大縄跳びのリズムになかなか入れずに、じっとりと脂汗がにじむ。ここじゃない。
「やっぱりダメだったなあ」「変な感じになってしまったなあ」と、反省しながらとぼとぼ帰る。「つながれない」他者や環境はうにゃ〜と何となくぼやけて、遠く、嘘っぽく見えてくる。図の下半分で表層他者の圏域にもやをかけたのは、そのような意味での漠然とした離人感をあらわしている。

しかしながら、表層で「わかりあう」手応えを得られない代わりに、むしろ絶対無方面の垂直方向の実感、きっと「つながれるよ」の根拠のない根拠の感覚は非常にリアルである。むしろ、そこをリアルと思わないとやっていられない。
「私」という脆く儚い一点の図(外延)なんかよりも、背景に控える無限に湧き出る地(内包)の方が、ずっと豊かで直で美しいとわかっているからである。

木村敏先生は「あいだ」という概念が有名であるが、「あいだ」ないし「共通感覚(主客ないし、ノエマとノエシスの区別を可能にする根拠兵面、メタノエシス)」も表現は違うが、これまで述べてきた「絶対無でつながる」ということを精神科臨床の言葉にすることで、また違う色味が表に見えるように素材を編み直したものだろう。
木村先生はもともと音楽の素養があって、ピアノの名伴奏者であった(主旋律ではなくて伴奏者、というのがよい)。言葉からも、音楽をされていたことが何となくわかる。歌うように、身体で哲学を響かせる感じがやさしいのである。

自己成立以前のメタノエシス的な水源には自己もなければ他者もない。なにもかもが渾然一体となった「おのずから」の動きが見られるだけである。私が人と人との「あいだ」、自己と他者との間主体的な「あいだ」という概念で考えているのは、まさにこの「おのずから」の動きのこと、そこから自己が自己として、他者が他者として出てくるような源泉の場所のことである」(木村敏『あいだ』,pp. 206-207)


木村先生曰く、人や物を前にした時にそれを物象的な外的対象としてノエマ的に捉えた場合、ブーバーのいう「それ」的な関係性が生じ、対してそこで「メタノエシス的な共通感覚が私の意識野の中で前景に立って、それに伴って成立しているノエマ的表象の方にあまり注意が向かない場合」(p.122)に相手を「汝」と経験する場が開けるのだという。

これについて発達障害の機能特性から考えると、ASD者は物事に接する際の「ノエシス契機」が一般に対して強いという仮説が立てられる。通常、ノエマ的表象として大雑把に把握可能な現象すら、細やかで微視的な解像度で捉える。
一つ一つを同じ粒度で吟味するため(吟味しているという自覚はないが)、「どうでもいい」ものとして意識化せずに済ませられるものを「どうでもよくなくない」という二重否定を経由しなければならないのでやたら疲れる感じとでも言おうか。ドゥルーズ的には、ノエシス的関わりだと物事を「分子的」に捉えるようになり(○⇄●⇄○⇄●・・・)、ノエマ的に還元すると「モル的」にディテールが削ぎ落とされる(○や●)、と言い換えることができるかもしれない(このようなことは、上述した『<責任>の生成』でも似た方面からの言及がある)。

ちなみに、ここまで説明してきたことは、入不二先生の「円環モデル」で考えることもできると思う (図4)。

図4

左半分が円錐の底面部分、「絶対無」に相当し、出発地点「現に」から時計回りに進むにつれて、絶対無が透けてくる。井筒俊彦風に言えば、「分節と無分節の二重写し」のプロセスがじわじわ進む(それに伴ってこのようにある「私」の必然性は失われる)。
円環モデルによる解釈は、どちらかというと、極めて定型的、近代合理主義的な自己概念を持っている人、すなわち「私=私」の同一律の成立を疑うことを知らない人にとって有用だろう。根源的な同一原理が危機に陥る(あわや「私= ∞」に転じうるリアルがチラついてしまう)とき、「私= ∞」という危機的な状況を経てこそ「私= 私」の同一性が実感を持って感じられるようになるため (レヴィナス的には「われここに」)、「円環モデル」を自ら引き受けることができれば、いざというときに自分で自分を救えるようになると思う (いくら「このようにある私」が崩れたとしても、姿形はどうであれ「現に」に戻ってこれる)。


同じものを見て、同じように喜んで、同じように泣いてみたいけど、それはきっとかなわない。どうやっても他人だから。
さまざまな方向から違う色の光が交わって、それでも同じ「うれしい」にオレンジ色のランプが灯ったり、すれ違いの溝の深さが「や・る・せない・・」の形に右斜め下りに肩を落としたり、などなど、言葉の手前で魂がオン・ラインになるような温度の交流をしてみたいが、なかなかそういう感じにはいかない。
かなわない、かなわない、かなわない、と西田のように繰り返し呟いてみる。身体いっぱいに「かなわない」が広がって、内側に充満したせつなさは、そのまま「かなわない」を飽和させる。その過剰さは、突如流れをを変えて、急激な放散にむかう。そのとき、見た目には何一つ変化なしに、「かなわない」即「かなう!」に抜け出るような気がするのである。どうやっても我々が他人だからこそ。
それが「絶対の否定」を通じて弁証法的に結合するということなのではないかと思ったりする。そうすると、「かなわなさ」や「つながれなさ」それ自体が、「かなう」「つながれる」を透かす表層のすがたとして、愛おしく思えてくるのだ。

「愛は人格的でなければならぬ。人格的統一と考えられるものは、私において汝を見、汝において私を見るということでなければならぬ。非連続の連続として人格的統一というものが成立するのである、永遠の今の自己限定として時間的と考えられるものは、ノエシス的には愛によって基礎づけられていなければならぬ。真に個物的なるものは死することによって生きるものでなければならない (上田閑照編『西田幾多郎哲学論集Ⅰ 場所・私と汝』p. 260)」


かなう


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