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【問答集】 編み直される関係性で「立ち上がるコト」と「仮に定まるモノ」 / 開かれた対話と開かれた極限 アクターネットワーク理論

A:セザンヌの絵の塗り残しについて論じていたのはメルロ・ポンティかな。キャンバスの白い地が見えているんだ。絵画における塗り残しってまさに開かれた極限、オープンリミットだと思う。

B:またペギオ。。

A:なんかねえ、おもしろくってそればかり読んでいるよ。西田幾多郎とか仏教を色々経由した今読み直してみると、おもしろさの腹落ち度合いが違うんだ。東洋的なものって知識や座学じゃないよね。「わかる」とあー、そうかーと日常生活すべてがそのように色づいてゆく。元からそうだったかのように改変されていく。郡司先生に対しても、今そんな感じを受けつつあって。もちろん、数学の話をされるとちんぷんかんぷんなんだけど。

絵のなかの塗り残しは、それが単なる布に描かれた絵画に過ぎないこと、物質としての有限性を感じさせると同時にいまだ描かれない無限の景色を予感させる。物質として作品を限定づけながら(リミット)画家が及びうる範囲をどこまでも越え出ておのずから作品世界を拡張してゆくよね(オープン)。塗り残しであるからには、単にまばらな白地が目立つ中途半端な作品に堕する可能性もあったはずだ。そこで物質としての有限性が露呈したところでひたすら作品の質を下げるだけだろう。「最後までちゃんと塗れよ」とギャラリーに突っ込まれそうだ。にもかかわらず、セザンヌの塗り残しは「オープン性」を鑑賞者内部で立ち上げることに成功している。それはなぜだろう。画家の技能、黄金律のようなバランスがあるのか、いやそんなことはない。個人のなかでも、「セザンヌの塗り残し」が常にオープン性を開示するわけではないのではないか。「最後までちゃんと塗れよ」と突っ込みたくなる瞬間もあれば、空白の白にわたしだけのインディゴブルーを、見たことも食べたこともない神秘な果実を、前人未到の月の裏側を、幻視することだってできる。開かれた極限が開かれた極限たるのは、鑑賞者たる他者との関係性ありきの話なのではないだろうか。今一瞬「色即是空」もオープンリミットかと思ったけど、発想が安易かなー。「リミット即是オープン」

B:いやそうだと思うよ。オープンリミットも、色即是空も、あとはきみの好きな表現でいえば「no-where・now-here」もすべて「・」として表すことができるもんね。
郡司先生は透視図法における「消失点」と演劇や舞台の背景に使われる「書き割り」の性質の違いに言及している。前者は、画面上に消失点を指定することで鑑賞者に奥行きという視点を与える。しかしそれは画面の見方をひとつに限定付け視点を固定してしまうという意味で「リミット」であるという。他方で書き割りは平面に近景と遠景を同居させる。郡司さんは書き割りにおいて近景と遠景の区別が無効化されることによって描かれたものの「外部」を予感させると述べているよ。

A:消失点は「リミット」、書き割りは「オープン」においてその機能が開かれるというところか。

B:それでいうと、セザンヌの塗り残しはオープンでありリミットでもあるという揺らぎにおいてそのどちらでもないと言えるのかな。興味深いのは、それが常に「オープン」や「リミット」という機能や性質を与えられているわけではなくて、観察者次第で開かれたり、閉じたりするというところだ。

A:本当そうなんだよ。「セザンヌの塗り残し」に対して「最後までちゃんと塗れよ」とマジレスしてしまうこともあれば、あー・・・と言葉が要らなくなる場合もある。なんかそういう、他者との遭遇によってその場で瞬間仮に定まるモノ、立ち上がるコトってあるよね。そもそもセザンヌの塗り残しに特段目を止めずにスルーしてしまうことだってある。「あっ、ここ塗られてない」と気にかかり、ふと足を止めるかどうかもオープンリミットの発生に与しているよね。「立ち上がるコト」においてセザンヌの塗り残しにおける「オープン性」が展開されたり、インディゴブルーの表象をおもむろに想起する「わたし」の析出が「仮に定まるモノ」の一環としてなされるわけだ。

B:つい先日、IAABのイベントでアクターネットワーク理論の伊藤先生の講義を少し聞いたよ。「述語的な関係は主語的な項に先立つ」という理論に思われた。つまり、関係性のなかで「立ち上がるコト」が「仮に定まるモノ」をまとめ上げ、まとめ上げられた項 (アクター)たちが、さらに「立ち上がるコト」を動的に編み直し、発展させてゆくような印象を持ったよ。極めてプラグマテックで日常にコミットした理論であるということも興味深かった。
 アクターネットワーク理論では、「もの」のあり方にその関係的機能の面で二種類に区別されるらしい。「中間子」「媒介子」という。中間子は、入力と結果にズレがなく、意図と実現が一致するようなものを指す。意味をそのまま伝達し、計算で予測可能で、制御できるもののことだね。一方、「媒介子」は日常の会話のように予測できない、どこに飛んでゆくかわからない複雑性を秘めている。関係性の中で意味が多様にずれたり、捻じられたり、変換されたりするものらしいよ。

A:ふーん。なんか中間子は出来合いの体系内部に閉じていて端的につまらん感じがするね。そういえば、ガタリが『カオスモーズ』で貧困な意味行為として「シートベルトが外れています」という機械的に反復される警告メッセージを挙げていたけど、中間子的な乾いた意味交換のあり方と言えるのではないか。マックのポテトが揚がった音みたいなものだ。

「パロールが空ろになるのは、法の、そして事実、身振り、感情に対する管理の秩序・命令につながっている文字言語からなる記号学の支配に下るときです。「シートベルトが外れています」というコンピューターの声の意味に曖昧なところはありません。反対に通常のパロールは、非音声的言語と言われる記号論的構成要素をできるだけ維持しながら、生き生きとしたものであり続けようとします。そこでは抑揚、リズム、顔の表情、しぐさなどからなる表現の実質が、交わり、つながりあい、重なり合って、シニフィアンの循環性という専制をあらかじめ払い除けています」(フェリックス・ガタリ『カオスモーズ』, p. 142)。

今ちょっと読み直しただけだけど、これすごいアクターネットワーク理論と親和的だね。「パロールは何によって満たされているのでしょう。内と外、潜勢の線、可能なものの場によってです。単なるコミュニケーションのための媒介物、情報伝達を実施するものではなく、ここに在ることを生じさせるもの、宇宙的な即自と主体にとっての対自とのインターフェースとなるのがパロールです」(p. 142)だって。いいなあ。ここでは満ちたパロールを「媒介子」、空疎なパロールを「中間子」と対応させて理解することもできそうだ。

B:ガタリは、いかに文脈から脱領土化して「立ち上がるコト」を動的に編み直し「仮に定まるモノ」をアジャンスメントし続けるか、みたいなことを言っているよね。今読むと改めておもしろいな。

A:うん。ガタリの言葉から、パロールには媒介子的側面と中間子的側面がある、とここでは理解したよ。また、オープンリミットでいうと「媒介子的側面」は意味を開放するオープン「中間子的側面」は意味を確定するリミットであるように思われる。またそれは「セザンヌの塗り残し」と同様、常に媒介子的側面や中間子的側面が一定に定まっているものではなくて、連関次第で媒介子になったり、中間子になったりすると思うんだ。その意味で、アクターそれぞれが「オープンリミット」として漂っているのではないかと考える。

B:「中間子は関係性を停滞させてしまうからダメで、媒介子は関係性を創造的に拡張するからいい」とかそういう話ではないもんね。その区別自体が、「わたし」や「あなた」の析出と同じくして「立ち上がるコト」であり「仮に定まるモノ」でもあると思うよ。なんでもいいけど、目の前のありとあらゆるものに媒介子的側面を見出していくような感性や構えが重要な気がするな。谷川俊太郎に「ポエムアイ」という作品があるんだけど、ちょっと思い出した。「詩人の目」だ。「すべてを詩の視線で眺めること、ポエムアイ!」(「ポエムアイ」)。

A:アクターネットワーク理論の話を聞いていると、フィンランド生まれの心理療法「オープンダイアローグ」のことがずっと思い浮かぶんだよね。「関係は項に先立つ」という中核部分が明確に重なると思う。オープンダイアローグでは治療者が患者を変えようとか、治そうといった主体先行型の介入ではなく、ただチームの中で対話が続いていくことを重視するんだよね。それはとかく曖昧な述語の流れにメンバーが身を任せ、「立ち上がるコト」や「仮に定まるモノ」を待ち、呼び込む仕掛けを作り出す共同体のように思われる。主語を溶かして、たくさんの声が勝手に鳴り響くような空間。ガタリのいう豊かなパロールの記述「非音声的言語と言われる記号論的構成要素をできるだけ維持しながら、生き生きとしたものであり続けようとします。そこでは抑揚、リズム、顔の表情、しぐさなどからなる表現の実質が、交わり、つながりあい、重なり合って、シニフィアンの循環性という専制をあらかじめ払い除けています」(p. 142) ってまさにこれだね。決して主語を急いで立てようとせず、媒介子としての対話を維持し続ける時間がセラピーには、いやセラピーに限らずわれわれの生には必要だと思うな。

B:オープンダイアローグが統合失調症に大きな効果を示すということも関係すると思う。神田橋先生は「統合失調症は統合「失調」症ではなく、「統合」病」だと言っていた。項がいわゆる「自性あるものとして」存在するって生き物として不自然なんだよ。はっきりと他から区別された主体とは、近代社会の要請によって仮設されたものでしかない。思春期には誰しも主体化に葛藤を抱くものだけど、患者さんはそのズレやギャップが通常よりも大きくて、「主体なるもの」に向かって懸命に「統合」しようとする人たちなんじゃないかと思うよ。そこでオープンダイアローグは厳密な主体や自性あるアクターを前提とせず、ポリフォニーを尊重する。それはすごく繊細で大事なことなんじゃないかな。

A:なるほどねー。すると「オープンダイアローグ」「オープン」「オープンリミット」「オープン」であり、媒介子たる対話の実践ということか。郡司先生が『やってくる』で言っている「対話におけるワイルドマン=カブトムシ」ってこれだと思うよ。

B:またペギオ。。


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