舞台感想:あやめ十八番「草創記金鶏一番花」
はじめに
悪趣味!でも最高に面白い!
待ちに待ったあやめ十八番さんの第十八回公演は、最高の観劇体験を私に与えてくれました。
堀越涼さんの脚本を、あやめ十八番を、谷戸亮太さんを好きでいて良かった!そう思える舞台でした。5回も通ってしまったけれど、全く後悔はありません。
金原博士がその生涯で得た教訓、そこで物語が終わっていればそれは「美しかった」のに・・・そこで終わらずに、あのエンディングを迎えるからこそ、あの舞台は面白く、そしてあやめ十八番らしいのだと思います。
物語の年表
さて、この物語はフォーカスされる人物や時間軸がよく変わります。物語をより理解するために、大まかな年表を作ってみました。
ノーカット公演台本と史実を頼りに作りましたが、間違っているところもあるかもしれません。素人の制作物としてご容赦ください。もちろん、ネタバレもりもりなのでその辺りもお気をつけくださいませ。

「サチ」と「お狐さま」
さて、時間軸を整理したところで、この物語における2人(人?)の不思議な存在に着いて考えてみたいと思います。
金原博士の人生においてほぼ常に隣にいる少女「サチ」と、栄国稲荷神社の「お狐さま」。あやめ十八番所属の中野亜美さんと金子侑加さんがそれぞれ演じていらしたこの役は、物語の中で重要な役割を果たしていました。
そのどちらも、人ならざる存在です。この2人は一体なんなのか。
私は、物語の中で金原博士が語る通り、戦前起こりえた「摩訶不思議で説明のつかないような出来事」だと解釈しています。
幽霊の正体見たり・・・とはよく言ったもので、この2者に現代的な科学的な理由づけをすることも可能です。例えば、金原少年は自分のことを「頭の出来がそんなによくない」と言ってはいるものの、子供たちが新聞を読むシーンではそれを読み上げるように名指しで指名されています(ここで金原少年を指名する子どもを演じている谷戸さん可愛らしかったですね)。少なくとも、漢字が読めてあの子供たちの中でも頭一つ抜けて賢かったことの表れではないかと思います。そのため、金原少年は自己評価よりもずっと頭が良く、「サチ」ではなく本物の校長先生が母を説得しにきたことだって充分にあり得るのです。「サチ」が校長先生のふりをして母を説得しにきたという記憶は、金原少年の自己評価の低さが歪めさせたものである可能性だってあります。
ただ、私は、本当に「サチ」がなんらかの不思議な力を働かせ、校長先生となって母親を説得しにきたと思いたい。
私は平成生まれです。戦前のことを、いや、昭和の時代すら知りません。だからこそ、その時代に夢を見ている部分はたぶんにあります。現代の視点で見れば科学的に説明できることはたくさんあるかもしれない。でも、その当時は「不思議」なことが「不思議なもの」として受け入れられていたのだと思います。だから私も、この物語においては現代的な解釈をせず、あえて「不思議なもの」を語られるままに受け取ろうと思います。
「サチ」に関しては、金原氏の友人であり、心の支えであったと思っています。物語を明るく照らしたその存在は、太陽のようでした。
「お狐さま」は何なのかー単なる「悪」?それともー
では、「お狐さま」は?ラストシーンの惨劇を生み出したこの存在。ここだけ見ると、「悪」であるように思えます。ただ、坂東天五郎の成長と活躍は本物でした。彼の名声は「お狐さま」と契約してから得たものです。その時点に関して、「お狐さま」は確かに天吾郎を救い、プラスの存在としていたのです。
「お狐さま」と契約したのは1910年。天五郎に息子・邦正が生まれたのは1920年。その間10年が経っています(年表参照)
それからさらに6年後、邦正が肺炎になり天五郎が「お狐さま」に助けを求めに言った時、「お狐さま」はこう言います。
「こまったときだけ、かみだのみ。ちかごろじゃ、あたいをそでにしていたに、ずいぶんつごうのいいこった」
この言葉通り、10年以上経つ中で、成功した天吾郎は「お狐さま」への感謝を忘れていたのだと思います。いや、そもそも契約した時誓った「覚悟」を失っていたのではないかと思います。
栄国稲荷から木箱を持ち帰り、契約を交わす際、天五郎はこう言っています。
「お狐様は末代まで。みんな、端から承知の上だ」
この時の天五郎は、自身の不味い芸を理由に生きるか死ぬかの瀬戸際にいました。父親を失い、路頭に迷いかけたその身体で、すがる思いで頼ったのが「お狐さま」だったのです。
この時、天五郎はまだ父親ではありません。子を持つような余裕は彼にはありませんでした。だから私はこう思っています。契約を交わした際、彼は自分が「末代」である覚悟があったのではないか、と。生き死にの瀬戸際で、役者として生きるため全てを捨てる覚悟があったのではないでしょうか。
しかしその後、天五郎は歌舞伎役者として大成します。「お狐さま」に習った芸は、彼をスターダムに連れて行きました。歌舞伎座の柿落としに呼ばれるまでに。
そんな生活で、かつて「全員死ねば良い」と祈っていた男に、刹那的ではない「今」を生きる気力が湧いたのだと思います。天五郎は子を愛する父親となりました。ただ、この明るく前向きな生活の中で、彼は「お狐さま」のことを忘れてしまった。「お狐さま」の手によって得られた今の生活だというのに。
邦正が肺炎となり、その時改めて、天五郎の中で「お狐さま」に対する信仰が復活したのだと思います。邦正が青年となった時に、天五郎は「人払いをして稽古をしている」と言っているので、その信仰はこの後ずっと続いているのでしょう。しかし、その信仰は天五郎の中だけに留められ、邦正はそのことを知りません。
邦正は何も知らなかったのです。父親が「お狐さま」と契約したことも、自分がその婿となっていることも。物語の終わりを彩る惨劇は、邦正が「お狐さま」ではなくさなえと婚姻を結んだことが原因の一つです。
「お狐様は末代まで」こう言いながらも、真に理解できてはいなかった。天五郎の「脇の甘さ」が、「お狐さま」を脅威たらしめたのでしょう。「お狐さま」は、天五郎の芸を助けた、それ自体は事実としてあるのですから。
(もっとも、「あんたら、ころしあいがすきだから、こんなとこまできたんだろう?」の台詞からもわかるように、元来人とは相容れない存在であることもあるでしょうが)
「お狐さま」は何なのかー作劇の上でー
さて、天五郎、そして邦正の人生における「お狐さま」の立ち位置について書きました。では、「草創記金鶏一番花」という作品においては、「お狐さま」はどんな役割を果たしているのでしょうか。
狐面や暗闇に浮かぶ提灯の光の怪しい魅力は、物語に一層の深みを与えています。この物語が「歴史物」ではなく「ダークファンタジー」となっているのは、「お狐さま」の表現によるものです。
金原博士にも、邦正にも、モデルとなった人物がいます。「草創記金鶏一番花」のベースには史実があり、現代に地続きです。しかし、これはあくまでフィクションであり、堀越涼さんが作り上げた虚構の世界に過ぎない。この「虚構性」を高めているのが、「お狐さま」と「サチ」という二人の人外なのだと思います。
舞台は、エンターテインメントです。娯楽です。人を楽しませるためのものです。
モデルとなった人物の生涯は非常にドラマチックで、そのまま描いてもきっと面白くはなるでしょう。しかし、さらにこの人生をエンタメに、物語として美しく描くための「飛び道具」が2人の人外だったのではないか…私はそう考えています。
これは、舞台の「「娯楽性」に真摯に向き合った結果であると同時に、モデルとなった人物を物語と切り離すという誠実さでもあると思っています。
モデルの人物を、エンタメとして消費される存在から切り離す。あくまで観劇者が消費するのは「金原賢三」と「清水邦正(坂東天鼓)」という虚構の存在である。モデルを尊重しているからこそ、虚構性が高くなっているのだと思います。
女優・金子侑加さんについて
さて、長々と書いてきましたが、そのほとんどが「お狐さま」についてとなりました。
このことからもわかるように、今作、「お狐さま」のインパクトがすっっっごいんです。登場するだけで場が不安になり、惑う。そんな役でした。
また、最終局面の益次郎↔️お狐さまを行き来するシーンは圧巻。金子さんのとてつもない演技力を感じました。今回私は5回観劇する中で3回、それぞれ別の友人を連れて行きましたが、3人全員が最初に言及したのがあのシーンでした。観劇歴の長短に関わらず、見た人の度肝を抜くあのシーン。堀越さんは金子さんを本当に信用しているし、金子さんもそれに完璧に応えてみせるなぁ、というのが私の感想です。
思えば、私がはじめて生で見たあやめ十八番作品である「六英花朽葉」でも、活動弁士として1幕のほとんどの台詞に金子さんが声を当てていたり、7月の「音楽劇金鶏二番花」でも、老婆から若い女性までのグラデーションを見事に表現していたり、金子さんっていつ見ても無茶苦茶なことをやっています。
金子さんの魅力の一つに「声」があると思います。二番花でも年齢の違いを声で表現していました。そして今作では、声で二つの役柄が異なる存在であることを表現していました。
金鶏だけでも、きよこさんの美しく可愛らしく溌剌とした声から、益次郎の低く、「作った」感じの声、お狐さまのただならぬ感じの声…声色が豊富すぎて、しかもそのどれもが役にピッタリすぎて驚きます。
と、思えば、益次郎↔️お狐さまシーンでの身体表現にもびっくりさせられるし…。家に帰ってからあの動きを真似してみましたが、まっったくできませんでした。あのしなやかな動きをするだけでもすごいのに、そのままあの声を出して演技し続けてるんだからとんでもない。
月並みな言葉になりますが、ものすごい役者さんだと思います。観劇後、ブロマイド買っちゃった…。
終わりにー骨の髄まで谷戸さんオタクー
さて、このnoteのほとんどが「お狐さま」≒金子さんの話になりましたが、そもそも私は谷戸亮太さんのオタク。あやめ十八番に出会ったきっかけも谷戸さんですし、今回5回という回数通ったのも、谷戸さんが出ているからこそ、です。
今作、ここまで書いたように金子さんが凄まじかったのですが、同じくらい谷戸さんも素晴らしかった!!!!!谷戸さん演じる徳地達平は、その出番のほとんどが2幕にあるため、1幕では金原少年の友人や海兵、金原少年の父親、義母(⁉︎⁉︎)などさまざまな役柄を演じていらっしゃいます。そのどれもが、一人の「人間」としてそこにいました。
私はオタクです。どうしても、推しが出てきた時に「推しだ!」と思ってしまうところはあります(そしてそれに対しての罪悪感もあります)。
ただ、今作においても谷戸さんはどの場面でも完璧にその人間として存在していました。そして、その場における主人公を引き立てる演技をされていました。
だからこそ、谷戸さんを「谷戸さんとして見る」以前にこの舞台を舞台として楽しむことができました。谷戸さんっていつもそうで、見ている最中には物語に没入させてくれるから個人を感じさせないんです。ただ、見終わった後に「あのシーンのあの演技好きだったなぁ」とか思い返すとそこにいる、そんな役者だと思っています。
そして2幕。ネームドキャラクター「徳地達平」。本当に魅力的な人でした。その魅力を振り返ると、それは「動作」と「間」に起因するものが多かったと思います。
仲間の前で見せる飄々とした態度、上官を前に畏ってみせたかと思えば、歌舞伎のシーンでは親しげに立ち並ぶ姿。雁部のお腹を触っていたり、大蔵伍長を引き入れる場でちょこんと座っていたり、そういう動作一つひとつが魅力的でした。
「少年の夢が、世界を変えるのですね」のシーンに代表されるような「間」の取り方も絶妙で、その台詞と台詞のあいだの「間」だけで、徳地達平という男が、いかに社会を生きてきたかがわかるような気がします。
最終幕の「白浪五人男」の口上では、徳地のものが一番その性格について言及しています。今作の中で、徳地自身の性格にフォーカスされたシーンはあまりありません。でも、谷戸さんの演技を見ていれば、彼がこの口上通りの人間であると誰もが納得できるのです。
というわけで、私が大好きな俳優・谷戸亮太さんをベタ褒めしたところで、このnoteを終えたいと思います。「草創記金鶏一番花」本当に面白い舞台でした。この舞台に出会えたことを、幸せに思います。

