高橋和巳「捨子物語」の初版本
「千の点描」短編小説群 (第一八一話)
大丸百貨店の前を東に向かい、四条通りから寺町通りを上がり、錦市場の入り口を左に見てさらに少し進むと一軒の古本屋があった。京都なら、どこにでもあるようなごく普通の古本屋で、店の店頭にはさまざまな古書が雑然と積み上げられていた。計画してレイアウトしたという具合ではなく、時代の大きな流れやその時々の世相に抗(あらが)わず、なるようになるという商いの精神で自然に出来上がった「古本屋」という空間であった。
その一角に簡単な鍵のかかったガラスのケースがあって、そこには珍しい本や、初版本など二、三〇冊ほどの希少本が飾られていた。古本だけではなく、江戸期から明治期の浮世絵や引き札なども置かれていた。寺町通りを通る時は、その古本屋に立ち寄るのが私の習慣になっていて、ささやかな楽しみの一つだった。
ある日、この古本屋に立ち寄って、いつものようにガラスケースの中を覗くと高橋和巳の「捨子物語」があった。そのすぐ隣には、題名は忘れてしまったがやはり稲垣足穂の初版本が置かれていた。高橋和巳の「捨子物語」は、後に出版されたハードカバーの立派な本ではなく、高橋和巳が無名の頃に自費出版した本だった。
高橋和巳の「捨子物語」は、彼の本格的長編小説の処女作といわれるが、この自費出版の本は製本のシンプルさからもうかがえるように、正真正銘の初版本だった。高橋和巳の小説の愛読者だった私としては、この本が喉から手が出るほど欲しかった。しかし、確か六万円か七万円の値札が付いていて、二〇代半ばの私にはちょっと手の出ない価格だった。それ以降は、この古本屋に立ち寄ると、ショーケースの中を覗き込むのが癖になり、「捨子物語」がまだ残っていることを確認すると、溜息をつきながらも、少し安心したものだった。
私が高橋和巳の愛読者であった背景には、まず「散華」をはじめとする彼の優れた著作がその出発点にあったことは言うまでもないのだが、実は意外な人物が側面的に私の高橋和巳へのこだわりを支えてくれていた。といっても、こじつけのような曖昧な理由に過ぎないのだが、私自身の中では深い因縁のような実感があった。私が高校生だった頃、一時京大文学部の「中国文学」への進学を希望していたことがあった。それは単に「中国文学」への興味ではなく、中国文学の泰斗(たいと)だった吉川幸次郎教授に憧れてのことであった。
吉川幸次郎教授は、実に頑固を絵に描いたような顔をしていた。詳しい人に聞くと、教授の大学での若い学者に向けての指導は極めて厳しいものだったそうだ。しかし、彼が出題した京大文学部の入学試験の「漢文」の問題はとても平易なのだ。この問題ならなんとかなると受験生に思わせる。受験を控えていた私は、これまでの「漢文」の出題傾向を調べる過程で、そのアンバランスさに興味を持ったものだ。
普通学者は、自分の学問領域の権威を誇示するために、その分野を目指す後進に対して必要以上に難解なイメージを与えたがるものだ。ところが吉川幸次郎教授は、誰でも漢文学に親しめるように敷居を低くし、その向こう側にどこまでも広がる学問の深淵を用意してくれているように思ったのだった。後になって考えれば、吉川幸次郎教授が毎年入試の問題を出題していたわけでもないのに、なぜか極めて個人的な親近感の中で考えていたのだが、そんなことがきっかけで、吉川幸次郎教授の著作を読むようになり、やがて彼に心酔するようになった。
その頃に、高橋和巳という若き気鋭の小説家が登場した。高橋和巳は、創作活動とは別に、リベラルな社会的発言でも知られていた。しかし彼の小説には、彼のリベラルな思想とは微妙に乖離(かいり)する古武士然とした日本的な倫理観が感じられた。
それが私の好みに合うのか、高橋和巳は私の好きな小説家の一人になっていった。迂闊(うかつ)にも私は、高橋和巳の私的なことにほとんど無関心だったが、ある時、高橋和巳が吉川幸次郎教授の京大文学部における愛弟子であることを知った。それからは、高橋和巳の毅然とした倫理観が、吉川幸次郎教授譲りではないかと勝手に想像し、高橋和巳への思い入れも一層深くなったのだった。しかしその思い入れはあくまで観念的なものだった。ところが、それからしばらくして、今度は高橋和巳との間に物理的な接点を持つことになり、やがて因縁めいた縁を感じるようになった。
私は大阪の出身だったが、高校三年生の時に、我が家が京都市左京区の下鴨に移り住んだ。京都は不思議な街で、人でも事でも京都的ではないものには排他的だ、かといってそうしたものを能動的に排除する訳ではない。だから京都での異端がそこここに根を張って、アバンギャルドが育ったりもする。京都の下鴨に住んですぐの頃に、家の近所を徘徊(はいかい)していると、家の壁に油性マーカーで「コーヒー」と書かれた普通の家があった。大阪人は遠慮がないので、その家に躊躇(ためら)わず中に入ってみるとコーヒーの匂いがする。
対価を払えば美味しいコーヒーが飲めるという意味では喫茶店といってもいいが、コーヒーはあくまでコミュニケーションのためのメディアのようだった。いろんなアーティストや文化人、学生、社会活動家、映画俳優、職業不詳の人がただ屯(たむろ)して、ただ話し合っているだけの空間だった。別に私の素性を詮索する人もいなくて、二度、三度と訪問する度に何人かの友人ができた。その中に、壁画作家と自称する男がいて、彼に誘われてちょっと風変わりな読書会に参加することになった。
この壁画作家は、好きな壁画作家として半ダースほどの作家の名前を挙げたが、私が知っているのはメキシコの「シケイロス」くらいで、その他の作家の名前もまったく知らなかった。この壁画作家によると、世界中には様々なタイプの壁画作家がいて、日本でも各地にたくさんいるそうだが、私は「岡本太郎」の壁画以外にはあまり見たこともなかった。この壁画作家も、たくさんのデッサンを描いていて私に見せてくれたが、まだ一度も本当の壁に描いたことはないという。日本ではメキシコやアメリカのように、壁画を描かせてくれる建物自体ががないというのだ。
壁画を描いたことがない壁画作家というのが気に入って、彼が勧める読書会に参加したのだったが、思いもよらないことにメンバーの中に高橋和巳がいたのだ。私はあくまでオブザーバー的な参加だったので、読書会の趣旨や性格はよく知らない。しかし、参加しているメンバーの顔ぶれを見るといずれも文学青年とは縁遠い雰囲気の人たちばかりだった。読書会での高橋和巳の役割もよく分からないが、少なくとも、高橋和巳の懐の深さとユニークな人間関係の一端を覗いたような気がした。
とにかく、一度だけだが高橋和巳と読書会で同席してからというもの、私の中で高橋和巳の存在はさらに大きなものとなっていった。その頃すでに、高橋和巳は作家として名を成していたが、京大の助教授として、作家と中国文学者の二足の草鞋を履いていた。私が寺町通りの古本屋で最初に「捨子物語」に出遭ったのは丁度その頃だった。自費出版の「捨子物語」を何度も買おうと思ったものの、当時の私の懐具合から考えると、六万円や七万円というのはかなりの大金で、店の前を通るたびにいつも買うか買うまいか躊躇(まよ)っていた。
自分のことはさて置いて、六万円も七万円も出して高橋和巳の「捨子物語」の初版本を買う人はいないだろうという勝手な思い込みがあって、是が非にでも手に入れようという意志がありながら、購入の決断を少しずつ先送りにしていた。ところがある日、家に帰って何気なく新聞を開くと、高橋和巳が結腸癌で亡くなったという記事が出ていた。彼の死は、一九七一年の五月三日のことだった。
読書会で高橋和巳と顔を合わせてからそれほど年月が経ってはいなかった。私には彼の若さと、読書会での元気な様子から考えて、彼の死はまったく予想もしない出来事だった。高橋和巳の愛読者であった私がひどく落胆したことはいうまでもないが、不謹慎なことに彼の死を知って最初に頭に思い浮かべたことは、あの寺町の古本屋にあった「捨子物語」の初版本のことだった。
後しばらく経てば彼の死が広く知れ渡り、自費出版の「捨子物語」が売れてしまう。そうでなくとも、さらに高額になるだろう。それだけは避けたかったので、ついに「捨子物語」の初版本を買う決意をした。そこで、高橋和巳の死を知った次の日の朝、急いで七万円を引きすために銀行に寄って、寺町通りの古本屋に向った。阪急電車・河原町駅の新京極につながる地上出口を出て、そのまますぐ隣の寺町通りに入った。「捨子物語」はまだ私の手の上には載っていないが、気持ちの上ではもう確かに自分のものだった。店が眼に入ると、自然に足早になり、あっという間に古本屋の店頭に立っていた。
私の視線は真っ先に稀少本が陳列されたガラスケースに向ったが、確かにまだ「捨子物語」の初版本はケースの中に収まっていた。まずは安堵の気持ちが心と体に広がり、一呼吸置いてから、「捨子物語」の初版本に眼の焦点を合わせた。そして無意識に本の前に置かれたプライスカードに視線を移すと、そこには一五万円という文字が黒々と記されていた。つまり「捨子物語」の初版本の価格は、一夜で二倍以上になったのだった。高橋和巳の死が新聞で報じられてから、ほとんど時間も経っていなかったが、古本屋の主人は、確実にそのニュースをつかんでいたのだ。古本屋の主人の日頃ののんびりした様子を知っているだけに、その迅速さはまったく私の想定外であった。
