光陰矢の如し—— 時はなぜ歳とともに速くなるのか
「もう一年の半分が終わった。」
高齢になると、多くの人がこう口にする。
現役時代ほど忙しくもない。
むしろ毎日はゆったりと流れている。
それなのに、
一週間、一ヶ月、一年が、
若い頃よりずっと速く過ぎていくように感じる。
これは、なぜなのだろう。
◇「人生の割合」だけでは説明できない
心理学からは、
よく「ジャネーの法則」が紹介される。
五歳の一年は人生の五分の一。
八十歳の一年は八十分の一。
人生全体に占める割合が小さくなるため、
一年が短く感じられるという考え方である。
確かに一理あるかもしれない。
しかし、それだけでは何か物足りない。
私たちは人生の割合を計算しながら生きているわけではないからである。
◇本当は「記憶」が時間を作っている
若い頃は、初めて経験することの連続だった。
初めての学校。初めての仕事。初めての恋愛。初めての子育て。・・・
脳は、それらを細かく記録する。
だから振り返ると、
一年間がとても長く感じられる。
一方、老年になると生活は落ち着き、
毎日は穏やかなリズムになる。
そのため、
脳は一年を一つにまとめて記憶するとのこと。
振り返れば、
「あっという間だった。」
となるらしいのである。
◇しかし、問題は時間の長さではない
ここで思い出すのが、
心理学者アドラーの言葉である。
「人生は限りあるものである。
しかし、生きるに値するには十分長い。」
人生の長さそのものには、大きな意味はなく、
問題は、与えられた時間をどう使うかだという。
今日という一日を、
何を思い、
誰のために使い、
どんな心で過ごすか。
人生の価値は、その積み重ねによって決まるという。
◇エリクソンは"時間"より"人生"を見ていた
老年心理学者エリクソンは、
人生最後の課題を
「統合」と「絶望」
という言葉で表した。
人生を振り返って、
「よく生きた。」
と思える人には、
時間は静かな充実感を伴って流れる。
一方、
「ああしておけばよかった。」
という後悔ばかりが残ると、
過ぎ去った時間は重荷となる。
同じ八十歳でも、
同じ一年でも、
流れる時間の質は全く違う。
時計は同じ速さで進んでいても、
心の時間は大きく異なるのである。
◇「光陰矢の如し」は悲しみではない
古人は
「光陰矢の如し」
と言った。
これは、時間が速いことを
嘆く言葉ではないように思う。
限りある時だからこそ、
今日という一日を粗末にしてはならない。
という戒めなのであろう。
若い頃は、未来を追いかけて生きる。
老年は、過去を慈しみ、現在を味わい、
残された未来を静かに育てる年代である。
だからこそ、時は速く流れても、
人生は浅くならない。
むしろ、深くなる。
老年とは、
時間を数える年代ではなく、
時間を味わう年代なのかもしれない。
◇安岡正篤先生は、老年について
次のように語っておられるー
「人間は、妻子を持ち、友を知り、多くの人と交わり、
ある程度の年齢に達して、
ようやく本当の意味での学問・求道ということが
わかり始めます。
そうして老いねば本物にならぬが、
本物になる頃は
最早人生の終点だ。
この矛盾が
人間の悲劇なのであります。」
この言葉には、
老年の真実が凝縮されているように思う。
人は歳を重ねるほど、
時の流れを速く感じる。
しかし、その頃になって初めて、
人間とは何か、人生とは何かが
少しずつ見え始める。
老年とは、
単に時間が減っていく年代ではない。
人生が最も深まっていく年代でもある。
老いとは、
時間が失われていくことではない。
一日一日の重みが、
静かに深まっていくことなのであろう。

