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そうめん、やっぱり揖保の糸

600年の歴史を想う

夏になると、どこからともなく聞こえてくる。 🎵そうめん、やっぱり揖保の糸」
神戸で育った私にとって、これは説明を必要としない言葉だった。素麺といえば揖保乃糸。

子供の頃からあまりにも身近にあったため、その来歴を考えたことなどなかった。
ところが、改めて素麺の歴史を調べてみると、この何気ない「やっぱり」が、俄然重みを帯びてきた。

播州の素麺には、600年クラスの歴史の「点と線」がある。

そして、その歴史を辿っていくと、奈良、法隆寺、播磨の荘園、龍野藩、近代の組合制度、品質管理へと、一筋の長い道が見えてくるのである。

1. 三輪 〜日本の素麺の源流〜

日本の素麺発祥地として知られるのは、大和の三輪である。
大神神社には、奈良時代の宝亀年間、神主の子である大神朝臣狭井久佐の次男・穀主が、三輪の地に小麦を植え、三輪山の清流を使って素麺を作ったという伝承が残る。
これはあくまで伝承である。
しかし、江戸中期の宝暦4年(1754)刊『日本山海名物図会』になると、三輪素麺はすでに天下に知られた名物として登場する。そこでは三輪素麺について、細さは糸のようで、白さは雪のようであり、他国の素麺の及ぶところではない、とまで賞賛されている。

三輪は大神神社の門前町であり、伊勢街道の宿場でもあった。参詣者、旅人、商人が行き交う場所で食べられた名物が、人とともに各地へ伝わっていった。

ここまでは、よく知られた「三輪素麺発祥説」である。

ところが、全国の素麺産地を横に並べてみると、播州だけが少々妙なのである。

2. 全国へ渡った素麺

素麺は日本各地に名産地を持つ。
小豆島では、約400年前、島の人が奈良の三輪で素麺製造の技術を学び、持ち帰ったことが始まりと伝えられている。冬の農閑期に家族労働で作ることのできる素麺は、瀬戸内の島の暮らしにも適した産業だった。

徳島の半田素麺も、江戸時代に吉野川の水運と結びつきながら発達した。船頭たちが奈良や淡路、鳴門方面を往来するなかで素麺やその製法に接し、農家の副業として定着していったとされる。

富山の大門素麺はもっとはっきりしている。嘉永元年(1848)、大門村に製法が伝わり、農家の冬の副業として広がった。

宮城の白石温麺にも、約400年前、胃を病んだ父のため、鈴木浅右衛門が旅の僧から油を使わない麺の製法を教わったという伝承がある。

島原でも江戸時代初期以降に手延べ素麺の産地が形成されていった。

細部や伝承の確度にはそれぞれ注意が必要だが、大きな特徴は共通している。「どこから技術が来たか」が比較的明瞭なのである。外部から製法を学び、その土地の小麦、水、気候、農閑期の労働力と結びついて産業になった。

ところが播州について、同じ説明をしようとすると、おかしなことになる。

3. 揖保川の説明に感じた違和感

国土交通省姫路河川国道事務所の「揖保川の歴史」には、文化年間(1804~1817)について、神岡町の森崎忠佐ヱ門らによって三輪地方から素麺の製法が伝えられ、冬場の農家の副業として発展した、と記されている。

一級河川「揖保川」

全国の産地史を眺めた後なら、何の不思議もない。三輪から製法が伝わり、農家が冬の副業として作り、土地の恵みを受けて一大産地になった。いかにもありそうな物語である。

だが、私はここで引っ掛かった。

ちょっと待て。播州には、それより400年も前から「そうめん」の記録があるではないか。

4. 応永25年〜播磨に「サウメン」が現れる〜

応永25年、1418年。
現在の兵庫県揖保郡太子町にある斑鳩寺に伝わる『鵤庄引付』に、「サウメン」の文字が現れる。兵庫県手延素麺協同組合が、播州における最古の素麺記録として紹介している史料である。

さらに永享5年(1433)には、斑鳩寺から播磨国守護代へ「素麺一貫文」が贈られた記録があり、寛正2年(1461)には播磨国一宮・伊和神社の社殿造営の祝言にも素麺が現れる。

厳密に言えば、これらは「播州で製造されていた」ことの直接の証明ではなく、寺社での「消費や贈答」の記録である。当時はいまだ高級品であった麺を、どこからか取り寄せた可能性も完全には否定できない。

しかし、15世紀の播磨において、すでに素麺を知り、贈り、祝宴で食べる文化が存在していたことは動かしがたい事実である。

ならば、19世紀初頭の出来事をもって「播州素麺の始まり」と解釈することには、やはり違和感が残る。

では、この中世の記録と近世の産業化をつなぐ背景には、何があったのだろうか。

5. 斑鳩寺 〜奈良と播磨を結んだ回路〜

ここで、1418年の記録が残された場所そのものを見る必要がある。斑鳩寺である。
兵庫県に「斑鳩」があり、所在地は「太子町」。偶然ではない。

現在の太子町一帯に存在した鵤荘は、奈良法隆寺の荘園だった。この地は「法隆寺領播磨国鵤荘」として長く法隆寺との関係を持ち、斑鳩寺は荘園経営と太子信仰の重要な拠点となっていた。

つまり、播磨の斑鳩寺は、奈良の法隆寺と播磨を結ぶ現実の荘園ネットワークの拠点だったのである。

ここからは、私の推論である。

大和で育った素麺文化が、寺院や荘園を通じて播磨へ伝わったのではないか。必ずしも職人が旅立つ必要はない。中世の寺院は、人が動き、物が動き、情報が動く巨大な社会組織でもあった。

大和
→ 法隆寺を含む寺院文化圏
→ 法隆寺領鵤荘
→ 播磨

という経路を通って、素麺文化が早い時期に播磨へ入っていた可能性は十分に考えられる。播州素麺の歴史を考える上で、この「中世の奈良―播磨回路」を無視することはできないのではないか。

6. 播磨になぜ「太子」が残っているのか

ここで少し寄り道をしたい。
兵庫県に残る「太子町」「鵤」「斑鳩寺」という名。太子町に伝わる由緒では、推古14年(606)、推古天皇から播磨国の水田を与えられた聖徳太子がこれを法隆寺へ寄進し、後に法隆寺領鵤荘へ発展したとされる。

この古代の由緒そのものには伝承的要素も含まれるが、この地域が中世に法隆寺領として長期間にわたり奈良と深い関係を持っていたことは確かである。

だから播磨に残るこれらの言葉は、単なる地名の珍しさではない。奈良と播磨の間に存在した長い文化交流の痕跡なのだ。

その土地の中世文書から「サウメン」が出てきたことに、私は偶然以上のものを感じる。

7. 寺の食べ物から、龍野の商品へ

中世の記録からしばらく史料上の空白を挟み、江戸時代になると、素麺は再び、しかも今度は「商品」として史料の表舞台に現れる。

宝永5年(1708)、龍野の山村家が病気になった際、龍野藩領内の10名から見舞品としてそうめんが届けられた記録が残る。さらに宝暦年間(1751年前後)には、龍野藩がそうめんの製造・販売を許可業種とする触書を出したとされる。そして安永年間(1771~1780)頃になると、播州での素麺生産は本格化していく。

ここに一つの大きな転換が見える。かつて寺社の贈答品だった素麺が、18世紀には地域の商品となり、藩が管理する産業へ育っていたのだ。

揖保川流域の豊かな小麦、製粉のための水車、播磨灘沿岸の塩、そして揖保川の舟運。保存が効き、冬の農閑期に作れる素麺は、播磨の自然条件と商品経済を背景に、本格的な地場産業へ成長していったのである。

8. では、三輪から製法が伝わったとは何だったのか

ここで再び、国土交通省の「文化年間に三輪から製法が伝えられた」という記述に戻る。これを全面否定する必要はない。ただし、これを「播州素麺の初伝(ゼロからの始まり)」と捉えるから話がおかしくなる。

すでに18世紀半ばに龍野藩が製造・販売を許可業種とし、生産が本格化していた播州において、19世紀初頭の三輪との接触は何を意味するのか。

少なくとも「初伝」ではなく、すでに存在した播州素麺に対する製造技術の改良・品質向上、いわばイノベーションの一段階だったのではないか。

なお、兵庫県手延素麺協同組合の年表では、文政年間(1818~1830)に神岡の森崎忠右衛門(※史料による表記ゆれあり)らが「摂津の素麺仲間組織を視察した」と記されており、技術だけでなく先進地の組織形態にも学んでいたことが窺える。

古い伝統に満足せず、外へ出て学び、技術や組織を取り入れて自分たちの素麺を磨く。播州の人々のこの貪欲な姿勢こそが、産地としての地力を高めたのだろう。

9. 「揖保乃糸」を作ったのは品質管理だった

揖保の糸資料館の看板

明治を迎え、藩の保護が消えた。ここで産地が衰退しても不思議ではなかった。
しかし、播州の素麺業者は自主的な組織化へと舵を切る。

明治5年(1872)に職人賃金や品質統一を図る「明神講」を設立。明治20年(1887)には現在の組合の前身となる「播磨国揖東西両郡素麺営業組合」が結成された。

そして決定的なのが明治27年(1894)である。

検査方法を厳格化し、製品を等級化。統一商標として「揖保乃糸」が誕生する。

検査標章を貼り、製造者に品質の責任を負わせた。これは単なるネーミングではなく、近代的な品質保証システム(ブランディング)の誕生であった。

誰でも勝手に名乗れるのではない。産地全体で厳密な規格を決め、検査し、7等級に分類し、共同で信用を守る。

播州素麺が強かった理由は、中世からの歴史があったからだけではない。その伝統を、近代的な「品質と信用」の仕組みへ完璧に変換してみせたからこそ強かったのである。

10. そして「夏の贈り物」になった

大正8年(1919)頃から組合は全国へキャラバン隊を送り出し、大正12年(1923)には現在の特約販売店制度につながる全国組織を結成した。

乾物で日持ちし、箱に美しく収まり、品質が保証されている。そして暑い日本の夏に、誰に贈っても喜ばれる。

中世の寺院文書に現れた「サウメン」は、近世の地域産業化、そして近代の徹底した品質管理と全国流通ネットワークを経て、日本の夏を代表する贈答品ブランド「揖保乃糸」へと結実したのである。

塩谷重喜(1924–2001)は、兵庫県手延素麺協同組合の第12代理事長を務め、さらに上部団体の日本手延素麺協同組合連合会理事長


11. 600年の歴史を想う

兵庫で育った私にとって、揖保乃糸はあまりにも当たり前の存在だった。

夏になれば食卓に出る。木箱に入って届く。スーパーへ行けば赤い帯の束が並び、テレビからはあのフレーズが聞こえてくる。

「そうめん、やっぱり揖保の糸」

昔は単なる巧みなCMコピーだと思っていた。だが、歴史を紐解くと見え方が変わってくる。

中世、奈良と播磨を結んだ荘園ネットワークの中で芽生えた素麺文化。
近世、龍野藩の豊かな風土の中で育まれた地域産業。
そして近代、職人たちが自ら作り上げた厳格な品質管理と信用の仕組み。

伝統とは、昔と同じ形をただ守り続けることではない。受け取ったバトンを、その時代に合わせて磨き上げ、次へと渡していく営みなのだ。

日本の素麺の源流が三輪にあることに異論はない。しかし播州もまた、歴史の糸をたゆまず紡ぎ、近代の技術と仕組みによってそれを「日本を代表する味」へと仕立て上げた。

そう考えると、兵庫で育った者として誇らしく思える。

600年前の播磨の人が味わった「サウメン」の記憶と、私たちが今夏にすする揖保乃糸。その間には、時代ごとに知恵を絞り、品質を守ってきた数え切れない人々の仕事がある。

今年の夏は、冷たい素麺を一口すすったとき、その長い歴史の歩みを少しだけ想ってみようと思う。

いま一度、

「そうめん、やっぱり揖保の糸」

揖保の糸に 「梅紫蘇七味」

因みに、七味は麺にかけてお召し上がりください。

了。

参考文献・資料

古典・歴史資料

* 『鵤庄引付』
   応永25年(1418)の条に「サウメン」の記載があり、播州における素麺の早期の消費・文化記録として参照。
* 平瀬徹斎撰・長谷川光信画『日本山海名物図会』宝暦4年(1754)
   江戸中期における三輪素麺の名声を示す資料として参照。

播州・揖保乃糸関係

* 兵庫県手延素麺協同組合「揖保乃糸 資料館 そうめんの里/揖保乃糸の歴史・歴史年表」
   1418年『鵤庄引付』、1433年の素麺贈答、1708年の贈答記録、宝暦頃の製造・販売許可、幕末・明治期の組織化、検査制度、統一商標「揖保乃糸」成立などの年代・事実確認に参照。
* 兵庫県手延素麺協同組合「揖保乃糸 品質管理」
   現在の検査・品質管理制度について参照。
* 国土交通省近畿地方整備局 姫路河川国道事務所「揖保川の歴史」
   文化年間の「三輪地方からの製法伝来」記述について参照。本稿では、この記述を近世以前の播州素麺史と比較し、その位置づけを再考察した。

鵤荘・斑鳩寺・法隆寺関係

* 兵庫県揖保郡太子町「斑鳩寺」および鵤荘関連解説
   法隆寺領播磨国鵤荘、斑鳩寺、聖徳太子伝承と地域史の関係を参照。
* 兵庫県立歴史博物館 鵤荘・法隆寺領荘園関係資料
   中世播磨における法隆寺領鵤荘の位置づけを参照。

各地素麺産地・資料

* 大神神社 三輪素麺起源伝承資料
* 農林水産省「うちの郷土料理」「にっぽん伝統食図鑑」
   徳島・半田、富山・大門、宮城・白石等の各素麺産地の沿革を参照。
* 香川県・小豆島手延素麺関係資料
   三輪からの製法伝来伝承と小豆島における素麺産業の成立について参照。
* 長崎県・島原手延素麺関係資料
   島原における手延べ素麺産地形成の歴史について参照。

本稿における史実と推論について

本稿は、史料で確認できる事実と歴史的推論を区別して記述している。

史実として確認できる主な事項

* 15世紀の鵤荘関連史料に「サウメン」が登場すること
* 鵤荘が法隆寺領であったこと
* 18世紀の龍野藩領内に素麺の贈答記録があること
* 龍野藩が素麺の製造・販売を把握・統制する段階へ進んだとされること
* 明治期に生産者による組織化、検査、等級制度が進み、統一商標「揖保乃糸」が成立したこと

本稿における推論・仮説

* 中世の「奈良―播磨回路」、すなわち寺院・荘園ネットワークを介して大和の素麺文化が播磨へ伝わった可能性
* 15世紀の素麺文化と18世紀以降の播州素麺産業との間に、何らかの歴史的連続性が存在した可能性
* 19世紀初頭の三輪との接触を「素麺の初伝」ではなく、既存の播州素麺に対する製造技術の改良・品質向上の一段階とみる解釈

本稿は播州素麺の起源を断定するものではない。

600年に及ぶ断片的な史料――歴史の「点と線」を辿りながら、なぜ播州が日本を代表する素麺産地となったのかを再考察した試論である。

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