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西京焼きのメジャーデビュー

― 京都白味噌文化が育てた魚料理の幕末登場 ―

私は、鰆や銀鱈の西京焼きや粕漬けの焼き物が好物。 #ぶどう山椒七味#柚子七味 を振って味わうと旨みがより深く香りと共に応えてくれます。

さて、昨日銀鱈の西京焼きを頂きながらふと気になったので調べた事を書き残しておきます。

「西京焼きはいつ生まれたのか。」

そう問われると、多くの人は京都の伝統料理だから古いのだろう、と答える。
ところが調べ始めると、意外な事実に突き当たる。実は「西京焼き」という名前そのものは古くない。
「西京」とは東京遷都(奠都)後に京都を指した呼称であり、「西京味噌」も明治以降に定着した名称である。

つまり、西京焼きという料理名を追いかけると、歴史は明治で途切れてしまう。
では、その前は何だったのだろうか。

まず、西京焼きの本質は魚ではない。

白味噌である。京都の白味噌文化は古い。
宮中や公家社会と結びつき、甘く塩分の低い白味噌は、保存のためというより、料理を美味しく仕立てるための味噌として発展してきた。白味噌は、いわば京都文化そのものだった。

一方、日本人は古来魚を食べてきた。
魚を焼く。
魚を煮る。
魚を干す。
魚を発酵させる。
そんな技法は遥か昔から存在する。

室町期の『四条流庖丁書』には魚料理が現れ、江戸前期の『料理物語』には焼物も煮物も登場する。味噌を使った料理もある。

ところが不思議なことに、
「魚を味噌に漬け、寝かせてから焼く」
今日の西京焼きそのものに近い料理は、なかなか姿を見せない。
味噌はある。
魚もある。
漬ける文化もある。
なのに見つからない。

まるで歴史の中に空白があるようだ。

しかし、それは本当に空白なのだろうか。
調査を進めるうちに、私は別の考えを持つようになった。
存在しなかったのではない。
記録されなかっただけではないか。

平安時代には味噌があり、魚介の発酵文化も存在した。
京都には白味噌文化があった。
魚を味噌で扱う発想そのものが、幕末に突然発明されたとは考えにくい。

ただ、それを示す史料が残っていない。
あるいは、当たり前すぎて書かれなかった。
その可能性は十分ある。

そんな中で、魚の味噌漬けが歴史の表舞台に現れる。

安政四年(一八五七年)。
日米修好通商条約の前年。
初代駐日米国総領事タウンゼント・ハリスへの饗応料理である。
献立には、「味噌漬さわら」の名が見える。
外交の場に供された料理である。

同じ安政四年。
京都の有力呉服商、水口屋清兵衛家の神事宵宮の記録には、「小鯛の味噌漬」が現れる。
こちらも日常の惣菜ではない。
上層町人の行事膳である。

魚も違う。
一方は鰆。
一方は小鯛。

しかし共通しているのは、
魚を味噌に漬けて供するという料理形式である。
しかもどちらも、格式ある席に登場している。

私はここに一つの仮説を見る。
魚の味噌漬け焼きは、保存食として生まれたのではなく、
「魚をより美味しく食べるための京都のハレ料理」として育ったのではないか。

そう考えると、
宮中の白味噌文化。
上層町人の行事食。
禁裏御用味噌。
そして後の西京味噌

すべてが一本の線で繋がり始める。

やがて明治になる。
京都の白味噌は商品化され、
「西京味噌」という名を得る。

そして魚の味噌漬け焼きは、
「西京焼き」という新しい名前を授かる。

さらに時代が下ると、
鯛や鰆だけでなく、
銀鱈や鮭へと対象を広げ、
百貨店の贈答品文化とも結びつきながら全国へ広がっていく。

西京焼きの起源は、まだ断定できない。
平安かもしれない。
室町かもしれない。
江戸かもしれない。

しかし一つだけ確かなことがある。
魚を味噌に漬けて焼く料理は、
少なくとも幕末には、外交の舞台と京都上層町家の食卓に姿を現していた。

それ以前のどこかで、この料理は密かに歌われて来たのだろう。

京都の台所で。
宮中の厨房で。
あるいは誰かの行事膳で。

だが、その声が歴史に録音されるのは幕末だった。

西京焼き。
それは京都白味噌文化が育てた魚料理の、
メジャーデビューなのである。

了。


参考文献

・島崎とみ子「京都商家のくらしと食―年中行事を例に―」『日本調理科学会誌』42巻4号、2009年
・東京大学史料編纂所編『大日本古文書 幕末外国関係文書之五』
・『高麗環雑記』
・『料理物語』(寛永20年・1643年)
・『四条流庖丁書』(長享3年奥書)
・本田味噌本店『本田味噌の歴史』
・西京味噌株式会社『西京味噌の歴史』
・農林水産省「うちの郷土料理―白味噌」
・農林水産省「うちの郷土料理―漬物文化」
・『延喜式』
・『類聚雑要抄』

※本稿は現存史料を基にした考察であり、「魚の味噌漬け焼き」の起源そのものを断定するものではない。特に平安・室町期については、現時点で確認できた史料と未発見史料の間に大きな空白が存在する。本稿ではその空白を「不存在」ではなく「未検出の可能性」として扱った。

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