見出し画像

「不遜なおばさん」という生き方

早朝の半眠半覚のなかで一瞬思いついた。
「シニア世代はAIを活用して,アカデミアにデビューせよ!」
そんな話を後でじっくり考えたいなと思い,書いておく。

私は,ただ会社員を40年くらいやってきただけの,おばさんである。
特別な専門技術も,わかりやすいスキルもない。
それでも今,なぜか「研究者っぽいこと」をさせてもらっている。
その背景には,やっぱりAIの力が効いてるなと思う。
ただし,AIに訊けば何でも教えてくれるという話ではない。

当たり前だけど《言いたいこと》は自分の中にある。
それがなければ,何も始まらない。
長く働いたり,暮らしたりしていれば,人は誰でも,
きっと何かを,絶対に持っている。
それを外に向かって《言っておきたい》と思うかどうか,
そこのところの熱量は,人それぞれだけど。

もしその熱量が高かったとしても,アカデミアでそれを語るためには,
膨大なオーバーヘッド・コストがかかる。これは,当該分野での
リテラシの獲得であり,ざっくり言えば,次のようなプロセスだ。

①《言いたいこと》は(学術的に)どの分野の話か見当をつける
②先行研究を探して読む
③それを理解する
④その分野の歴史的な流れを把握する
⑤自分の主張を(いくつかの軸を立てて)ポジショニングする
⑥それっぽい言葉で書く(=適切かつ現代的な語彙や引用をセレクトする)

 このあたり段取りを全部やらないといけない。
正直,しんどい。この労力,半端ない。
シニアになってから,貴重な残り人生をそこに全力投球するなんて,
まず考えられないし,そんな気力あるわけない。
(だって,私はただ《言いたいこと》を言いたいだけなんだし…)。

そこでAIだ。
AIはこの「面倒な部分」つまり《①~⑥》を超得意としている。
だからここは外注できる。工場風に言えば工程の外出しだ。
会社員をやってた人ならわかると思うけど,
外注する(他者に依頼する)際に肝心なのは,
こちらの期待値を適切な順序と解像度で伝えることだ。
そういうスキルは,長いこと働いてきたなら痛い目を経験しながら
身に着けてきたはずだ。そのスキルをここで発動する。
そして,リテラシの外在的知識パックについては,
AIさんに何とかしてもらう。

内在的なもの,というか,必要最低限の自分で身体化するしかないリテラシについては(それが何かは曰く言い難いが)自分で何とかするしかない。
自分でしかできない部分だけ,自分でやるということ。
とにかく《①~⑥》においては,
AIさんが大幅なショートカットを実現してくれる。

 じゃあ,浮いたエネルギーを何に使うか。
それは自分の中にある《経験》に向き合うことだと思う。
自分の《経験=記憶》からくる《直観》と対話することに集中する。
なんとなく働きながら・子どもを育てながら…日々をこなしてきた,
その中には,まとまりのない断片がたくさんある。
それを少しずつ言語化していく過程で,ひっかかることや,こだわりたいことがあり,なぜそこに注目せざるを得ないのかを考えはじめたら,
そこには《言っておくべき何か》が立ち上がってくる。
問題は,それをどう語るべきかという戦略や作法であって,
そこを前述のようにAIが支援してくれる。

人文知という領域の話ではあるけれど,経験から導出される知を可視化する手法やプラットフォームは,今まで極めて乏しかったのだと思う。
人の経験のなかには《共有すべき価値ある何か》が埋もれている。
若い世代も《①~⑥》を猛烈な勢いでDXするけれど,経験はそれだけ生きなければ得られない。それは単に長ければ良いというものでもなく,長いために抜け出せなくなる拘束や視野狭窄も抱える。でも,一つ言えること。
ここが最重要なポイントなんだけど,経験の力というのは「一見して全く異なる文脈にある事象を関係づける力」なんだと実感している。
そこにはその人の生き方を動かしてきた情動とその記憶が詰まっている。
それは,人それぞれの代替不可能な固有性の核だと思う。

 そして,そこを掘り下げる上で絶好のタイミングがある。
それは,いわゆる人生の第3期(The Third Age)と呼ばれる時期だ。
充分に元気でエネルギーがあるけれど,現役からは少し離れている。
ちょっとふらふらしている時間だ。

現代の60代というのは,たぶん人類史上初めての《余白のある活動期》
なんだと思う。この新たな活動期を,リスキリングに励んで産業界に吸い上げられる話ばかりで,ほんとにいいんですか?
…って話だ。
そんな時代に,この行き詰った後期資本主義社会に対して
《投じるべき渾身の一石》を生み出すために,
この余白パワーを活かす道もあるんじゃないですか?
…なんて思う。

 まぁ,しかし。
アカデミアの構造をマクロでみてAI活用やDXシナリオを試す…
なんていうのは,如何にも《会社員》的な話である。
考えてみれば,幸運にもせっかく延びた人生を《遊ぶ》場所は,
アカデミアである必要なんか,そもそもない。
この《ふらふらした時期》を目的を決めずに《遊ぶ》こと。
それ自体が,このブルシット社会に対する,
ちょっとした抵抗・アクティヴィズムなんだから,
「遊びをせんとや…」である。

 若い研究者が研究で生きていくためのアカデミアと,
《ふらふらした》おばさんが《遊び》ながら関わるアカデミア。

同じリテラシを求められるけど,その経験は質的に違うものだ。
前者はまさに未来を切り拓く人材だけど,後者は?
《ふらふらした》おばさんは,単に享楽や暇つぶしのために
研究者ごっこを《ふらふら》しているのか?

そうでもあり,そうではない。
「そうではない」ために「そうでもある」。
(何を言っとるんじゃ?)

《ふらふらした》おばさんが「不遜」なのは,そこで《ふらふらすること》の社会的価値が理解されていないからだ。この価値は,個人の経験価値であると同時に,社会に還元されるべき社会的価値であるはずだ。(あぁ,このへんは話が複雑化するから,また後でじっくり考えることにしよう)。

アカデミアの先生たちは,前者の経験によって先生になった人々だから,
後者の経験価値を理解しづらいかも知れないし,実際,シニア層はシニア向け大学に閉じ込められがちだ。(だって,あなたたち,もうこれ以降「何者か」に成って身を立てる必要なんかないんでしょ?…と,
言いはしないが,言わんばかりだ。

学びとは「何者か」になるためだけにあるのか?
端的に言えば,稼ぐためだけにあるのか?
…なんと貧しい発想じゃないか。
最近は,定年後に学士入学するシニアに出会う機会が増えた。
定年層とその子ども世代が同じ場所で対話すると,
人間や社会の見方が変わったりして,
やっぱり面白い何かが起きる。

「不遜なおばさん・おじさん」が増えたら,
未来は少し面白くなる予感がする。

不遜で誠に申し訳ない。

いいなと思ったら応援しよう!