否定しない会話の何が間違っていなければならないのか
コミュニケーションTipsの9割以上は取るに足らないクズ情報だ。しかし、1割に満たない有益な情報に出会うためにゴミを読み漁るのは正しい。読書や情報収集の類いは99%役に立たない前提で行うべきで、たまに面白いことが書いてあってラッキーだなあぐらいでいい。打率が高いのは視野が狭いだけで、むしろ危険な兆候だ。
何が言いたいのかというと、完全無欠の神コミュニケーション法でなくてもインターネットに存在していてよい。こういう記事があることが、むしろ健全な環境であるということだ。
実際にこの記事は有益なパートもある。例えば言外の否定という話だ。あくびをするだとか遠ざかるだとかギミックをいじっているだとかは否定的なニュアンスがある。基本的すぎて直接指摘されることもないだろうが、まず真実だろう。
コミュニケーションのコードについてわかっていない人、もしくはある程度把握しているがそのウェイトがおかしい人は、うまくいかない。否定するつもりがないのに、否定的に捉えられる振る舞いをしてしまうのは論外で、対戦以前に自キャラを動かせていないという話になる。
何を否定として使うか、何を共感として使うか、一つ一つの行動の役割がわかっていない人間にはよい記事だと思う。人間に転生して一年目の昆虫に向けた記事に対して、基本的すぎることを理由に非難してはいけない。「no one will be left behind」である。
ただ、先の記事通りにコミュニケーションをやる人間がいたら、俺は多分怒り出すと思う。だから、俺とのコミュニケーションにおいて嫌われる行動というのは、「否定をしないこと」だ。だから、否定しない会話のなにが間違っているのかについて書く。自分が正しいと思いこんで否定していきたい。
俺は面白い会話がしたい。面白くない会話にコストを割くモチベーションが1ミリもない。否定のない会話に巻き込まれているとムカついてくる。これは明らかに俺のパーソナリティの問題ではあるが、普遍的に理解される概念でもあると思う。否定なしに「面白い会話」はありえない。
普通の人間はそこそこに間違っている。互いに誠実でさえあれば、それぞれの間違いを否定することが普通にある。何を会話のテーブルに乗せても共感だけが返ってきて、否定をしない会話は不誠実すぎる。相手と俺は違う人物であって、何もかもを共感し、肯定しあえる人間など基本的には存在しないのだ。
だから、共感だけが上滑りする会話というのは、相手が俺を見ていないことの証左であり、それは真の共感ではない。バカにされているとさえ思う。
「そういう考えもあるね!」
「面白い意見だね!」
「その視点は新しいね!」
「〇〇だけど、もしかしたら✕✕かもしれないね!」
A「フワトリさんの趣味ってなに〜?」
私「趣味は最近始めたブログ投稿かな~、今はPV数より毎日書くことを習慣化していくんだ〜。でもいつかは色んな人に読んでもらってみんなの得になるブログかけるようになりたいな〜」
A「ブログって古くない? もう無理だよ」
私「あはは…確かに厳しいかもね…。」
A「それに頑張れる気力あるなら英語でも勉強したら?読んでもらえないブログより自分のスキル磨いたほうがいいっしょ?」
私「そうだねー…そっちのほうが有意義かもねー…」
俺が特に引っかかったのはこのケースで、これは無理に共感で会話を回しているせいで無駄に不快になっている例だと思う。否定をしてはならないというテーマなのに、否定をしなければならない場面を持ってくるのは適切ではない。
確かにAが初手でわけのわからない難癖を付けているのだけど、そこで共感に逃げて拒絶しているフワトリさん側も同じくらい非がある。否定を返してはじめてAが全否定カスなのか、会話をする気がある人間なのかがはっきりする。否定に怯んで拒絶していてはお話にならない。
それが嫌なら「めちゃくちゃ言ってきて草」でいい。笑いで受け身を取るのはめちゃくちゃ重要技術で、縛ると投げ返せない球が出てくる。無理に共感だけで会話をしようとしてオナホールになるな。自分の繊細さを棚に上げて人の権利を侵害しようとするな。
では、ちゃんと否定さえしていればそれで良いのか、というとこれも違う。先に書いた通り、論外の挙動というのはある。あからさまに何かをいじっていてこちらの話に注意を向けていないだとか、そういうのはただ印象を悪くするだけで、プラスに働くことはないだろう。
そういう否定の差を扱うために、ここで共感と否定に加えて、拒絶と受容という軸を導入することを提案したい。
そして、真に重要なのはこっちだ。
今から余談を長々とするが、合流しなくもないので我慢して読んでほしい。
笑いは、あるべきところからの逸脱によってのみ生まれる。ズレを感じたときに人は笑う。予期できるものは面白くないという価値観があるが、あれは予期できる範囲からの逸脱を面白がっているのだ。逆に逸脱が期待される時に逸脱していなさすぎて笑えるというのもあるのだが、やはりこれも逸脱の一つの形だ。
何か笑った経験を思い出してほしい。何かしらの逸脱を見出すことができるだろう。
シリアスな場面で言い間違えたり、シンプルに躓いて転んだり、そういうハプニングが面白いのは、唐突に枠からはみ出るからだ。
最もわかりやすいのが下ネタである。下品なことは言ってはいけないという規範から、唐突に出る。用途が笑いに限定されている分、逸脱であることが共有されやすい。うんこちんちんと言ってはいけないという規範はどんなガキでも知っている。
笑うという行為は、あるべきところからの逸脱を認識するということだ。つまり否定に近い性質がある。
ある人物の持つ性質の逸脱を論うイジリを考えればわかりやすい。
「イジリとイジメの境界」というのはよく挙げられるトピックだが、どちらも「お前はあるべきところから外れているのだ」と突きつける意味で、どちらも基本的には否定である。違うところは当人にとって拒絶的であるかどうかだ。もちろんはっきりと区切れるものではないが、受容的なイジリがあることは感覚的にも理解できるだろう。
明確に逸脱を意図して変なことを言っても、相手がその逸脱に理解を示してしまい、ボケとして処理されないということがある。これは否定を求めて発言したのに共感が返ってくるという一つのコミュニケーションエラーだ。共感ベースで話をしているやつというのは、判断に迷う球をとりあえず共感でいなすので、こういうエラーを起こしやすい。自分の普通に自信がない人間は、少しの逸脱ならまあそういうこともあるかと無視してしまう。
おもしろにおける逸脱が基準とする、あるべき姿(普通とも言える)の範囲は、同心円状ではない。アメーバのように、時には飛び地のように広がっていて、それは人や集団、場面によって異なる広がりを見せる。外国語のユーモアが難しいのは、その範囲を共有していないからだ。
究極的にすべての笑いは内輪ネタだと言ったのは野田クリスタルだが、全面的に正しいと思う。根本的な原理として、笑いは普通を必要としていて、その普通の共有こそが「内輪」なのだ。
普通の範囲の共有、すり合わせ、強化が笑いの役割の一つだ。否定をベースにした笑いによって、交流を持つ人々の同種性を確認していく。そうしてコミュニティが居心地の良い場所なのかがわかってくる。この作業が誰にでも必要かと訊かれれば怪しいが、少なくとも俺はそうしてきた。だから否定は有効だ。
より与太話性が高い、何一つ根拠のない自分語りをしようと思う。
人間は進化の過程で、知らないもの、恐ろしいもの、不安を受容するために笑いというポジティブな反応を獲得したと考えている。逸脱というのは、恐怖の対象で、拒絶したいものだ。しかし、生存のためには、理解不能な普通から外れたものにも積極的に手を出す必要がある。その必要性によって、笑いが生まれた。だから笑いは否定であり恐怖であるが、拒絶ではない。
笑いには、恐怖やぎこちなさを生む異物を受容する働きがある。例えば俺には嫌いで嫌いで仕方なく視界に全く入れたくないレベルで拒絶していた人物がいる。しかし彼がインターネット各所でバカにされるようになってから、わりと存在が許せるようになってきた。笑い者として消費できるようになった。そういう受容させる力がユーモアにはある。
そして俺は、否定によってのみ受容される異物であるという自覚を持っている。だからこそ、否定のないコミュニケーションを許してはいけない。地球上から否定が消え去ったら俺に居場所は残らない。否定の肩を持たせてほしい。
否定ではなく、拒絶が真の問題だとしよう。つまり、『VRChatで嫌われない会話術:否定しない会話』に挙げられた具体例は、実は「拒絶の表明」であり、その解決策として「否定をしないようにする」は本質的には誤っているということだ。共感するという形の拒絶も、否定するという形の受容もあるのだ。クネクネヨシヨシしてようがバキバキにレスバしてようが、気持ちのいいコミュニケーションというのはある。
互いに自分が正しいと思いこんでいない者同士が、ひたすら否定のない会話をすることの何が面白いのか俺はわからない。互いにオナホールになることの何がコミュニケーションだと思う。こんなものが正しいとして、そうするコミュニケーションに価値を感じない。正しさのぶつけ合いこそが面白いんだろう。相互隷属の無の会話は要らないんだ。
そもそもシステムでコミュニケーションをやろうとするのは真摯さを欠いている。コミュニケーション法を学んで、みんなに好かれようという態度それ自体が、人をバカにしている。もちろん知識の不足で無駄に波風を立てているのなら改善はするべきだが、「好かれる」とは違う話だ。
コミュニケーションに王道はなく、うまくやる人というのはシンプルに人に関心を寄せている人だ。やる気がある人と言い換えてもいい。だから俺はうまくいかない。
否定よくない!とか言ってるやつがいるとその主張を否定したくなるもので、もちろんこの文章もそういう動機で書いたが、できる範囲で誠実ではあろうとはしてみた。少しでも俺が生きやすい世界に変わってくれと思う。
あとこういうことが書いてある本を知っている方は教えて下さい。読めそうだったら読みます。
