短編小説:不死身のぼくら
僕が5階の南側の日当たりの良い病棟にいた頃、多分それは赤ちゃんのころからだと思うけれどいつの間にか仲良くなっていたミイは耳が聞こえなくて、耳が聞こえないということはおなじ国に生まれておなじ言葉の海の中で生きるおなじ『しゅぞく』であってもおなじ言語を持たないのだよということで、世界にはまだまだ僕の知らない不思議なことがあるのだなと僕は思った。
でもミイは音のない世界に生きている分、空気の香りや光の色にとても敏感で、何より音のある世界の僕らが何を話しているのか口の動きをみてほんの少しだけわかるのだそうで僕はそれを知った時、僕はミイのことをちょっと尊敬した。
「すげえよなあ、超能力者みたい」
僕が「点滴の管が邪魔で上手く髪の毛を結べない」というミイの長い髪を三つ編みにしてやりながらそう言うとみいは肩すくめて
(そうかしら)
という顔をした。いやすげえよ。それで僕もそういう能力がほしいなあと言ったら今度は(ユウは聞こえるのだからいいじゃないの)という顔をした。ミイと会話をするときは簡単な手指のサインとそれから表情とあとは筆談、そういうものをフルに活用する、それで互いが分かり合えなくて「こまったな」ということになったことがないのは僕らが赤ちゃんの頃からの長い付き合いであることと、僕がミイのことを、そしてミイが僕のことをとても好きだからだと思う。
「口の動きだけで相手が何を言っているのが分かるのなんてスパイになれそうで、なんかかっこいいじゃん、僕、将来はスパイになりたいんだよな」
(ユウにスパイはむりじゃない、ちょっと走っても倒れるもの、スパイはともかく健康じゃないと)
「そうかー、大人になるまでに何とかなんないのかなァ」
(さあ、何とかなるとしたら、それってあたしが大人になるのと同じくらいの確率なんじゃない、ユウは美容師さんになったらいいのに、三つ編みが上手だから)
「美容師って、別に三つ編みだけする仕事じゃないだろ」
ここまでの会話は4割が筆談、4割が簡単なハンドサイン、あとの2割は表情と口の動きの読み取り。なにしろミイは筆談がちょう早いし、文章を書くのが天才的にうまい、僕が病院にいない間はよく病棟から僕に手紙をくれる。
ミイはどんな機械の補助もミイに音を届けることのできない重い難聴でその上赤ちゃんの頃から心臓の力がすこしずつでも確実に弱ってゆくって病気で、一方の僕の方は耳は普通に聞こえるけれど生まれつき心臓が普通の人間と作りとぜんぜん違っていて、まず左にあるはずの心臓が右にあるだなんてちょっと冗談みたいなことになっているし、心臓に血液を送り込むはずの血管のひとつが閉じているし肺への血管もなんか変で、ついでに本来あるはずの内臓のひとつが欠けてるなど後は色々。ぜんぶ生まれつきだ、僕らの身体はなぜだかかとてもややこしいカタチをしている。
「神様がほんのすこし間違えておつくりなったのよ」
でもこうして生きているのだものなんて僕のお母さんは言うけれどこれはほんの少しというレベルではないし、僕らのこの本来的な意味合いでほんとうに生きるのに不向きな設えはミスというよりはバグだろう、その辺はきっとお母さんにだってわからないんだろうな、僕らがそれを乗り越えようとかそのために努力しようとかじゃなくまず第一に『まじで勘弁してほしいんだけど』って思ってるってことなんかは。
それでも生まれてから今日まで、ほとんどの時間を病院で過ごしているミイと違って、僕は赤ちゃんの頃に何度か手術をして3歳になる前に病院を退院し、そのあとすぐに家の近くにある赤い屋根の幼稚園に入園できた。全部の子ども達をあつめてもやっと50人ほどにしかならない小さな幼稚園で、僕は春の親子遠足にも行ったし秋の運動会にも出たし秋のバス遠足にだって冬のクリスマス会だって、休まずに全部行った。
初めての遠足の日、ひとすじ飛行機雲がただまっすぐに流れてゆく空の下で「公園に落ちてるのをぜんぶ拾うぞー」って、夢中になってどんぐりを拾っていた僕は自分がちょっと他の子とは違うんだなんてことをもうすっかり忘れていたし、そのまま小学校に入る2年も前におばさんが張り切って僕に用意してくれた真っ青でつやつやとした革のランドセルを背負って小学校に入学して、そこで新しい友達ができて、その友達が「校庭で氷鬼しようぜ」って言ったら普通「やるやる」ってなるだろ。
明け方にほんの少し雪の降った1月、僕は雪の匂いのする湿った空気を胸いっぱいに吸い込んで友達と競争しながら校庭に駆け出した。そうしたら世界がとつぜん暗転した。雪で湿ったグラウンドにうつぶせに倒れた時の触れた冷たい土の感触は覚えているけれどあとは音もなく世界は真っ暗で、その後しばらくして目を覚ますとそこにあったのは小児病棟の白い天井だったものだから僕は本当にがっかりしたんだ。
「なんだまた病院かよって、本気で落ち込んだんだよ」
「だから先生はいつも、全速力で走るなって言ってるだろ、守らなかったな」
「鬼ごっこなんだよ、全速力で走らないと鬼につかまるよ」
入院中は毎日だいたい朝8時に「どう?」って僕の病室に僕の様子を見にやってくる中本先生の言葉に僕は首をすくめた。
「ユウは年々口が達者になるな、手先も滅茶苦茶器用なんだろ、ミイちゃんが三つ編みが超絶にうまいんだって言ってたぞ。その上ユウはホントに運動神経が良いんだろうなァ、そういうのが一番大変なんだよ、やれば何でもできちゃうってのがさ」
僕の身体は、この手の病気の子にしては背が高くてその分手足が長くてそこに均整の取れた質の良い筋肉がついていて、平均より随分痩せてはいるけれどそれは『陸上選手の体形だな』ということで、道路を高速でのびやかに走るために精巧に作られたスポーツカーのような体をしているのだそうだ。ただそれは筋肉と骨格だけの話で、中身は相当な排気量が必要なスポーツカーに軽自動車エンジンを載せているような状態なのだそうで、だったら軽自動車のエンジンじゃなくてフォーミュラ・ワンの2,400㏄クラスのエンジンに取り換えて欲しいよ、僕がそう言うと先生は
「そんな簡単な話じゃないんだよ」
できることなら自分の担当している子ども達みんなの心臓とか肺とか機能不全に陥っている諸々を全部きれいに取り換えて、ぴかぴかに元気な体にしてやりたいのはやまやまなんだけどなと言ってうしろ頭をぼりぼり掻いた。それにもし仮にそういうことができるとしても、僕よりミイの方がずっと順番が先なんだそうだ。
「ミイちゃんは生れてすぐに入院して2歳で一度退院できたけど、結局その1年後にまた入院してもう3年もここにいるんだ、ユウの身体は手術である程度はなんとかできるけど、ミイちゃんはそうじゃないからな」
「まさか、僕のことまた手術する気?」
「最悪そうなるから、先生の言うことは守れよってことだよ」
「じゃあもう紙に書いてよ、鬼ごっこはだめとか隠れ鬼はその限りじゃあないとか、それから…鉄棒は?泳いでも良いんだっけ、リングフィットはやっていい?」
「鬼ごっこはだめだね、隠れ鬼は走らないならいい、鉄棒は胸骨を圧迫しちゃだめだし、エート…水泳は全身運動だからなァ、リングフィットは…モードによる」
「ほぼ全部ダメじゃん」
「そう言うなよ、先生だってユウが赤ちゃんの頃からずっと一緒に頑張ってんだ、同級生と同じことができないなんて退屈だなとか理不尽だなって思う時もあるかもしれないけど、今ある体を大事にしてくれよ、それでユウにも先生の夢をかなえてほしいんだ」
「先生の夢って、なに」
「先生が診ている子がみんな、ちゃんと大人になってくれることだよ」
「フーン…」
そうなんだ、誰もそんな哀しいことははっりと言葉にして言わないけれど、ここにいるみんなの中には共通の、ある認識というものがある。
『5階の南側の病棟にいる何割かの子どもは、大人になることができない』
それが僕らの抗う事の出来ない決まりのようなものだった。仕方がないんだ、そもそも人間は不死身ではないのだし。
2月、立春って「さあもう春になりましたよ」なんてカレンダーだけが春を主張する寒い冬の日のことだ。少し前からミイは原因のよく分からない微熱がずっと取れなくて「だから今ちょっと会えないのよ」と僕らを赤ちゃんの頃から知っている看護師の奥田さんがミイの書いた手紙を僕に渡しにきてくれたりしていた。ある日届けてもらった猫の形に折りたたまれているそれには「ユウと遊べなくてつまらない」ということがミイの大好きな星のカービィのイラストと一緒に書かれていた。
「心配だね」
「そうなのよね、中本先生が頑張って原因を調べているのだけどね」
「中本先生、また家に帰れないね」
「もうこの病棟が家よね」
「先生、最近はそこの面談室に住んでるってホント?」
「住んではないけど、この前椅子5個並べて寝てたわ」
そう言って奥田さんと笑い合った僕が、重症の子どもだけが集められる5階南病棟のいちばん奥の部屋にミイが運ばれてゆくのを見たのは、そんな話をしていた翌日のことだった。血液検査の結果に問題なければ退院だって言われていた僕が病棟でミイに会ったのはそれが最後だ。ミイの原因不明の発熱はつい数日前まではまだ微熱で、それだから病棟で様子を見ようという範疇だったものが突然ミイの心臓の拍動自体が危なくなる程の高熱に変わったらしい。赤い顔をして半分眠っているようにぼんやりとした表情のミイが、ベッドごと病棟の看護師3人に付き添われて病棟の廊下の突き当りにある白い扉の中に吸い込まれるように運ばれてゆく時、僕は丁度そこにいて、すれ違いざま、口だけをぱくぱくと動かしてミイにこう言った。
(もどってこいよ)
すれ違いざまの一瞬でも僕の言葉はミイにはちゃんと伝わるはずだ、ミイは耳が聞こえない分視力がとてもいい。僕らはあの白い扉の向こうから二度と病棟に戻ってこなかった子を何人も知っている、みんな何の痕跡も残さずに静かにまるで夜空に小さな星が消えるようにしていなくなるんだ、ミイはそうならないで。そうしたらミイは僕にこう言った。
「またね」
僕はあの時に音としての声を喉の奥から出すことはできても、言葉になる声を明瞭に正しい発音で出すことがとても難しいミイの言葉をはじめて聞いた気がする。
それから3日後、僕が入院のために持ち込んで何故だかそれが入院中に1.5倍に膨れ上がった荷物を無理やり詰め込んだ巨大なトランクと一緒に退院する日、僕は白い扉の奥にいるはずのミイが今一体どういうことになっているのか、一体あそこからいつ出て来ることができるのか誰かに聞きたかったのだけれど、病棟の大人たちは、そこにいればいつも僕に話しかけてくれる1年目のレジデントの滝山先生も仲良しの看護師さんの奥田さんも僕らのおばあちゃんみたいな存在であるお掃除の中野さんまでもが
(そのことはわからないしなにも答えられないしだからなにも聞かないでほしい)
そんな雰囲気を体からじんわりと醸していて、そうでなくても朝の病棟というのは皆とても忙しそうにせかせかと競歩の速度で歩いているし、朝一番に病棟の誰かに何ごとかが起きて処置室に病棟中のお医者さんが大集合なんてこともままあるし、病院というすこし特殊な世界の中で生まれて育って来た子どもは子どもの割にそういう空気を敏感に察知するようになる。僕も例にもれずそういう子どもであるものでそこにいる誰にも「ミイは今いったいどうしているの」ということを聞くことができなかった。
「次の検査入院までここには来ちゃダメだぞ」
頼むから全速力で走るなよ、しんどいなって思ったらすぐに休め。中本先生の退院前の診察と退院後の生活についての訓示を受けて、その後迎えに来てくれたお父さんが一足先に僕の荷物を運び出し、お母さんが諸々の書類を受け取って、2人で5階のエレベーターホールに出たところで僕はその端にぼんやりと立っているミイのママを見つけた。色が白くて目がまん丸で髪の毛の長いミイとそっくりなママ。
「あ、ミイのママ」
ミイはどうしているの。僕は思わずそこに駆け寄ってそれを聞こうとしたけれど、足を一歩ミイのママの方向に出した瞬間に僕の隣にいたお母さんが僕の腕を強く引っ張ってそれを止めた
「今、ユウの顔を見るのはお辛いかもしれないわ」
お母さんが小声でそれを言った後、僕がそれはどういうことなのって質問する隙を与えずに、お母さんはすぐにさらりと話題をかえてしまった。
「退院がリコの結婚式に間に合ってホントによかった。リコおばちゃんがね、ユウにどうしてもリングボーイをして欲しいんだって、やってくれなきゃ結婚式なんかしないって言いだしたもんだから、おじいちゃんがリコのこと叱ってねー、それがいつもの親子げんかに発展しちゃってほんと大変だったのよ、花嫁の父と花嫁なのにね」
リコおばちゃんというのはお母さんとは12歳年の離れているお母さんの妹のことで、そのリコおばちゃんは大学生の頃からずっと付き合っている恋人と3月に結婚式を挙げることになっていた。サトルさんという名前の天然パーマのお兄さん。ライナスってスヌーピーのアニメに出て来る毛布を持った男の子によく似たリコおばちゃんと同じ年の優しい3月の花婿。
リコおばちゃんは、中学生の頃にお母さんのお母さん、それだから僕のおばあちゃんを病気で亡くしていて、するとそれまではまっさらな黒髪で成績は中の上、大人しくて品行方正で真面目な中学生だったのが、突然金髪につけ睫毛と極端に短いスカート、さらにじゃらりとピアスを耳にいくつもくっつけて分かりやすく不良の女の子になってしまったのだそうだ。いつだったか僕がおじいちゃんの家でその当時のなかなかハードでアバンギャルドなアルバムを見て「一体どうしてこうなったの?」って聞いたらリコおばちゃんは
「お母さんが突然死んでしまって、それがあんまり理不尽に思えて、腹が立って仕方なかったから」
『死』という名前の、人には決して抗うことのできない世界の決まりごとに対する抗議的な気持ちによりそうなったのだと言っていた。それは僕にもなんとなくわかる。あれは突然で無作為でそしてとんでもなく理不尽なできごとなんだ、それに対して自分は一切抗うことも爪痕さえ残すことも赦されないことが悔しくてその哀しみがいずれ怒りに化学変化を起こすことがあることも、僕はよく知っている。
リコおばちゃんはその不良のいで立ちのまま中学を卒業し、なんとか入学できた高校には行ったり行かなかったり、「3日家にいたら3日いなくなる」というやや破天荒な高校生活を送り、亡くなったおばあちゃんの代わりに保護者懇談なんかにも出ていた僕のお母さんの手を相当焼かせたらしい。けれどリコおばちゃんが高校3年生になった春に僕が産まれて、その僕が明日の命もわからないくらい重い心臓の病気なんだと分かった時
「その子はあたしが面倒みるから」
と言って今度は突然金髪もピアスも外泊もやめて猛勉強をしてお母さんの実家から一番近い大学の医学部看護学科に入学し、4年後に看護師になった。だから当然のこととして僕を猛列に可愛がってくれている。なにしろ僕の小学校入学の2年も前に僕のランドセルをお父さんの方のおじいちゃんとおばあちゃん、そしてお母さんの方のおじいちゃん、計3人の祖父母を出し抜いて用意してくれたのはこのリコおばちゃんだ。
そのリコおばちゃんは、僕が学校ですこしばかり無茶をして倒れて緊急入院することになって
「ユウが出席できないのなら、結婚式自体やらない、ユウもいないのにウエディングドレスなんか着て一体何の意味があるの」
なんてことをずっと言っていたらしい。だから本当によかったとお母さんは僕の退院に安堵し、リコおばちゃんの苛烈で盲目的な僕への愛情はともかくも、僕にとっても大切な人であるリコおばちゃんの結婚式に出席できるということは嬉しいことであるという点は僕もおおむね同意できた。
ミイのことは、釈然としなかったけれど。
それでもリコおばちゃんの母親代わり僕のお母さんが、リコおばちゃんの結婚式のために大阪のおばあちゃんの妹の新幹線の切符を取ったり、リコおばちゃんの相手のライナスことサトルさんの家族や親戚の人達の泊まるホテルを予約したり、あとはおじいちゃんの着るモーニングのレンタル。とにかく細かいことをあれやこれやと手配して奔走して台風のように過ぎた2月を見送って迎えた3月の日曜日、朝から雲一つなく晴れ渡った空の下、白い教会の光の中で真っ白いサテンシルクのドレス姿のリコおばちゃんはどこかの王国の女王のように堂々としてとても綺麗だったし、それを見た僕はなんだかとても嬉しかった。
お母さんが言うのには、リコおばちゃんはその面立ちが立ち姿が細くてなだらかな肩のラインが細身の身体が細部に渡って死んだおばあちゃんにそっくりなのだそうだ。この日リコおばちゃんはおばあちゃんがおじいちゃんとの結婚式に着たといううんと昔のドレスを直してそれを纏っていて、その姿を一目見たお母さんは
「お母さんが帰ってきたみたいね…」
結婚式がはじまらない内からずっと白いレースのハンカチを握りしめてめそめそ泣いていた。そして泣いてはいるけれどとても嬉しそうだった。それで僕はやっぱり退院できて、リコおばちゃんの大切な日に立ち会うことができてよかったなあと、改めてそう思ったのだった。
「リコおばちゃん、おめでとう」
「ユウー、退院できてよかった。心配してたんだよ、緊急オペとかそんなことにならなくてホント良かったよ、ウン顔色もいい、ほら手と爪、リコおばちゃんに見してごらん」
控室の大きな鏡の前、布張りの古い椅子に座っていたリコおばちゃんは僕の顔を見るとぴょこんと立ち上がり、肘まである白い手袋に包まれた両手を僕に差し出して僕の指先と爪の色とを確認した。血液の中の酸素が常に足りない身体をしている僕はちょっとでも具合が悪くなるとすぐ指先の色が青い紫色になるので、リコおばちゃんはいつもそれを気にして僕に会うとまず、指先の色を確認するのが癖になっている。
「今回小児病棟の方どうだった?あたし忙しくて全然ICUから出らんなくて、病棟に全然いけなくてごめんね。中本先生、相変わらず家に帰ってなかった?」
リコおばちゃんはフフフと笑った。そうなのだ、このリコおばちゃんという人は、僕への過剰でありあまる愛情の末に、今は僕のかかりつけの大学病院に勤めている。さすがに小児科病棟ではないけれどそれでも今の所属はICU(集中治療室)で、それだから僕の主治医であるところの中本先生のことをよく知っていて、入院中の僕がどんな状態か、一体どんな問題が起きているのか、いつ退院できるのか、直近の入院の時にも何度も先生に聞きに来ては退院をせっついていたらしい。僕の主治医の中本先生がこぼしていたから僕は知っている、「ユウのおばちゃんが怖いんだよ…」って。
「なんかね、忙しくて家に全然帰れなくて、でも当直室がイッパイで、だから面談室に椅子を5個並べて寝てたら落ちて床で頭を打ったんだって。脳外科の…ほら野中先生に『ばかだなーオマエ俺がCT撮ってやろうか』って笑われてたよ」
「先生、ずっと忙しいからね、もう病棟が家だよね」
「奥田さんもそう言ってた」
「だよねぇ」
リコおばちゃんは今度ひひひと笑ってから、すずらんの刺繍のレースのヴェールを踏まないようにくるりとまとめてから僕の目線に会わせてしゃがみ、そうして僕の頬を軽くつねった。
「でもなんか浮かない顔、どうしたの」
「ウーン…友達とさあ、退院の前に会えなかったんだ。いつも退院の時はまたねって挨拶しているし、手紙を書くのが好きな子だから退院した後も手紙を貰うんだけどそれもなくて。だから相当悪いのかも、それは誰にもちゃんと聞いてないし、だから誰も詳しいことは教えて貰ってないんだけど、でももしかしたらさ…」
僕がそれを行った時、つやつやとした長い睫毛や、顔と肩にふんわりと乗せらたキラキラとした粉や頬のほんのりとした桜色のせいでいつもよりずっと綺麗に見えるリコおばちゃんの右の眉が「あっ」という上がり方をした。
そこで僕は大体を察してしまったんだ。5階南病棟のあの奥の白い部屋はPICU、小児集中治療室という部屋で、リコおばちゃんの働いているICUと同じ系統系列の部署になるのだと僕はリコおばちゃんからそれを聞いて知っている、PICUではもう手に負えないとなった子は、それのすぐ下のICUに降ろされる。それだからリコおばちゃんは小児科病棟で急変してしまった子のことや、手術をした後になかなか体が上手く回復しないって子のこともよく知っている、当然死んでしまった子のことも。
だから、僕は分かってしまったんだ、多分だけれどミイはもう。
春らしい、柔らかな光の差し込む礼拝堂の横の小さな部屋の中で僕はそれ以上、リコおばちゃんにミイのことを聞こうとは思わなかった、聞いたところでリコおばちゃんには患者のことを他の人にペラペラ喋ってはいけないっていう厳重な決まりがあるし、何よりあの白い病院の中ではそういうことはいくつもいくらでもあるし、僕らはそういう世界を生きているちょっと特別な子どもなんだ。
大丈夫、僕はそういうことに普通の子どもよりずっと馴れている。
「大丈夫?」
「平気、なんでもないよ」
僕のわずかな、ほんの小指の先ほどの望みは静かにしぼんで消えてしまった。それでもそのあと僕は『なんでもないよ』って顔で結婚式でリングボーイの大役を果たした。結婚指輪をレースとビーズとリボンの縫い付けられた白いサテンのクッションに乗せてごく冷静に慎重に祭壇の牧師さんまで運び、それを手渡すと一礼して自分の座席に戻り、その後は大人しく木製の長椅子に着席してよそ見もお喋りもせずちゃんと讃美歌だって歌った。
僕は、慣れているんだ。
祭壇の前に立つリコおばちゃんは文句なく綺麗だったし、大学の入学式でリコおばちゃんに一目惚れをして以来リコおばちゃんのことをずうっと大好きで、卒業式の日に絶対にリコおばちゃんと結婚するんだって約束をして、今はリコおばちゃんと同じ病院の、血管造影室という場所で看護師をしているサトルさんはもう感無量という感じのずっと涙目で、その様子を見るのだって本当に嬉しかった。とても素敵な結婚式だ、今日の暖かさが少し気の早い桜の花さえ運んできた、僕の家族の大切な記念日、神様はリコおばちゃんとサトルさんの結婚を目一杯祝福してる、みんなが幸せだ。
でもミイのお葬式は一体いつあったんだろう、ミイはいつ天国にいったんだろう、どうしてみんな僕にそのことをきちんと言葉にして教えてくれないのだろう。
「またね」
僕はパイプオルガンの音の中で、耳の奥に残って離れないミイの声を100回くらい脳内再生していた。ミイはどうして僕に「またね」って言ったんだろう、死ぬときってやっぱり予想外に想定外で、だからミイは病棟に戻って来る気持ちでいたってことなのかな、でもミイは心臓をまっさらに新しいものに取り換えないことにはそう長くは生きられないんだってことをちゃんと知っていたし僕にもそう言っていた(筆談でね)。次にPICUに送り込まれてしまえば高い確率で戻っては来られないんだろうってことも知っていた。だったらどうして「またね」だなんてミイは言ったのかな、そのひとことがあればお別れの哀しい気持が少しはマシになるからなのかな。
(なにが「またね」なんだよ)
僕がもう誰も答えてはくれない質問をあたまの中にぐるぐると回し続けている時、祭壇ではリコおばちゃんに向けて、サトルさんが誓いの言葉が読み上げていた。とは言えサトルさんは感無量の頂点にあってしきりに嗚咽をあげていて、涙声でどもったりつっかえたりしながら読み上げている宣誓はちょっと時間がかかっていて、それを列席者であるところの皆は「大丈夫かしら」なんて雰囲気で、やや固唾をのんで見守っていた。
「新ッ郎となる私は…新婦である莉子を妻…ヒックとし、人生の良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも…ウッ病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで…」
「異議あり」
「…えっ」
礼拝堂に集ったすべての人が新郎の言葉に静かに真剣に厳かに聞き入っている時、突然その宣誓の後半、『死がふたり分かつまで』のところで挙手までして異議を唱える誰かがいて、それが新郎に相対している新婦であるところのリコおばちゃんだったものだから会場はざわついて新郎は涙を引っ込めた。そしてさっきまで嬉し涙に暮れていたお母さんは、怒り心頭って顔で長椅子の端から立ち上がった。
「リコ、あんたこんなタイセツな時に一体なにをふざけてんのよ」
「死が引き裂くものって何があると思う?あたしはね、実のところ本質的にそれは無いと思うの」
それを真っ直ぐに、あんまり真っ直ぐにサトルさんを見つめたままリコおばちゃんが言うものでそれは、いつもはリコおばちゃんの言いなりに優しくて、それを当然よって顔でリコおばちゃんが顎で使っていて、完全に尻に敷いてるんだなって感じのサトルさんのことを、リコおばちゃんが周囲の皆の想像以上に予想に反して大好きなのだと、来世もまた同じ人と結ばれたいと思っているのだと、それをこの会衆一同の前で宣言したい程に愛しているのだって、皆はそう思って感動の空気が流れたのだけれど、それは実のところリコおばちゃんが過剰に愛している僕への言葉なのだってことは、僕にはちゃんとわかった。
『死が引き裂くものって物理的な意味合いでは沢山あるのだけど、本質的なところでは実は存在しないのよ』
僕とかミイとかは、産まれた時からその「死」の隣にあって、それが現実味のありすぎるもので、自分自身にもそれはそう遠くない将来に起こることなんだって実感があって、いやありすぎて、それをとても恐ろしいものだと思っていたのだけれど、実はそうじゃないのかもしれない。ミイとしばらく会えなくなるのは、あの子の柔らかい髪を長い三つ編みに結んであげられなくなるのは、とても淋しいことだけど。
「そういうことでしょ」
やや波乱含みだった結婚式を無事に終えて、神様の前で無事サトルさんと正式な夫婦になったリコおばちゃんに僕は言った。リコおばちゃんは誰かが死んでしまうことを、それでその子がもしくはその人が跡形もなく消えて、全くいなくなってしまうことだって考えてはいないんだよね。
「そうだよ。脳の細胞ひとつひとつに刻み付けるようにして忘れないでいられたらね、どこかの、びっくりするようなタイミングでお別れした誰かともう一度会えたりする」
「じゃあ、僕らは本来不死身ってこと?」
「ある意味ね。忘れなければ体を無くした誰かもまた他の誰かの中で生きてることにならない?だからユウはさ、ユウだけでも頑張って大人になりな、そうしてあんたの中でミイをずっと生かして」
それが、ユウの周りにいる大人の、みんなの夢でもあるのだから。
「あたしだって今日、ママのウェディングドレスを着て顔も髪もこれ以上ないってくらい塗って盛ってみたら死んだはずのママが目の前にいて大笑いしたんだよ。ユウのおばあちゃんは美容師さんでさ、すごいお洒落でいつもきれーいにお化粧してる人だったの、でもこんなそっくりなんて超予想外、あたしの中にママがいるんだもん。だからユウもきっともう一度どこかでミイには会えるよ、それはもちろん物理的な意味ではないかもしれないけど、ああミイはこんなとこにいたんだねって、自分の未来で待っててくれたんだねって、そう思う日はこの先きっとあるよ、きっと何度もね」
教会のすぐ近くのレストランで開かれた家族だけの食事会の直前に、リコおばちゃんがお色直しの桃色の振袖を着て僕にそう言った時、僕の後ろでかすかにミイの声がした。それは本当に微かな、もしかしたら音ですらないかもしれない声で。
「だから『またね』って言ったじゃん」
僕は振り返ることはしなかった。実体を持たないミイが僕にはもう目視できない存在なんだってことは、僕にはわかっていたから。でも死っていうヤツはどうやら僕らを引き裂かないみたいだよミイ、僕はスパイにはなれないかもしれないけれど、全速力の氷鬼も諦めないといけないみたいだけれど、その代わりちゃんと大人になって、そうしてミイにどこかでまた会おうと思う、きっと会えると思うんだ、僕がそれを忘れなければ。
結婚式と披露宴とそれから色々の片付け、それを全部終えてくたくたのお母さんと僕が手を繋いで、お父さんが大荷物を抱えてやっと家に戻るともう日はすっかり暮れて空はうっすらと藍色になっていた。
その藍色と茜色の静かに溶け合う西の空の端がとてもきれいだなって思いながら僕がタクシーのトランクに乗せてあった紙袋をふたつ玄関に運びこんで、それからふと思いついて郵便受けの中をのぞくと、僕宛ての手紙が1通届いていて、それはミイのママからのものだった。夕方の空の色みたいに優しい色の封筒で。
『ミイがユウ君に書いていた手紙があの子の読んでいた『星の王子さま』の本の間から見つかりました。きっとこれがあの子の一番最後の手紙だと思うので、ミイに代わってユウ君に送ります、赤ちゃんの頃から、ミイとずうっと仲良くしてくれて本当にありがとう』
それは、大人のきれいな文字で綴られた短い手紙で、それと一緒にミイの最後の手紙が同封されていた。そこには熱が出ているとつまらないとか、ベッド上安静さいあくとか、中本先生があたしのことを心配しすぎるからいよいよおでこの生え際が後退しつつあってカワイソウとか、ミイの文字でミイらしいことがたくさん書かれていたけれどその最後に
「もしもあたしがユウより先にしんで、そのあとにユウがうっかり天国に来ようとしたら、あたしが雲の上からけりおとすからそのつもりでいてね、たまにあたしの方からそっちに遊びに行くから、ぜったいこっちには子どものうちに来ないこと!」
『ぜったい』のところに赤鉛筆で線まで引いてそんなことが書かれていた、あんたは中本先生の夢をかなえてあげてって。
「わかったよ」
夕暮れの風にふわりと花の香りの漂う3月の空気は僕にとても優しくて、僕はすっかり日がおちて薄暗くなった家の外の、お母さんが大切にしているミモザアカシアの下にミイが立っているような気がして、ひとことだけそう呟いた、そこには何の音もしなかったのだけど。
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