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【パラダイムシフト】人間は投げる葦(あし)である—くたばれ、デカルト

要約:ギフテッドやニューロダイバージェントなどの燻っている知的才能を開放するには、人間の本質を「投げるのが得意な生物」と再定義すれば良い。

元記事: Why don’t we define the ability to throw a baseball as the defining human trait?


我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum) —— デカルト

そのパターンに気付き始めたのは中学くらいだっただろうか。スポーツや芸術方面で突出した生徒は学校をあげて壮行するのに、知的な突出は目立たせまいとあの手この手で教師たちが介入[1]してくるのである。

高校[2]、大学ではそういったタガは外れ、知的な切磋琢磨と評価については忖度(誰に?)のない環境だったので、「なんだ、公立中が共産主義的な教師の巣窟だっただけか」と勝手に納得していたものである。

しかし、社会[3]に出るとこの状況が逆戻りする。協調性、チームワークがやたら推され、個人の圧倒的成果はチーム全体のものとして矮小化される。屋台骨を支える活躍をしても、昇給はせいぜい同職にくらべ+10%程度(そしてこれを「能力主義」だの「成果主義」だのと形容する厚顔無恥ぶり)、昇進や正規採用は経験年数・資格などの理由で阻まれ[4]る。「限界生産力」の経済理論は確立されているにもかかわらずである。アーロン・ジャッジがリプレースメントレベルの選手に比べて+10%の給与に抑えられているのを想像するとこの状況がいかに滑稽で異常かわかる。


[1] 試験結果を度数分布表のようなぼやかしたもので発表するなど。これは公立だったのもあるかもしれない。私立だとまた違うのだろう。

[2] 進学校だったので、試験順位は貼り出され、教師も優秀者の名前を出して競争を煽ることに対して躊躇しなかった。

[3] 主に米国での話。日本企業は鶴の一声で抜擢、評価、配置換えがあるので比較的風通しが良い。高みを目指し妥協を許さない点で日本のほうが、敗者のエゴに忖度する欧米よりも能力主義的と感じる。いかに西洋化されようが、国力が落ちようが、我々はやはり武士の子孫なのだ。

[4] 雇用側にとってはハイパフォーマンスの成果を享受しつつ、チームの和を理由に低給に抑えるという口実になる。利益を最大化するというシニカルな観点では正しい経営判断である。また、多様性先進国においては経験年数や資格に反する人事は訴訟リスクをはらむ。活躍度の定量化が難しい一方、能書きは法廷で客観性を持つためである。


その一方で世間を見渡すと、各分野で突出した人間は遠慮なくその実力を披露し称賛されている:

  • アスリートは満員のスタジアムの前でその能力を見せつけ、喝采を浴びる

  • 歌手の広い声域は称賛の的となる

  • ミュージシャンやアーティストは才能を披露し、あまねく絶賛される

  • モデルやセレブリティはその容姿で崇拝され、雑誌はランキングの特集記事を組む

私が中学校で感じた違和感は、どうやら世の中の常識だったらしい。なぜ知性だけが抑圧[5]されるのか?

私は、自分よりも歌が上手い人、スポーツが得意な人、容姿が端麗な人がいることは素直に認められるし、そういった人々が才能を発揮するのを自惚れだとか自慢だとかは思わない。ましてや「自重しろ」だとか「謙虚になれ」だとか、おこがましすぎて言えるわけがない。その一方で、こと知性になるとやたら過敏になる社会。この差はどこから来るのだろうか?

私が思うに、冒頭のデカルトの引用句や、パスカルの有名な「人間は考える葦である」という一文などが象徴するように、「知性こそが人間の根源的な価値」と我々が自己認識していることに起因している。よって、音楽やスポーツで才能を発揮している人間は「その方面で突出しているな」程度の認識だが、知性を発揮することは場合によっては相手の人間性の否定になりうるのである。

だが待ってほしい。果たして本当に知性が人間の定義として適切なのか。確かに地球上の生物の中でそこに秀でてはいる。が、人間は「投擲が得意」という点でも秀でているではないか。165km/hの速球を投げられるのは、我々ホモ・サピエンスの専売特許[6]である。

仮に高度知的生命体がUFOで来訪したとして、果たして彼らには「知性」が人類の特徴と映るだろうか?知的生命体など銀河中にごまんといるかもしれない。彼らの分類体系では「太陽系第三惑星の投擲生物」になっていても不思議ではない。


[5] 「アインシュタインは?」→これは基準を高く設定し「その他は所詮団栗の背比べ(だから出しゃばるな)」という相対化戦術として機能している。

[6] 人間より筋力の強いチンパンジーでもせいぜい32km/hとされる。※Gemini談


そこでここからが私の提案。いっそのこと、こちらの定義に鞍替えしてしまってはどうだろうか?

私はギフテッドやニューロダイバージェントみたいな行儀のいい界隈は苦手だが、その苦痛は理解できる。が、それをそのまま発信しても解決にならないのはこの構造化によって明らかであろう。「人間=考える生物」という概念に縛られている限り、そういった訴えは聞き手の神経を逆なでし逆効果だ。知性の開放が他人の人格否定にならなくするには、この枠組み自体を抜け出す必要がある。

アーキタイプとしての英雄性は既に投擲の達人のほうが圧倒的に上ではなかろうか

だから私はここに「人間は投げる葦(あし)である」と定義する。

上記に該当する人たちも、これを啓蒙すべきだと思う。そして社会的観点で見ても、この定義に鞍替えするメリットは多大である。現在の「知性によって定義された人間性」を守るために制度化された横並びの仕組みが無くなって、抑圧された知性が日本中で、世界中で解放された場合の人類の躍進・経済効果は計り知れない。AIが人間の能力を開放しようとする今だからこそ、17世紀の非生産的なパラダイムを捨てるべきだ。

そして新時代のマインドが完成した時、我々は大谷選手が165km/hの豪速球を投げ込む姿を見て、人間性を否定された気持ちになるのである。ヒール役は野球選手たちにしばらくやってもらおう。

人間は投げる葦(あし)である —— 5ynthaire

我投げる、ゆえに我あり —— 大谷翔平

※言っていません



追伸 デカルト、氏んどけ


後編へ続く

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