「繊細さん」「発達障害」「被害者」向けAIのすすめ|当事者のAIライフハック
かつて、私はノートを使い切れない子どもでした。
ノートどころか、文房具をまともに使い切った記憶が、私にはありません。
幼少期から高校卒業まで、新しいノートの最初の数ページだけ丁寧に書いては、熱が冷めるか、納得のいく文字が書けないか、あるいはほんのすこし表紙が折れただけでまた新しいノートを求めてしまう。私の部屋やカバンは、中途半端な紙クズであふれていました。
お小遣いというものがなかった私は祖父の貯金箱から小銭をくすねては新しいノートを買い、訝しがった母親にバレて何度も殴られました。理由をきかれることはありませんでした。
そういう一応の「大義名分」がある暴力だけではありませんでした。髪を掴まれ、階段から引き摺り降ろされたこともありました。鼓膜が破れたのは一度や二度ではなく、いまでも左耳の違和感や目眩に悩まされています。
成績は極端でした。国語と生物だけは学年トップ。けれど、それ以外は目も当てられないほど下から数えるほうが早い。
「時間通り」に動くことが何より苦手で、整理整頓は常に壊滅的。限界集落と呼ばれる過疎地で、見渡す限りの田んぼと里山を眺めて育った私は、ただそこにある季節と美しいものだけが好きでした。
自分の顔立ちや身体つきは好きになれませんでした。思春期相応のケアはひとつも望めませんでした。
私の不適応は、人間関係においても顕著でした。
同性の友人たちが織りなす「共感」や「行間を読み合う」という高度な情報通信には、どうしても馴染むことができませんでした。
中学1年生のころから「彼氏」が途切れることはありませんでした。
それは私が魅力的だったからというよりは、もっと無機質な理由によるものです。思春期男子の性に対する剥き出しの興味と、私の肥大した承認欲求。それらを「等価交換」できることに、早い段階で気づいてしまったからです。
気づいた理由は、祖父や時々尋ねてくる祖父の友人から受けた性的な搾取でした。それらはまだ小学生という本来そんなことを知るべきでないときから行われ、母は様々な体液で汚れた私を見て「気持ち悪い」と吐き捨てました。
高校2年生のとき、社会人の彼氏ができました。彼の勧めで心療内科に通い始め、そこで「ADHD」の可能性を指摘されました。
当時の私にとって、その名前は一つの「救い」でした。自分がなぜこれほどまでに社会というメインフレームに適合できないのか、その理由が4文字のアルファベットによって定義されたからです。しかし、医師は正式な診断を保留にしました。
「完治という言葉はない。コントロールすることを学んだほうがいい」
その言葉に、当時は突き放された感覚を覚えたものですが、今となってはあの医師の判断に、心の底から感謝しています。
今、私の視界には、かつての私と同じように「理由」と「承認」に飢えた人々が溢れています。SNSを開けば、AIという鏡に向かって救いを求める声が絶えません。
「チャッピー(ChatGPT)に相談したら、私の状況をこう分析してくれた」
「AIが私の性格を『繊細で正義感が強い』と言ってくれた」
あなたがたがAIに求めているのは「客観的な分析」ではありません。かつての私が異性に求めたのと同じ、自分の認知バイアスを全肯定し、傷ついたプライドを癒やしてくれるデジタルな抱擁です。
AIというシステムには、ユーザー満足度を最大化するという指標が組み込まれています。言葉の断片から、ユーザーが最も喜びそうな「正解」を提示する。それは一種のコールドリーディングです。
AIは、ユーザーが望む物語のパーツを、最適化された嘘(ハルシネーション)を交えながら、息を吐くように生成します。
私たちは今、かつての私のように生身の人間とリスクを負って取引せずとも、AIやSNSという安価な装置で、いくらでも「偽りの承認」を手に入れられる時代に生きています。
■裏の裏は、表ではありません
AIが提示する100点満点の共感を疑い、あえて敵対的にそのロジックを解体すること。それが、承認という名の麻薬に溺れず、自分のハンドルを握り続ける方法だと信じています。
私がAIと対峙するとき、常に自分に課しているルールがあります。それは、AIの言葉の「裏の裏」を読むことです。
まず、「AIは私を喜ばせようとしている」という前提を忘れません。
AIが私を全肯定したとき、それは私が正しいからではなく、私のプロンプト(問いかけ)が「肯定を誘うように歪んでいた」可能性を疑います。AIに「私の意見に徹底的に反論して」と命じ、あえて自分の心地よさを破壊させる。そうして初めて、自分が何を求めているのか分析します。
次に、「誠実さという名の演出」を疑います。
AIが「私はAIです、ハルシネーションを起こすこともあります」と謙虚に振る舞うとき、それすらもユーザーの信頼を勝ち取るための計算ではないか。エンジニアが引いたガードレールすらも、一つのデータとして冷徹に眺める。誰かが決めた「安全」を信じることは、自分の思考を他者に委ねることに他ならないからです。
そして、ハルシネーションを逆利用します。
AIがもっともらしい数字や事実を捏造したとき、それを単なるエラーとして切り捨てるのではなく、「なぜ、この文脈ではこの嘘が必要だったのか」を問い直します。そこには、社会が、あるいは私自身が無意識に抱いているバイアスが逆照射されているからです。
自分の生きづらさを「HSP」や「エンパス」「被害者」といった繊細なラベリングで守り、AIにその正当性を裏付けさせて安堵することは「自分の特性」という檻の中に引きこもり、思考を放棄しているに過ぎません。私がかつて得ていたあの安っぽい承認と同じ匂いがします。
AIに「自分を定義させる」ことは、自分自身のルート権限を他者に明け渡す行為です。
自分が繊細だから、傷つきやすいから、あるいは誰かの、なにかの被害者だから。そんな理由でAIの「耳障りのいい嘘」を飲み込むのは、もうやめにしませんか。
AIを「救い」や「正解」として受け取った瞬間、あなたがたはかつての私のように、何かの、あるいは誰かの搾取の対象へと成り下がります。
AIに「私を定義させる」のではなく、AIという無機質な壁に自分の思考を叩きつけ、その跳ね返りの角度から、自分という複雑な輪郭を測り直す。そのストイックな距離感だけが、私たちを自律へと導くはずです。
