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教育を語る大人は、学ぶ側に戻れるか——辺野古沖事故と、知華さんのご家族が母校に問い続けていること

知華さんのお父様、そしてお姉様の手記を読んだ。

事故の経緯、安全管理の欠落、学校の説明と映像との食い違い、事故後も変わらない日常。
その一つひとつに言葉を失いながら、僕の中には別の問いが浮かんでいた。

教育を語る大人は、自分たちが間違ったとき、学ぶ側へ戻れるのだろうか。

子どもには「自分で考えなさい」と言う。
間違えたら「素直に認めなさい」と教える。
他者の立場を理解し、「責任を持って行動しなさい」と求める。

では、それを教えている大人や学校自身はどうなのか。

「調査中」の内側に閉じる学校

知華さんのお姉様は、母校で学んだ「自由」について書いている。

自由とは、好き勝手に振る舞うことではない。
他者の尊厳を守ること。
自分の自由が誰かの安全を侵していないかを考えること。
自由に伴う責任を、自分自身で引き受けること。

その価値を教えてくれた母校に、いま同じことを求めている。

しかし事故から四か月が経っても、学校から繰り返されるのは、

「第三者特別調査委員会が調査中ですので」

という言葉だという。

もちろん、第三者による調査は必要だ。
事実を慎重に確認し、責任の所在を明らかにすることも大切だと思う。

けれど、調査結果を待たなければできないことと、今すぐできることは別ではないか。

始業式で知華さんへの黙祷を捧げること。
同級生を失った生徒たちに向き合うこと。
遺族に継続的な説明の場を設けること。
文部科学省から指摘された問題を、自らの言葉で説明すること。
現時点で明らかに不適切だった点を改めること。

これらに、第三者委員会の報告書が必要だろうか。

お姉様の言葉が重い。

事実の認定と、人として向き合うことは、別の問題です。

まさにその通りだと思う。

指摘されなければ、間違いを認められないのか

第三者委員会が何を問題とするか分からない。
先に謝罪すれば、負わなくてもよかった責任まで認めたことになるかもしれない。
自分たちから発言すれば、後で矛盾を指摘されるかもしれない。

だから、報告書が出るまでは何も言わない。

学校側にそうした計算があるかどうかは分からない。
しかし、長く続く沈黙は、ご遺族にはそう見えてしまっている。

そして、その見え方を否定したいなら、学校自身が言葉を発するしかない。

「ここは私たちが間違っていた」
「事故直後の説明は正確ではなかった」
「報告書を待たず、これは改める」
「知華さんを守れなかったことに、学校として向き合う」

自分で気づき、自分で認め、自分で正す。

それは、学校が生徒に求めているはずの態度ではないか。

外部から指摘されるまで何も認めず、何も変えられないのであれば、それは自浄作用がないことを自ら示しているに等しい。

最も学んでいるのは誰なのか

この事故を追い続ける中で、奇妙な逆転を感じている。

知華さんのお父様は、悲しみの中で過去の資料を調べ、学校の安全管理や教育内容を検証し続けている。

お姉様は、自分が母校で学んだ自由と責任を手掛かりに、愛した学校へ問いを返している。

同級生は、自らが体験した研修旅行や学校への不信を、自分の言葉で書いている。

つまり、ご遺族や生徒たちは、苦しみながらも事実と向き合い、自分の考えを更新し続けている。

一方で、教育を担った学校や関係組織は、「調査中」「捜査中」という境界線の内側に閉じ、自分たちから学び直す姿を見せていない。

最も深く学んでいるのが遺族と生徒で、最も学ぶ側へ戻れていないように見えるのが教育機関である。

この逆転は、あまりにも皮肉だ。

「教育」という言葉への違和感

最近、僕は「教育」という言葉を使うことに、少し抵抗を感じ始めている。

教育とは、ある人間を望ましい状態へ変化させるために、意図的かつ計画的に働きかけることだという。

では、その「望ましい状態」を誰が決めるのか。

国家か。
学校か。
教師か。
親か。
宗教か。
政治運動か。

「望ましい」という言葉は、どうとでも使える。

自分で考える人を育てることも教育と呼べる。
従順な人間にすることも教育と呼べる。
異なる価値観に触れさせることも教育。
特定の感想へ導くことも教育。

教育という看板だけでは、学びと教化の境界は分からない。

その境界を決めるのは、実際の関係性なのだと思う。

子どもに拒否する自由があるか。
異なる意見に触れられるか。
教える側の価値観を疑えるか。
大人の期待とは違う答えを持てるか。
安全と尊厳が理念より優先されるか。
そして何より、教える側も子どもや他者から学び、自分を変えられるか。

境界線の内側に閉じ、自分たちの思想の正しさを守ることは、教育ではない。

それは、大人たちが望む物語へ子どもを囲い込む教化に近い。

自由を教えた学校は、自ら自由になれるか

同志社は自由と良心を掲げてきた。

だからこそ、お姉様の問いは厳しい。

学校は、過去の説明や組織の体面から自由になれるのか。
誤りを認めることへの恐れから自由になれるのか。
自分たちの正しさを守る物語から自由になれるのか。

自由とは、自分たちが正しいと言い続ける権利ではない。

間違っていたとき、自らの意思で立ち止まり、責任を引き受け、変わることのできる力ではないか。

「自由」を教えた学校が、その自由を自分自身のために使えないのなら、その言葉は空虚になる。

「良心」を掲げる学校が、第三者に指摘されるまで自らの良心で判断できないのなら、その理念は看板にすぎなくなる。

教える側から、学ぶ側へ

教育とは、誰かを自分たちの望む姿へ変えることではない。

その人が自分の問いを持ち、自分の意思で考え、変わっていける条件を共につくることではないか。

そして、その関係の中では、大人もまた学ぶ側に戻らなければならない。

自分の善意が人を傷つけることがある。
自分の正義が他者の自由を奪うことがある。
正しいと思って設計したものが、命を危険にさらすこともある。

その現実を前にして、なお自分の物語を守り続けるのか。
それとも、自分たちが間違っていたと認め、未来のために学び直すのか。

知華さんのご家族が学校に求めているのは、見せしめの処分でも、平和教育の否定でもない。

何が間違っていたのかを、自分たちの言葉で明らかにすること。
知華さんの命と、傷ついた生徒たちに向き合うこと。
そして、同じことを二度と起こさないよう、自ら変わること。

それは、学校が子どもたちに教えてきたはずのことだ。

子どもに「間違いを認めなさい」と教える大人は、
自分たちの間違いを認められるだろうか。

子どもに「自分で考えなさい」と教える学校は、
第三者の報告を待たず、自分の良心で考えられるだろうか。

教育を語る大人は、
自分たちが間違ったとき、学ぶ側へ戻れるだろうか。

いま問われているのは、そこなのだと思う。


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