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【中学歴史/高校世界史共通】周の封建王国 「天」の創造と革命の理屈

「天(てん)」という漢字から連想するものは何でしょうか?

天下。天体。天使。天の河。

このように色々ありますが、ただ単に「天」といった場合には、空間としての空(そら)とも少し違い、地上世界の上にあって、私たちを見ている存在、という感じがしませんか?
天罰、という言葉はまさにそのイメージにぴったりです。

そういう意味での天は、約3,000年前の古代中国で起きたある王朝の交代を、人々に説明するために考え出されました。
そしてそれが、現在の日本にまで影響を与えています。

今日は古代中国において、この天の概念が生み出された理由をお話しします。


約3,000年前の古代中国で、600年にわたって華北・華中を緩やかに支配してきた殷王国が滅ぼされました。
殷の中心は殷墟(いんきょ)という巨大な邑/都市でしたが、殷墟には城壁がありませんでした。殷の王には神の力がついていると他の邑や部族が信じていたために、王に歯向かう者などいなかったのかもしれません。
しかしその前提は、突然崩れました。
殷墟に攻め込んだのはそれまで殷に従属していた遊牧民の部族の一つでした。華北の中でも西の外れにある渭水(いすい)盆地を拠点にしていた部族で、殷墟を攻略して殷の王を殺害し、新たに華北・華中の邑、部族の支配者となりました。

彼らをと呼びます。

古代中国の歴史書によれば、この時の経緯は以下のようなものです。

元々殷の紂王(ちゅうおう/例の『酒池肉林』の王)に忠誠を誓っていた周の文王(ぶんおう/彼は王にはなっていませんが、実質的な周の建国者としてこう呼ばれます)は、何度も紂王の王にふさわしくない行為(例えば酒池肉林の宴や、罪のない者を面白半分に殺害するなど)を止めさせようと何度も進言しましたが、紂王は耳を傾けませんでした。
それでも文王は臣下としての分をわきまえ、王に対しては向かうことはしません。

文王の子の武王は、世の人々の為には紂王を殺害するほかないと決めますが、伝説的な軍師である太公望(たいこうぼう)の助言に従い、人々の心が紂王から離れるのを待ちました。

そして10年後、ついに紂王に戦いを挑むのですが、腐っても中国の支配者である殷の巨大な軍に対して、武王の軍はわずか1/10にすぎない規模でした。それでも果敢に武王は戦いをしかけますが、いざ武王の軍が攻撃をしかけると、殷の兵士たちの様子がおかしいことに気が付きます。
彼らは武器を逆さに持ち、武王の軍に対して進んで道を開けました。もはや悪逆な紂王のために命を懸けて戦う兵士などいなくなっていたということです。

この「牧野(ぼくや)の戦い」こそは、戦いの前に勝敗を決するという戦争におけるもっとも最高の勝利の仕方として歴史に記憶される戦いであり、紂王は自分の行いの報いを受けて武王に対して敗北したというわけです。

いやいや、そんなことありえないだろ!
・・・まあ、人生訓としてならばともかく、歴史としては話が出来すぎだとは誰でも感じるところです。

事実はどうだったのでしょう?

 まず前回お話したように、殷の紂王が本当に悪逆な王だったとはかぎりません。むしろ神の力を背景にした殷の王として、彼は人々の幸せのためにやるべきことをやっていただけかもしれません。
 歴史書にある罪のない人を多く殺害したという記述も、当時の殷で行われていた神に人の命を捧げる儀式と考えれば、説明が出来ます。
 
 ただ彼の祈りの効果がなく、作物の不作が続いたり、災害が立て続けにおこったりすれば、

「あれ?もしかして殷の王、神から相手にされてないのでは?」

と思われて王の支配が弱体化することはありえることです。

 そのすきをついて、渭水盆地の遊牧民の族長だった武王が一気に城壁のない殷墟を攻略したのかもしれません。

 ただ武王は、殷の支配をそれまで受け入れてきた華北・華中の邑や部族を今後どうやって支配していくのかという難問に対処しないといけなくなりました。
というのは、殷を滅ぼしたわけですから、殷と同じ神の力をあてにはできないからです(むしろ殷の神は武王に対して怒っているはずですから)。

 そこで武王の建てた新たな王朝「周」は、神よりも上の「天」を作り出し、以下のように自分たちの行為を説明したのです。

実は人間が暮らす地上世界の上には天があり、天は人間の中からこれはと思う優れた人物を選んで、地上世界の統治を任せる(これを「天命を授ける」といいます)。
元々は殷も、かつて初代の湯(とう)王が天から天命を授けられ、それ以来彼の子孫がずっと地上世界を統治してきた。
それなのに悪逆な紂王はついに天から見放され、武王により滅ぼされた。
これは天が武王に対して新たな天命を授けた証拠であり、これ以降は武王の子孫が地上世界の統治を行うのである。

 ちなみにこの天命が元の王家から別の王家に移り、支配者が交代することを「革命」と呼びます。
 
 この理屈は確かに、武力で前の王朝を倒して新たな王となった者にとっては、自分の行いを正当化するために都合が良いです。
 
これがもしも、騎馬遊牧民の生きる世界であれば、
「実力のある者が王になるのが当たり前」
の世界ですからこのような理屈は不要です。しかし、華北・華中の農耕民を支配するためには、神に守られたはずの殷を倒したことが、なぜ正しいと言えるのか、人々が納得できる形で説明しなければならないのです。

もちろん周の王はこの天の理屈だけで支配を安泰に出来たわけではありません。

武王は殷を滅ぼす際に功績を上げた同じ部族の有力者や、同盟関係にあった他の部族の族長・邑の指導者たちに広大な華北・華中の地域をあてがい、その地域の支配を任せました(これを「封土の分与」と言います)。
彼らは「諸侯」と呼ばれます。

また武王は、それまで殷の支配下に入っていなかった遠くの地域(山東半島や長江の対岸など)に支配を広げるため、武器を持たせた農民たちを預けて送り込み、各地で新たな集落や邑を作らせました。
彼らのリーダーもまた「諸侯」と呼ばれます。

こうして広大な中国の各地に、周の王から地域の支配を任された有力者=諸侯がいて、諸侯たちが各地の邑・集落・部族を支配する体制が出来上がりました。

周の王位は武王の子孫によって受け継がれて(世襲)いきましたが、諸侯の地位もまた同じように世襲されていきました。

このやり方は、約400年後にオリエントでアッシリア帝国やアケメネス朝ペルシア帝国が編み出した「中央集権」的な世界帝国とは、異なる方法です。
確かに周の王から支配を認められた諸侯たちが広い地域を支配していますが、諸侯の地位は世襲であり、周の王は彼らを勝手に交代させることは出来ません。
さらに周の都が置かれた渭水盆地の邑・鎬京(こうけい)と、各地の諸侯の支配地を結ぶ街道も駅も、駅伝制もありません。
ということは、周の王の目は地方には全く届かないのです。

こうしたあり方は「封建制」と呼ばれます。

封建制は中央集権的な世界帝国ほど洗練された感じがしませんが、これはこれで周という王国を長く存続させることにつながりました。
ただし、封建制では王の目が届かない分、諸侯は徐々に自立し、各地には独自の文化が育っていきます。

そしてそれが日本列島の歴史にもダイレクトに影響を与えます。段々世界史と日本史が交錯してきますので、この先もお楽しみに。

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