【掌編小説】 風文 (かぜふみ)
あなたは「風文」というものを信じられるだろうか。
雪山で命を落とした者が、最期の想いを風に託し、残された誰かへと届けるという、伝説とも噂ともつかない話を。
私は長く山岳救助に携わってきた。
数えきれないほどの遭難現場に立ち会い、冷たい雪をかき分け、必死に人の温もりを探した。だが、そのすべてが報われるわけではない。
あの冬もそうだった。
ひとりの若い単独登山者が消息を絶った。
私たちは一週間にわたり、吹雪の斜面を登り、谷を覗き込み、声を枯らして彼を呼んだ。
だが、発見には至らず、救助は断念された。
最後の夜、風は止み、雪は音もなく降り積もっていた。
その静寂の中で、耳の奥にふいに声が鳴った。
(ごめん、春には帰る。)
それは、若者のものだと直感した。
理解できないかもしれない。
けれど、あのとき確かに、私は「風文」を受け取ったのだ。
◆
その夜、一人の母のもとへとそれは届いた。
降りしきる雪の庭先に、ふと風が巻き、白い光がきらめく。
その奥に、凛とした眼差しの雪様が現れる。
怜悧に澄んだ美しさは、近づけばたちまち淡くぼやけ、遠のけばくっきりと鮮明に結ぶ。
その足元では、仔兎が無邪気に跳ね回り、ひとひらの雪片をくわえている。
仔兎は小さく跳ねて母の前に近づき、その雪片を差し出した。
母が両手でそれを受け取った瞬間、耳の奥で声が鳴った。
(ごめん、春には帰る。)
胸の奥が引き裂かれるような痛みに、母は思わず膝をついた。
けれど、絶望に沈みかけたその肩に、雪様の気配が静かに寄り添う。
凛としたまなざしは何も語らない。
それでも、ただそこにあるという存在感が、母を包み込んでいた。
仔兎は雪の上を軽やかに舞い、母の足元を一巡りする。
その姿に、母の呼吸が整っていく。
やがて彼女はそっと目を閉じ、雪と光とともに息子の想いを受け入れた。
母は小さな祠を作った。
雪兎をまつり、熊笹に胡桃の殻を置いて団子とお酒をそっと添える。
祠は失われた命と祈り、そして母の複雑な感情が交差する場所。
◆
やがて冬の終わり、雪解けとともに若者の遺体は山から戻された。
それは静かな葬送だった。
風文。
確かに、それは存在する。
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