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短編小説『酷道425の郵便局 後編』


老人が旗を片付けている間、私は窓口の脇に掛けられた額縁へ目を留めた。


古い集合写真だった。

白黒写真ではないが、色はすっかり褪せている。

校庭らしき場所で、大勢の子どもたちが笑っていた。

先生だろうか。中央には数人の大人も並んでいる。

その隅に、小さな郵便局の建物が写っていた。

私は写真と窓の外を見比べた。

同じ建物だった。

「昔のですか。」

老人が戻ってきた。

「ああ。」

写真の前で足を止める。

「運動会の日です。」

それだけ言って、小さく目を細めた。

「昔は、この辺りも賑やかでしてね。」


私はもう一度写真を見る。

子どもだけで五十人はいる。

今では想像もつかない人数だった。

「皆さん……。」


そこまで言って、言葉を飲み込んだ。


『どこへ行ったんですか。』


その質問は、あまりにも答えが分かりきっている気がした。


老人は私の気持ちを察したのか、お茶を一口すすって静かに言った。


「ダムができましたから。」


たった、それだけだった。

恨みもない。

怒りもない。

事実を話すような口調だった。


「この写真に写っている人たちも、みんな都会へ移りました。」


私は窓の外を見る。

廃屋だと思っていた家並み。

あれは、『捨てられた』のではない。

『残された』のだ。

誰も住まなくなっても、家だけが時間を止めていた。


「……局だけは残ったんですね。」

老人は少し笑った。

「ええ。」

「郵便局は、誰かが閉めない限り、自分では閉まりませんから。」


「今でも郵便は届くんですか。」

私の問いに、老人は頷いた。

「届きますよ。」

「住んでいる人がいるんですか。」

「住んではいません。」


少し間があった。


「帰ってくる人は、います。」

その一言で、部屋の空気が変わった気がした。


老人は窓際へ歩き、雨に濡れた集落を眺める。

「春になるとね。」

「はい。」

「桜を見にくる人がいます。」

「お盆にも。」

「秋祭りの日にも。」


老人は、指で一軒の家を示した。

「あそこは、鍛冶屋さんだった家です。」

少し離れた瓦屋根を指す。

「あちらは駄菓子屋。」

私は黙って聞いていた。

「皆、もうここには住んでいません。」

「でもね。」


老人は小さく笑う。


「帰ってくると、自分の家の前に立つんですよ。」


その言葉が、不思議と胸に沁みた。


「郵便局にも寄ってくれます。」

「切手を一枚買ったり。」

「葉書を一枚買ったり。」

「別に用事なんてないんです。」

「でも、『まだ開いてるんやね』って。」

老人は照れくさそうに笑った。

「そう言って帰っていきます。」


私は窓の外を見る。

さっきまで廃墟にしか見えなかった家並みが、少し違って見えた。

誰もいない村ではない。

誰かが、ときどき帰ってくる村なのだ。

その帰る場所の灯りを、この人はずっと消さずにいた。


雨は、いつの間にか止んでいた。

雲の切れ間から、夕方の柔らかな光が湖へ差し込み始める。

老人は静かに立ち上がった。

「道も乾き始めます。」

帽子を手に取る私へ向かって、

「気をつけて。」

それだけ言った。

来た時と同じ言葉だった。

『道が悪いから。』

その一言の意味が、今は少しだけ分かる気がした。


郵便局を出ると、雨上がりの山は静まり返っていた。

さっきまで谷を覆っていた雨雲は流れ去り、湖面には薄い霧が漂っている。

杉の葉から落ちる雫だけが、静かな音を立てていた。

私は坂道を下りながら、一度だけ振り返る。

郵便局の玄関先で、老人が箒を持っていた。

濡れた土間を掃いている。

もう営業時間は終わっているというのに。

誰が来るわけでもない。

それでも、その姿はどこか誇らしかった。

車に乗り込み、エンジンをかける。

メーターの時計は午後四時を回っていた。

国道四二五号をゆっくりと引き返す。

来るときには不気味にしか見えなかった廃屋が、今は違って見える。

庭先に転がる子どもの三輪車。

傾いた物干し台。

崩れかけた石垣。

そこには、確かに誰かの暮らしがあった。


バックミラーに赤い郵便局が映る。

小さく。

さらに小さく。

やがて杉林に隠れ、見えなくなった。

私はアクセルを少しだけ緩めた。

また来よう。

そう思った。

けれど、その約束を果たすことはなかった。


数年後。

昼休み、会社の食堂で何気なく広げた新聞の片隅に、小さな記事を見つけた。

『東の川簡易郵便局、三月末をもって閉局』

たった一行だった。

私は箸を置いた。

あの日の雨。

湯飲みから立ち上る湯気。

「帰ってくる人は、います。」

老人の穏やかな声が、昨日のことのように蘇る。

記事には理由だけが書かれていた。


利用者の減少。

受託者の高齢化。


だが、あの郵便局が守っていたものは、数字では測れなかった。


私は窓の外を見た。

春の風が吹いていた。

あの山にも、きっと桜は咲いている。

帰る人を待つ郵便局は、もうない。


「帰ってくる人は、います。」






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