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短編小説『鏡蓮華 後編』 unit status:deleted          


鏡蓮華 後編

それから、夜が続いた。

娘は何も言わずに現れ、焚火の前に座る。男もまた、何も問わない。

ハーモニカの音は、少しずつ変わった。

途切れがちな息は伸び、指は迷わなくなる。
教える声は減り、やがて消えた。

ある夜、彼は吹かなかった。
焚火の向こうで、娘ひとりが音を立てる。
島の風を含んだ旋律が、闇に溶ける。
最後の音が、揺れずに終わった。
彼は顔を上げる。
何も言わない。
もう教えることはないと、その沈黙が告げていた。

そのとき、空が裂けた。
 
激しい雨が焚火を叩く。
火は残したまま、ふたりは小屋へ駆け込んだ。

狭い空間に、濡れた空気がこもる。
衣服から水が滴る。
タオルは一枚しかない。
娘が先に受け取り、彼の肩に押し当てる。
濡れた布が肌に張りつく。

彼女の指が、彼の頬に触れた。
骨ばっている。
指先に、削がれた時間のかたちが伝わる。
かつてあったはずの丸みは薄く、皮膚の下で影のように揺れていた。

親指で、ゆっくりとなぞる。
冷えてはいない。
そこには、確かな温度がある。

彼の息が、わずかに乱れた。
 
吐息が首筋にかかる。

湿り気を帯びた熱が、皮膚を伝い、背骨の奥まで降りていく。

彼女の指は頬から顎へ、そして喉元へと滑る。

鼓動が、速い。



彼女はさらに身を寄せる。

胸と胸のあいだに、わずかな空気も残さないように。

痩せた身体が、腕の中で軋む。

それでも、確かな抵抗が返ってくる。
重みは、失われていない。

彼女は、ためらわなかった。
頬に触れていた指が、そのまま男の肩にまわる。

彼の体がわずかに揺れた、その瞬間。
彼女は重心を預け、押した。
彼の背が、柔らかく沈む。
布の擦れる音。
短く切れた息。
彼女は上にいる。
濡れた髪が、彼の首に落ちる。
視界の端で、彼の喉が上下するのが見えた。

言葉はない。ただ、息が早い。
彼女の手が、胸元に置かれる。
痩せた身体の下で、心臓が打つ。驚くほど、強く。
逃げ場を失った熱が、下から伝わってくる。
それを受け止めるように、彼女は身を伏せた。
彼の息が、唇のすぐそばで震える。
触れてはいない。それでも、もう戻れない。

彼の上に、静かに覆いかぶさる。
鼓動が、胸の下で打ち続けている。
 
外では、雨が砂を打ち続けている。

やがて雨音が遠のくころ、小屋の中には荒い呼吸だけが残った。



 

窓の向こうが、わずかに薄れている。
夜はまだ終わっていない。
けれど、朝は遠くない。
彼は眠っている。深く、穏やかに。

彼女は、静かに身を起こす。
シーツが擦れる音さえ、惜しい。
さきほどまで重ねていた体温が、ゆっくりと離れていく。
振り返らない。
頬に触れた骨の感触。
胸に伝わった鼓動。
押し倒したときの熱は、まだ胸の奥にある。
それだけでいい。

足を床につける。
冷たい。
その冷たさが、現実を連れ戻す。
死の影は消えていない。
だが、上書きした熱が、まだ胸の奥で燻っている。
彼女は音を立てずに部屋を出る。
扉が閉まる。
 
やがて朝が来る。
何もなかった顔で、世界は動き出す。
彼女もまた、何もなかった顔で歩く。
ただひとつ
自分が抱いたという事実だけを、静かに胸に残したまま。



夜明けは、湿っていた。
目を閉じても、森の輪郭が残る。
火の跡は冷え、灰は崩れていない。

あれから数日、娘は来ない。
 
彼は立ち上がり、池へ向かった。
あの日と同じ道。
同じ湿り気。
水面は静かに空を映している。
ただ、水草の間に蓮華が一輪、浮かんでいた。
島にも咲く花。

しゃがみこみ、ハーモニカを両手で持つ。
鏡に、自分の顔が映る。 

ゆっくりと、水の上に置く。

金属は一度揺れ、花の彫りが光を裂く。

沈まない。
浮かんだまま、朝を受ける。

彼は、それを見届ける。

持ち帰らない。

振り返らない。

やがて立ち上がり、歩き出す。



あれから、わたしは戻らなかった。
集落の女たちは、何も言わない。
言わないことが、許しでもある島だから。

火のそばに座ると、あの歌が、耳元にたちのぼる。
意味はわからない。
でも、終わり方だけは、覚えてしまった。

歌を覚えたとき、彼の中で何かがほどけたのが、わかった。
島の男たちは、ああいう顔をしない。
生きているのに、どこか死んでいる顔。

あの人は、生きていることを思い出した。
それでよかった。

朝、池へ行く。
水は冷たく、空を映している。

わたしは、蓮華を一輪、浮かべた。
この花の意味を、島の女は、みんな知っている。

久遠の愛情。
永遠じゃない。でも、消えない。

わたしは、あの人が花を持ち帰らないことを、知っていた。
だから、それでよかった。
 
 



数年が過ぎた。
島は、ほとんど変わらない。
雨が来て、乾いた風が吹き、海の色が少しだけ濃くなる繰り返し。
変わったのは、人の数と銃の音が完全に消えたこと。

男は、生きていた。
焚き火の場所はそのままだ。
ただ、火を起こす回数は減った。
夜は静かで、もう歌う理由もない。
集落は、何も言わないまま、男の存在を島の一部として扱い始めていた。
魚が余れば、遠くに置かれる。芋が多い日は、籠がひとつ、増える。
男は礼を言わない。
島のやり方を、もう知っている。
銃は、布に包まれたまま、小屋の隅に置かれている。
錆びた匂いがする。

ある日、池が白く光った。
男は、ひとりでそこに立つ。

水面に映るのは、少し老いた自分の顔。

池は変わらない。
森も、風も。
ただ、水辺に小さな桟橋ができ、子どもが走る声が聞こえるようになった。

男はそこにいる。

以前より背筋が伸び、手には別のハーモニカがある。
吹くのは、もう、子守唄ではない。

ときおり、音を止める。
池を見る。

水面は静かだ。

かつて金属が浮いていた場所に、今は何もない。

沈んだのか、流れたのか、誰も知らない。

男は、探さない。

吹く。



森の上空、高く。

白い光のようなものが、一瞬だけ揺れる。

鳥ではない。
雲でもない。

ただ、そこにあった。

観察するように、干渉せず、記録も残さず。

やがて、それは消える。


池は空を映し、風が水面を撫でる。

それだけが、続いている。


鏡蓮華  了


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