短編小説『鏡蓮華 前編』 unit status:deleted
鏡蓮華(かがみれんげ) 花言葉は久遠の愛情
〜 葬送のフリーレン第30話より引用 〜
蓮華は水に浮かぶ。
泥から咲く。
汚れを引き受けて、花だけを残す。

その島は、戦争の地図からこぼれ落ちた場所だった。
北へ戦線が押し上げられ、海図に新しい矢印が引かれていく。だが南のこの島には、もう誰も触れなかった。
命令も、補給も、終わりを告げる言葉さえ届かない。
兵士たちは敵と撃ち合って減ったわけじゃない。
食糧が尽き、身体が痩せ、熱に浮かされ、ひとり、またひとりと倒れていった。
マラリア。赤痢。飢餓。
弾は残り、銃もあった。だが戦う相手はすでに、いなかった。
最後に残ったのが彼だった。
昼の島は白かった。
光が強すぎて、ものの輪郭が溶ける。鉄はすぐに熱を持ち、銃は触れるだけで体力を奪った。密林は静かで、敵影よりも虫の羽音のほうが多い。
人は、意味のある音を待つようになる。
ある日、彼は水を汲みに島の奥へ入った。
密林を抜けた先に、ひらけた小さな池があった。
岩肌を伝う水は澄み、底まで見える。空の青と葉の緑が溶け合い、そこだけ時間の流れが違っていた。
水面が、わずかに揺れた。
池の中に、娘がいた。
素裸だった。
手足を伸ばす動きは、獣のように自然で、同時に若い生命そのものだった。
美しい、という言葉では足りなかった。
彼が見てきたのは死体ばかりだった。
痩せ、乾き、熱に浮かされた肉体。
それに比べて、この娘は生きていた。
疑いようもなく、生きていた。
女神よりも、残酷なほどに…..
視線が合った。
一瞬だけ、娘の目が彼を映した。驚きも、恐怖もない。ただの確認。
次の瞬間、娘は水を割って立ち上がり、岸に置いてあった衣を掴むと、何も言わず森へ消えた。
水音のあと、池はすぐに静まり返り、鏡のような水面が空を映した。
彼だけが、その場に立ち尽くしていた。
夜になると、島は急に深くなる。
昼にほどけていた輪郭が戻り、闇が本来の重さを取り戻す。
焚き火の火は小さく、周囲の影を押し返すほどの力はない。ただ、人がそこにいる証になるだけだった。
彼は火の前に座り、膝を抱えた。
銃はそばにあったが、手は伸ばさない。もう何日も、引き金に触れていない。触れたところで、何も変わらないことを知っていた。
わけもなく、胸の奥が疼いた。
理由はない。
思い出したい顔も、帰る家も、もう輪郭を失っている。それでも、身体のどこかに残っているものがあって、それが夜になると浮かび上がる。
ポケットから小さなハーモニカを取り出す。
吹いた。
音は低く、夜に溶ける。
故郷の旋律。
声を出さずに、息だけで吹く。
吹きながら、涙が落ちた。
理由は、わからない。
彼は拭わなかった。火に向かって、ただ吹き続けた。
背後で、空気が変わった。
気配。
足音はない。枝を踏む音もない。
それでも、ひとりではなくなったことだけは、はっきりわかった。
殺るなら、殺れ。
そう思いながら、吹きやめなかった。
振り向かない。確かめない。
ハーモニカを止めたくなかった。
火の向こう側に、影が座った。
小さく、静かに。
旋律が終わる。
しばらく、音はなかった。
彼がようやく顔を上げると、
そこに、あの娘がいた。
昼の池とは違う。
濡れた肌も、光もない。
それでも、確かに同じ娘だった。
娘は、しばらく炎を見ていた。
揺れる光が、頬と指を赤く染める。森の闇は深く、ここだけが小さな島みたいだった。
やがて娘は立ち上がり、闇の中へ消えた。
彼は何も言わず、追わなかった。
少しして、気配が戻ってきた。
娘の手には、果実があった。
丸く、重く、表皮に傷のないもの。
それを、火の前にそっと置く。
差し出すでもなく、投げるでもない。
ただ、そこに置く。
彼は一瞬だけ迷い、それから果実を割った。
甘い匂いが、夜に広がる。
ひと口かじると、水分が喉を潤した。生きている味がした。
娘は、その様子を見ていた。
満足したのか、少しだけ目を細める。
そして、火を挟んで彼を見たまま、短く、島の言葉を発した。
意味はわからない。
でも、声の高さと間で、伝わる。
「もう一度。」
彼は答えなかった。
答えられなかった。
それでも、くちびるを自然にハーモニカにあてる。
さっきと同じ旋律。
同じ曲。
今度は、震えなかった。
涙も出なかった。
ただ、夜に音を置くように吹いた。
娘は目を閉じた。
眠るわけじゃない。
聞いている。
曲が終わると、娘は何も言わず立ち上がった。
森へ戻る前に、一度だけ振り返る。
その視線は、別れじゃなかった。
ただ、また来るという目だった。

それから数日、娘は来なかった。
彼は待ちもしなかった。
ただ、同じ時間に焚き火を起こし、同じ場所に座った。
島は変わらない。
昼は白く、夜は深い。
誰も来ない夜にも、人はすぐ慣れる。
その夜も、彼は火を見ていた。
炎が落ち着いた頃、背後の空気が、また変わった。
来た、と思った。
振り向く前に、わかった。
あの静けさは、娘のものだった。
娘は前と同じ距離に座った。
同じ時間。
同じ火。
まるで、そう決まっていたみたいに。
試すような沈黙が、少しだけ流れる。
娘は彼を見て、首を傾げた。
そして、火を指さし、次に彼の口元を指す。
短い言葉。島の言葉。
やはり意味はわからない。 でも、今度ははっきり伝わった。
「曲を」
彼は、少しだけ笑った。
笑ったことに、自分で驚いた。
彼は懐から、銀色の小さな塊を取り出した。
使い古され、角のメッキが剥げたハーモニカ。だが、ボディは火の粉を反射して光る。
吸い込み、吐き出す。音は、湿った夜気を切り裂くように響いた。
五木の子守唄。
ブルース・ハープ。
それは、子を寝かしつけるための穏やかな旋律ではなかった。
リードを強く震わせ音を歪ませる。
行き場のない怒りと、底知れない悲しみが、銀色の箱の中でかき混ぜられ、かすれたブルースとなって吐き出される。
島に満ちていた虫の音が、一瞬、静まった。
娘が、動いた。
火を挟んで対峙していた彼女が、音に手繰り寄せられるように距離を詰める。
彼は目を閉じ、ただ息を吹き込み続けた。
不意に、音が揺れた。
くちびるに近いハーモニカの端に、温かく柔らかな感触があった。
娘の指だった。
彼女は音の正体を確かめるように、震える金属の肌にそっと指先を這わせた。
そこには、彼の命の震えがあった。
吐き出す息。吸い込む空気。喉の奥から漏れる、言葉にならない慟哭。
そのすべてが振動となって、彼女の指先から、腕へ、そして心臓へと流れ込んでいく。
彼は目を開けない。
彼女も、指を離さない。
銀色の楽器を通じて、二人の呼吸が混ざり合う。
彼の奏でるブルースは、いつの間にか、彼女の鼓動のリズムを刻み始めていた。
夜の闇の中で、どちらの息が音を奏でているのか、もう境目はなかった。
曲が終わると、娘は満足そうに息を吐いた。
それから、自分の胸に手を当て、もう一度、彼を見る。
今度は、言葉が長かった。
ゆっくり。
区切るように。
何度も、同じ音を重ねる。
娘は、彼の胸と、ハーモニカと、自分の耳を、順に指した。
そして、もう一度、声を出した。
娘は、待つように、そこにいた。
彼は、しばらく火を見ていた。
すこし経て、ハーモニカを娘に手渡した。
それを受け取ったとき、彼女は一瞬、自分の顔が映るのを見た。
光を拾う金属の上に、花の模様が彫られている。
彼は音をくちずさむ。
同じ旋律。そして歌いながら。
娘は真似をした。
音は違う。
でも、間違ってはいない。
その夜、彼は眠れなかった。
焚き火が消えたあとも、耳の奥で、音が鳴り続けていた。
それが自分のものなのか、わからなかった。
池の水が、静かに揺れていた。
後編へ

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