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こころの在処|ちび創作大賞参加作品

ドアのベルが、小さく鳴った。

店内は静かだった。

壁の古い振り子時計が秒を打つ。

カチ。

カチ。

カチ。


どこからかコーヒーの香りが漂ってくる。

「よかった。」私は小さくつぶやいた。

商談まで、まだ三十分ある。

「いらっしゃいませ。」

カウンターの奥から、灰色のスーツ姿の男性が顔を上げた。

「一人なんですけど。コーヒー、いただけますか。」

「申し訳ございません。」

「はい。」

「当センターでは、お飲み物はお出ししておりません。」

「……センター?」

男性は静かに壁を指さす。

そこには小さなプレートが掛かっていた。

忘れ物センター

「えっ。」

思わず声が漏れた。

「ご用件をお伺いします。」

「いえ、間違えました。」

踵を返そうとすると、

「せっかくですので。」

男性が穏やかに言った。

「何か、お探しのものはございませんか。」

「財布もスマホもあります。」

「そういうものではなくても結構です。」

「そういうものじゃなくても?」

「はい。」

少し考えて、


「じゃあ……こころ、とか。」


男性は一度だけ頷いた。

「かしこまりました。」

その返事があまりにも自然だったので、

私の笑顔が固まった。


男性はカウンターの下から、一枚の用紙を取り出した。

「遺失物届になります。」

受け取って笑ってしまった。


遺失物届

品名 ________

遺失日時 ______

遺失場所 ______

色 _________

特徴 ________


「本当に書くんですか。」

「はい。」

「こころ、ですよ。」

「はい。」

男性は少しも表情を変えない。

私は苦笑しながら、品名の欄にゆっくりと書いた。

こころ

「次に、お色をお願いします。」

「色……ですか。」

「はい。」

「考えたこともないです。」

「おおよそで結構です。」

「皆さん、答えられるんですか。」

「半分くらいでしょうか。」

「残りの半分は?」

「『昔は赤かった』と、おっしゃいます。」

思わず吹き出した。

「そんな人、本当にいるんですか。」

「はい。」

「先週は青い方もいらっしゃいました。」

「青?」

「少し冷えておられました。」

私は笑いをこらえきれなかった。


「参考程度ですが。」

「最近のお色はいかがでしょう。」


カチ。

カチ。


「……灰色。」

ぽつりと答える。

男性は静かに頷いた。

「承知いたしました。」

「承知されるんですね。」

「はい。」


何事もなかったように、次の項目へ目を移す。

「遺失場所をお願いします。」

「たぶん……会社です。」

「会議室でしょうか。」

「かもしれません。」

男性はさらさらと書き込んだ。

「ありがとうございます。」


「最後に確認です。」

「お探しになられる理由を、お聞かせいただけますか。」

私は少し黙った。

「理由、ですか。」

「はい。」

口を開きかけて、やめた。

「……後でいいですか。」

男性は小さく頷いた。

「もちろんです。」

そして用紙を丁寧にそろえると、立ち上がった。

「では、お探ししてまいります。」

「はい。」

「忘れ物は、忘れた場所から探すのが一番早いものです。」

そう言って、カウンターの奥へ姿を消した。



奥へ消えた男性は、思っていたより早く戻ってきた。

「確認を続けてもよろしいでしょうか。」

「……はい。」

男性は遺失物届を静かに見つめた。

「最後に、お心が軽かった場所を覚えておられますか。」

「軽かった場所……。そんな項目、書いてありませんでしたよ。」

「任意です。」

「….. 思い出せません。」

「そうですか。」

男性は何も書かなかった。


カチ。

カチ。

カチ。


その静けさに押されるように、私はもう一度考えた。


……海。


「海、でした。」

「風が強くて。」



髪がぐしゃぐしゃになって。

砂浜を歩いて。

何がおかしかったのか。

ずっと笑っていた。


「それ以来ですか。」

私は答えられなかった。


カチ。

カチ。


私はガラス越しに映る自分を見た。


「昨日、後輩に言われたんです。」

男性は静かに頷く。

「『課長、最近、むずかしい顔してますよ。』って。」


私は笑って返した。

『そうかな。』って。

でも。

その一言だけが、ずっと残っていた。


「カフェと間違えて入った場所で、『こころ』なんて言っちゃったんでしょうね。」

男性も、小さく笑った。

「そういうお客様は、少なくありません。」

男性は遺失物届を閉じる。


カチ。

「どうやら、お預かりしているようです。」


「お待たせいたしました。」

男性は小さな封筒を一つ、両手で持っていた。

どこか懐かしい色をした封筒だった。


「こちらが、お預かりしていたものになります。」


「開けても……。」

「もちろんです。」

男性は穏やかに微笑んだ。

「中をご覧になる前に、一つだけ。」

私は封筒を持つ手を止めた。


「忘れ物には二種類ございます。

失くしたものと、

置いてきたものです。」


私は黙っていた。

「お客様の『こころ』が、どちらであるかは存じません。」



「……怖いですね。」

「開けて、何も変わらなかったら。」


男性は少しだけ考えた。


「また、どこかで笑ってください。」


それだけだった。

私は封筒をバッグへしまう。

「開けないんですか。」

「家までの楽しみにします。」

男性は小さく頷いた。

「それがよろしいかと。」

私は立ち上がった。

「ありがとうございました。」

「こちらこそ。」

出口へ向かう。

ドアノブに手を掛ける。

「お客様。」

振り返る。

「はい。」

「もし、お返ししたものが少し重く感じられましても。」

「最初は、皆さまそうです。」

私は笑った。

「慣れますか。」

男性も、少しだけ笑う。

「いいえ。」

「抱え方が、上手になります。」


「もう来ることはないと思います。」

「皆さん、そうおっしゃいます。」


私は少し笑って店を出た。

カフェではなかった。

でも、

少し休めた。



少し休めた…..


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