短編小説『ファイト!!』
🐟
暗くて、静かな、冷たい砂利の隙間。 それが、ボクの知っている世界のすべてだった。
硬い殻の中に閉じこもっていたボクが、外の世界のまぶしさに耐えかねて、小さな頭を突き出したのは、桜の花びらが川面に雪のように降り積もる頃だった。
「ポンッ」
小さな、でもボクにとっては一生を左右するような大きな産声が、川底に響いた気がした。 自由になったボクを待っていたのは、透き通った水の流れと、お腹にくっついた、重くてオレンジ色の大きな「袋」だった。
「……なんだろう、これ」
泳ごうとしても、その袋が重くてうまく動けない。 でも、不思議と怖くはなかった。その袋からは、ボクを包み込むような懐かしい匂いがしたから。
きっと、母さんが作ってくれたんだろう。だから、それを「お弁当箱」と呼ぶことにした。
お弁当が少しずつ小さくなって、ボクの体が大きくなっていく。
そして空っぽになる頃、ボクは一人で泳げるアマゴになっていた。
🐟🐟
お弁当箱を使い切り、自分の力で餌を獲るようになった初夏のある日。
激しい雨が川を濁らせ、ボクは岸辺の小さなくぼみに取り残された。
雨が上がると、水はどんどん引いていく。
気づけばボクは、ぬるくなった泥混じりの水溜まりにいた。 エラを必死に動かしても息苦しい。
その時、頭上の光が遮られた。 巨大な影。
(……ああ、食べられるんだ)
ボクは目を閉じた。だけど、
「あったかい……」
それは、冷たい川の中で生きてきたボクが、生まれて初めて触れた「熱」だった。 ゴツゴツした、でも驚くほど柔らかい大きな手が、ボクの小さな体を優しく包み込む。
「ほら、帰りな」
言葉の意味はわからなかったけど、次の瞬間、ひんやりとした本流の流れの中にいた。
ボクは、振り返らなかった。
ただ、胸に刻まれたあの「手の温もり」だけを抱えて、さらに深い淵へと泳ぎ去った。
🐟🐟🐟
あれから、何日が過ぎただろう。 ボクはもう、「お弁当箱」のことも、「温かい手」のことも、意識の奥底にしまい込んでいた。
ただ生きるために。もっと大きな自分になるために。
いつしか、ボクの体からはアマゴの印である朱色のドットが消え、まぶしい銀色の鱗が全身を覆っていた。
「海へ行く」
それは、僕の中に刻まれた、逆らえない本能だった。
海は、想像を絶する戦場だった。
上空から突き刺さる海鳥のクチバシ。
海中を回遊する巨大な捕食者の牙。
何度も何度も死にかけ、そのたびにボクの銀色の鱗は剥がれ落ちた。
けれど、剥がれた鱗のあとに刻まれる傷跡が、ボクをさらに強く、逞しく変えていった。
ボクは、ただ黙って泳いだ。
🐟🐟🐟🐟
彼女は、川辺に立っていた。
岸のあちこちで、サツキが咲いている。
小さな花が、流れのきわを縁取るように続いていた。
水の音が、やけに大きく聞こえる。
足元の石を、つま先で一つ転がす。
それだけのことに、少し時間がかかる。
そのとき、激しい水音。
顔を上げた視線の先、白く砕ける流れの中で、何かが跳ねた。
銀色。
もう一度、跳ねる。
今度は、はっきり見えた。
大きな魚が流れに逆らっている。
何度も、何度も。
ぶつかる。
押し戻される。
それでも、また頭から突っ込んでいく。
思わず、足が止まる。
その体は、ひどかった。
鱗はところどころ剥がれ、赤い身がのぞいている。
水しぶきが上がるたび、光がはじける。
きれいだ、と思ったが、すぐに、違うとわかる。
これは、きれいなんかじゃない。
削れてるんだ。
それでも、やめない。
もう一度、跳ねる。
喉の奥が、熱くなる。
理由は、わからない。ただ、消えないでほしい、と思った。
気がつくと、声が出ていた。
「……ファイト」
流れに消える、小さな声。
魚は、また跳ねる。
今度は、少しだけ前に出た。
胸が、強く打つ。
息を吸う。
「ファイト!!」
声が、思ったよりも遠くまで飛ぶ。
その瞬間、魚が、最後に大きく跳ねた。
白い流れの向こうへ、消える。
あとには、水音だけが残る。
彼女は、その場に立ったまま、
しばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
足を一歩、前に出す。
さっきより、少しだけ、軽い。
🐟🐟🐟🐟🐟
秋。川辺が紅葉に染まる頃。
ボクは、最上流の静かな淵にいた。
体は重い。
動くたびに、痛みが遅れてやってくる。
それでも、隣には一匹の影がいる。
同じように、傷だらけの体で、静かに水に身を預けている。
流れは、やわらかい。
ボクは、ゆっくりと体を沈めた。
砂利の隙間に、身を寄せる。
尾を振る。
もう一度、振る。
体の奥に残っていたものが、
静かにほどけていく。
水の中に、置いていく。
それだけでよかった。
力が抜ける。
流れに身を預けた、そのとき
ふと、思い出す。
丸くて、やわらかくて、少し重たかったもの。
あの、懐かしい匂い。
手の中に包まれた、あの一瞬のぬくもり。
どちらも、もうない。
でも、
どちらも、ここにある気がした。
ボクの体が、ゆっくりとほどけていく。
水は、冷たい。
それでも、どこかやわらかい。
冷たい水の中。
砂利の隙間に、いくつもの小さな命が眠っている。
それぞれが、
まだ見ぬ光へ向かって、静かに脈を打っている。
おわり
ここまで、一緒に泳いでくださったみなさま、ありがとうございました。
あなたにも
「ファイト!!!」
また、どこかで。
いいなと思ったら応援しよう!
記事がいいな!と感じていただけたなら、チップで応援してもらえるとうれしいです。あなたからいただいた力が創作への勇気になります!