令和最新版 クロスワード
先日、カフェでコーヒーを飲みながらnoteを書いていた時のことである。店内には豆を挽く音と、カップがソーサーに触れる小さな音が混じっていた。
私はノートパソコンを開き、カフェラテの泡を見つめ「これは名文になる前の沈黙である」と自分に言い聞かせながら、文豪の気分に浸っていた。
そんな時、隣の席に座っていた70代くらいのお爺ちゃんが視界に入った。白髪をきちんと整え、新聞を広げ、片手には鉛筆を持っている。見ると、クロスワードパズルを解いていた。新聞の片隅にある、あの白黒のマス目である。
なんと知的な光景だろう。私は思わず「いいなぁ」と思った。カフェでコーヒーを飲みながらクロスワードを解く老人。脳トレ、余生、静かな午後。隣からNHKの教養番組みたいな空気が流れていた。
お爺ちゃんは眉間にしわを寄せ、しばらく考え込んでいる。鉛筆の先がマス目の上で止まった。私など、さっきから「今日の晩ごはん何にしよう」くらいしか働いていない。
それに比べて、お爺ちゃんの頭の中では語彙と記憶と人生経験が総力戦を繰り広げているのだろう。年を重ねても、こうして知を楽しむことができることに感動すらしていた。
ところが、その数分後である。お爺ちゃんはポケットからスマホを取り出した。最初は家族から連絡でも来たのだろうと思った。しかし、指の動きが真剣である。画面をじっと見つめ、何かを入力している。
しばらくすると、顔にうっすらと納得の色が浮かんでいた。そして、新聞へ視線を戻し、鉛筆でマスを埋めた。
「それ、答えを検索しとらんか?」
私はコーヒーを飲みかけたまま固まった。あの一連の動きは見覚えがありすぎた。スマホを見て、答えを得る。また分からなくなったら、スマホを見て埋める。これはもはや、クロスワードというより、検索ワードである。
紙の上ではクロスワード、手元ではGoogle先生との二人三脚。老人と新聞の静かな戦いだと思っていたら、背後にシリコンバレーが控えていた。
しかし、そこでお爺ちゃんを笑おうとしたとき、私の胸に小さな鉛筆が突きつけられた。思い返してみれば、私もゲームの攻略サイトを見ながらラスボスを倒したことがある。
いや、ラスボスどころやない。村を出る前から「序盤 最強装備」「取り返しのつかない要素」「おすすめ育成ルート」などと検索していた。冒険者というより、旅行代理店のパンフレットを読み込んだ添乗員である。
魔王を倒しに行く勇者のはずが、現地集合、現地解散、持ち物リスト完備である。
さらに記憶を掘れば、夏休みの宿題も友達のノートを借り、写し、提出した。ドリルに答えがつきっぱなしのときなど、歓喜の雄叫びをあげてたほどである。
しばらくして、お爺ちゃんは最後のマスを埋めた。鉛筆を置き、新聞を遠ざけ、満足そうに全体を眺めている。その表情には、ズルをした罪悪感など微塵もない。むしろ、今日もひと仕事終えた職人の顔である。
クロスワードとは答えを知らずに苦しむ遊びではなく、知らない言葉に出会って、最後に空白を埋める遊びである。隣のお爺ちゃんは、スマホ時代を生き抜くための訓練をしているのではないか。
そう考えると、その背中がまぶしく見えてきた。鉛筆を握る右手は昭和、スマホを操る左手は令和、頭の中では大正ロマンとAIが握手をしている。
私がカフェで「比喩が降りてこない」と言いながら画面を眺めている間に、お爺ちゃんは紙とデジタルを行き来するハイブリッド老人へ進化していた。
再び記事を書こうと画面に向かった。クロスワードについて何かうまいことを書きたい。そう思った私は検索窓へ手を伸ばしていた。
『クロスワード 語源』
打ち込んだ瞬間、私は隣のお爺ちゃんと同じマス目の中にいた。さっきまで審判席に座っていたつもりが、気づけば同じ競技者である。
しかもお爺ちゃんはクロスワードを埋めるために検索していたのに、私はお爺ちゃんをネタにするために検索する始末である。
マス目は「反省」という二文字が埋められた。
私は答えを見ながら人生のマス目を埋めてきた側である。コーヒーをひと口飲むと、さっきよりも苦かった。
