MUJI BOOKS|無印良品で、さくらももこに出会った
無印良品で文庫本が売られていることを知っている人は、いったいどれくらいいるのだろう。出会いとは偶然である。少なくとも錦糸町の無印に入った時点で、わたしは『さくらももこ』と出会う覚悟など一ミリもなかった。
そもそも無印良品とは、不揃いバウムを買う店である。少し大人ぶりたい日はレトルトカレーを眺め、生活を整えている人間のふりをしたい日は収納ケースの前で腕を組む。ホホバオイルやマドレーヌにも手を出すことはあっても、基本的には「暮らしを整える店」という顔をした、財布のひもをゆるめる罠の森である。
その日、多肉植物に合う鉢を探していた。気分は園芸部の顧問である。手のひらサイズの鉢を見ながら「この子たちには、やっぱりシンプルに攻めるか、いやガラスで締めるか」など、人格まで勝手に想像していた。多肉植物を“この子”と呼び出した時点で、だいぶ危ない客である。
そんなわたしの視界に、盲亀浮木な棚が入ってきた。最初はインテリアだと思い素通りしかけた。無印のことだから、暮らしに本を置く風景そのものを売っているのかもしれん。本は読ませるものではなく、部屋に知性の影を落とすための小道具である。そう思って近づいたら、本当に本だった。

MUJI BOOKS『人と物』シリーズ。
棚には宮沢賢治、赤塚不二夫、忌野清志郎といった名前が並んでいた。まるで文化祭の実行委員が「好きな人だけ呼びました」と言って、採算を無視して組んだステージのようである。そこに、さくらももこがいた。
これはもう、見つけたというより、目が合ったに近い。吸い寄せられるように手に取った。
うちには『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』をはじめ、さくらももこのエッセイはだいたい揃っている。そうなるとただの読者ではない。喫茶店のカウンターでマスターと喋るタイプの常連である。

ページをめくると、エッセイがあり、絵日記があり、愛用品の写真があり、仕事道具の写真があり、さらにはコジコジまで入っていた。これは本というより、さくらももこ定食である。もっと庶民的に言うなら、のり弁当である。唐揚げを目当てに来た人には物足りないが、白身フライも、磯辺揚げも、おかかも、気づけば全部つまんでしまう。そういう逃げ場のない満足感があった。
しかも五百五十円である。
先日、ほっともっとで買った『アジフライのりタル弁当』とお値段が変わらない。

最近の文庫本売り場は、八百円や九百円が当たり前の顔をして並んでいる。昔は小銭を数えながら買えた文庫本が、今ではちょっとしたランチのような顔をしている。『もものかんづめ』も、かつては三百九十円ともっと気軽に買えたはずなのに、今では八百八十円と財布を試すような値段になっていた。
そんな時代に五百五十円である。無印のレジ前で、思わず富士山方面に手を合わし拍手を送った。

近くのカフェに入り読んでみると、長年の読者からすれば読んだことのある話もあるし、見たことのある写真もある。完全新作を求めている人なら肩すかしを食らうだろう。しかし、不思議と損をした気分にはならなかった。この本は「さくらももこってどんな人?」と聞かれた時に、黙って差し出すための名刺のような一冊だ。
帰宅してから調べてみると、MUJI BOOKSは限られた店舗でしか扱っていないらしい。二十三区内ですら、置いている店は限られていた。それを知ったことで、錦糸町での出会いが急に運命めいてきた。さっきまで棚に並んでいた本が、今では森の奥で偶然見つけた希少生物のように思えてくる。わたしはただ鉢を探していたのに、気づけば文化的な天然記念物を捕獲していた。

無印良品は「素」を大事にしている店だという。ならばこの本は、さくらももこの“素”を詰めた標本箱である。気取った全集でもなく、重々しい評伝でもない。日記、道具、漫画、言葉、へんなこだわり。そういうものが、のり弁当のようにぎゅっと詰まっていた。
わたしはバウムを買いに行ったわけではないし、カレーを探しに行ったわけでもない。もちろん本屋に入ったつもりもなかった。ただ多肉植物に合う鉢を探して、無印の店内をうろうろしていただけである。
それなのに気がつけば『さくらももこ』の、のり弁当を抱えてレジに並んでいた。きっと、さくらももこは棚の中で「あんた、馬鹿だねぇ〜、鉢を買いに来たんじゃなかったの?」と笑っているだろう。
無印良品で一番驚いたのは、バウムでもカレーでもなく、本屋でもない場所で本に待ち伏せされていたことである。

