【掌編】転職組のマーメイド
紅葉色が電車の窓から見えた。
この景色を、来年、再来年は、どんな表情で眺めているのだろうか。
皺を丁寧に伸ばしたYシャツとクリーニングしたての背広が少し窮屈だった。
上、スーツ。下、尾びれ。
抜け感のありすぎる組み合わせに、車両のあちこちから嫌な視線を感じた。
転職。
思っていたよりあっけなかった。
新卒からシステムエンジニアとして勤めてきた。
でも、積み上げてきた七年間は、後輩にたったの数日で引き継がれた。
三十歳を目前にした転職活動だったが、意外とすんなりいった。最終的に二社から内定をもらい、やや条件のよかった子供向け文具メーカーに決めた。
電車から降り、尾びれをピチピチさせるように全身を連動させて線路沿いを歩くと、少し左に入ったところに新しい職場の建物があった。明日また忘れてしまいそうなほどのグレー色だったので、忘れぬうちにGoogleマップに登録した。
オフィスに入ると、すでに大半の社員が席についていてノートパソコンに向かっている。
部長が僕に声かけた。
「今日からよろしくな。おい、みんな、今日から入社の子を紹介するから」
カバンすら下ろすタイミングを忘れて、フロア中で作業する社員達に挨拶をする。
「今日からお世話になります。人魚です。ヒト・サカナと書いて人魚です。一日でも早く貢献できるように精進します。よろしくお願いします」
小雨のようにまばらな拍手が僕を包んだ。緊張から尾びれが震えた。
その後、部長に案内され、まっさらなのに年季の入ったデスクに座った。
「初日はヤマモトに同行して、雰囲気つかんで」
「わかりました。ヤマモトさん、よろしくお願いします」
「おぉ、人魚君でええかな? 山本です。よろしゅうたのんます」
山本さんは、いかにも気の良い兄ちゃんと感じがした。
「人魚君、早速、外出るか」
山本さんはホワイトボードにある『山本』と書かれたものと『新人』と書かれた仮の僕のマグネットを『外出』という欄に置いた。
会社名が左右にポップにプリントされた社用車へ向かった。
「しばらく運転とかはええから。助手席でゆっくりしとき」
「ありがとうございます」
山本さんはゆっくりと車を動かした。
「社内おっても、気つかうやろ」
「あ、いや、まぁ」
「全然ええねんで。俺なんかに気つかわんで」
「ありがとうございます」
「俺もな、去年、関西営業所からこっち飛ばされて来てん。まあまあ新参やねん」
「そうなんすね……」
会話は、優しさで少しぎこちない。
「人魚君は、なんでうち来たん?」
「前職はシステムエンジニアやってたんすけど、システムのエラー画面眺めてたら、なんか何もかもどうでもよくなってきちゃって」
「ふーん。そうなんや」
「なんか、多分、向いてなかったんでしょうね」
「なるほどなぁ。で、うちなん? 子供向け文具やで? しかも営業やし」
「はい。ものづくりが好きなんで」
「人魚って種族、何かを作り出すことあんねんな……」
「まぁ主に貝とか使う感じっすね」
「知らんかったなぁ。でも、それやったら悪いけど、うちちゃうかった気がすんねんなぁ」
「え、本当ですか……?」
「なんとなくやけどな。水分多いとこの方が良さそうやなぁって」
「水分……ですか?」
「うん。例えば水族館とか。あそことか水分のとこやんか」
「まぁ……水分っちゃ水分ですかね……」
「せやろ。なんか自分、ペンギンにエサあげるんとか似合いそうやん」
「似合いますかね……」
「ほいで水槽に親戚とかとおったら、もう勝ちやんか」
「いやぁ、でも、なんかコネ入社みたいに思われせん?」
「いや、誰も思わんよ。あきらかに実力採用やん」
「そうですかね。いや……でも、なんか土日休みが良かったんで」
「なるほどなぁ。なんかイマドキやなぁ」
少し会話に間が生まれた。
山本さんはウインカーを出しながら、次の話題を探しているようだった。
カチカチ音に合わせて、口を小さく動かしている。
信号待ちの間に山本さんは胸ポケットからタバコを取り出した。
「ごめん。吸ってもええか?」
「あ、全然大丈夫っす」
「ほんまは社用車、禁煙なんやけどな。窓開けてこっそり吸うねん」
「バレないんですか、それ」
「もちろんバレるよ。でも、みんなも吸うから黙認やねん。あ、ちなみに人魚君ってタバコ吸うん?」
「たまに吸いますね」
「あかんよ禁煙せな。なんか夢壊れるわ」
定期的にくる沈黙の時間。ラジオが流れていたことに今更気づく。aikoが流れている。
「人魚君って乾燥したらどないなるん?」
「喉から先にやられるっすね」
「下の魚ちゃうんかい」
山本さんは肩を揺らして笑った。
その笑いにつられて、僕も鱗を揺らした。
「今、どこか取引先向かってると思うやろ?」
「あ、はい」
「ちゃうねん。行くとこないねん」
「え?」
「毎日、外回りしろって言われんねんけど、客も毎日来られたら困るやろ? だから今、ただの暇つぶしやねん」
「え、じゃあ、このままどこにも行かないんですか?」
山本さんは少し黙った後、ボタンを連打しカーナビの縮尺を広げた。
「よし。海、行こか?」
「え?」
「なんかな、人魚君と海見たくなっとんねん」
突拍子もない提案に尾びれがピクッとしたが、車はそのまま、海へ向かった。
「海……。それは……僕が人魚だからですか?」
「だと思うやろ? 全然そんなんちゃうねん。
どっちか言うと『外』やなくて『内』やねん。なんか、自分、鬱々としてるやんか。海にはな、そういうの丸めこめる力あんねん。俺もよう一人で来んねん」
初めて走る道から、フロントガラス越しに潮の匂いが少しずつ近づいていく。
「着いたで」
車を降りると、一面がただ青々と広がっていた。
「綺麗やなぁ」
「すみません……。いまいちその良さがわからなくて……」
「なんで俺の方が人魚より海の良さ理解できてんねん。海は何も考えんで、ただ眺めとけばええねん」
波がゆっくり迫ってきては足元の手前で消える。
大きく響く波の音に、胸の中のざわつきが波の音にかき消される。
「でも……山本さんと来れてよかったです」
「えー、ほんまか? 自分で言うのもアレやけど、俺、ハズレの先輩やねんで。異動してから、ずっと浮いてんねん」
山本さんの自虐的な笑い声が潮騒に混じり遠くまで響いた。
ボヤけた遠くの景色に向かって、温度を感じない水の集合体と共に流れていきたい。そんなことを考えていたら鱗の奥が熱くなった。その瞬間、自分が人魚であることを改めて感じさせられた。
「故郷より、少しだけ綺麗です」
「え、なんて?」
知らない海は、秋の空気と僕といろんなものと、曖昧に混ざり合いながら、どこまでも続いていた。
以下の企画に参加させていただきました。
