檻の中で。【ショートショート】
こんなはずじゃなかった。
掌は生温かく真っ赤に染まっている。心臓がドクドクと大きく脈打つのに対して、心は凪のように至って静かだった。
皆がその場に固まったまま、こちらを漠然と見つめている。その瞳には動揺の色が見て取れた。たぶん、何が起こっているのか、この状況をどうしたらいいのか分からないのだろう。そんな奴らを尻目に、私は目の前でうつ伏せに倒れている女に目を落とした。
幾度となく刃物で刺さされた腹部を押さえる彼女の手も私と同じように赤く染まり、私の足元へとその赤が広がっている。
あぁ、そうか。怪物だから、本当はこれで良かったのかもしれない。
*
「全部冗談だって。好きな人ほどイジりたくなるしさ、嫌いだったら喋ったりしないでしょ。だから、私のやつは愛のあるイジり。マユミなら冗談が分かると思って言ってるんだよ」
サヤカのその言葉に私はもう、返す言葉を考えるのすら億劫になっていた。好き勝手に言いたいだけ言わせておけばいい。この女には何を言っても伝わらないのだから。心の中でそっとボヤく。
「あぁ、そう」
嫌な奴は一生この先も嫌な奴のままで生きて、嫌な奴のまま死ねばいい。私はそんな奴と同じにはならない。
だから私は優しくしようと努めたし、できる仕事は進んでやった。
そんな私に都合よく店の雑用を押し付けて、手伝いもせずに喋ってばかりのサヤカは、逆の立場になると途端にキレる。
「喋ってるなら手伝ってよ。みんなでやる仕事を誰か一人に押し付けるのが、私、一番嫌い」
特大ブーメランが空を切る。自分のことは棚に上げて大口で語る彼女が大っ嫌いだった。
店のテレビに映っているニュースでは、大勢の報道陣から遠巻きに囲まれた男が警官に挟まれる形で頭を低くし、シルバーのバンへと乗り込む姿が流れていた。男はドス黒く沈んだ、それでいて鋭い視線でフラッシュを睨む。
「ヤバいよね、人殺すとかありえない。ああいうのは頭のオカシイ奴だから生きてる価値ないし、刑務所なんて税金の無駄使い、ほんと早く死ねばいいのに。ねぇ?そう思うよね?」
サヤカは声高に笑いながら言った。それに取り巻きも同調して笑う。二人を前に私は少しも笑えなかった。その男の視線が他人事のようには思えなかった。
サヤカは日頃から不快な奴に対して裏で『早く死ねばいいのに』と言う。その言葉は人を殺すのと何が違うのだろうか。私にはどちらも同じように思えた。同じなのに、なぜサヤカは殺した人をそう言って笑えるのだろうか。彼女は口だけで実際には殺してはいないから?あれは画面の向こう側の話であって、それが身内や自分のことじゃないから?
いや、違う、そうじゃない。きっと本当に殺したい、自分が誰かを殺してもおかしくない、もしかしたら次は自分が…そう思ったことがないからだ。
じゃあ、笑えない私は…
だから私はそれをひた隠しにして、優しくあろうと、普通でいようと今も生きているのだ。
詰られても、イジられても、バカにされても、今の私は相手を心の中で殺すことしかできない。机の下で握った拳の爪が、皮膚にじんわりと食い込んでいくのを感じた。
*
お昼時を過ぎてもこの店はそれなりに忙しい。先程、サヤカがお客を通したテーブルには、前のお客がこぼしたであろう汚れが僅かに残っていた。
「ねぇ、もしかして、あのテーブル拭いてなかったんじゃない?なんか汚れ残ってるし…」
私がそう言うと、サヤカがあからさまにムカついている態度でこちらを睨んで言った。
「マユミさっき、前のお客さんが帰った後にちゃんとテーブル拭かなかったの?」
確かに席を立ったお客を店の扉の前まで見送ったのは私だ。しかし、その時にはテーブルの片付けをアヤがやっていた。
「見送ったけど、それから戻ってきた時にはアヤが片付けてたから拭いたと思ってた」
「アヤはいつも片付けるだけで拭かないんだから、その後ちゃんと自分で確認した?」
「してない」
まず、アヤはいつも片付けるだけで拭かないなんて私は知らない。それにお客を通す前には、席をもう一度確認することになっている。「ちゃんと確認した?」と言うサヤカこそ、片付けたのがアヤだと分かっていた上に、そこで拭いてあるかどうかも確認せずに通しているのだから、責任転嫁もいいところだ。
それでいて、サヤカは苛立つように語気を強めて言った。
「ちゃんと責任もって最後は自分で確認してよね」
サヤカのその言葉に、私は静かに大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。
「そういうサヤカも通す前に確認してなかったんだね。まぁ、お互い気をつけよ」
毒を浴びると優しくしたい気持ちとは裏腹に自分までも毒々しくなっていく。こんなはずじゃなかったのに。
また一つ、檻の中で怪物が育つ。
小さな毒を餌にして。
【了】
本文1922字
駆け込みでの参加ですみません。
今日、海人さんの記事でこの企画を知りました。
ハッシュタグが私の書きたかった題材と重なった気がしたので応募させていただきました。
よろしくお願いします(-人-)
他の参加者さんの作品はこれからゆっくり読ませていただきますm(_ _)m
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