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命の終わりを受け入れるまで。

今回の記事は訃報となりますので、
先に注意書きをしておきます。

心の準備ができた方は先へお進みください。





先日、母方の祖父が亡くなった。91歳だった。
一昨日がお通夜で、昨日がお葬式と初七日法要だった。

今年の4月末には父方の祖母も亡くなっていて、今回祖父が亡くなる数日前には伯母の旦那も亡くなっていた。それもあってか『あぁ、今年はそういう年なんだな』と、なんとなく悟った。

前回、祖母が亡くなった時は、本当に突然の急死だったので、ショックが大きすぎて受け入れられず枯れるほど泣いた。棺の中で眠っているように穏やかに微笑んだ祖母の顔を見るたびに、その思い出やもっと長生きして一緒に楽しもうとしていた未来を思い浮かべては涙が溢れた。
あの頃の私は祖母が亡くなったことをなかなか受容できずにいた。

でも、今回祖父が亡くなった時は違った。
祖父が亡くなったと知った時、涙は出なかった。
祖父のことが嫌いだったわけではない。小さい頃から沢山遊んでよくしてもらって、思い出もあるし、大好きだ。でも、涙は出なかった。

それはきっと、祖父の死を既に少しずつ受容していたからだと思う。

祖母の死は、『また来てね』と元気そうに笑顔を見せて言っていた翌日の出来事だった。
私の中で「なんで」「どうして」そんなことばかりが頭の中をぐるぐると占領していた。
だから亡くなったことを受け入れるまで時間がかかった。

祖父は数年前からずっと寝たきりで意思疎通もできず施設でお世話になっていた。
寝たきりになる前、自宅で叔父と暮らしていた時には既に病気で目が見えなくなっていて、そこから数年後には施設で車椅子生活となり、食事もままならず胃瘻いろうも造設した。

胃瘻を造ることになった時、もしもの時は『延命治療を希望するか』の有無も問われていた。
「祖父はもう長くはないかもしれない」
そうやって、この頃から少しずつ『祖父が亡くなることへの受容』が始まっていたように思う。

亡くなる以前は、私が県外に住んでいたりコロナの流行があったりで、施設の祖父には会える機会は少なかった。会うたびに弱っていく祖父を見るのは少し辛いところもあった。
今思えば、私から見えるその『少し辛い』ことの積み重ねが『受容していく』ということだったのだと思う。

亡くなる前、危篤状態にあると連絡が来た日、家族で病院へ向かった。
施設から救急外来へ運ばれていた祖父は、これから亡くなるんだと一目見て分かる状態だった。
モニター上で必死に心臓は動いていたけれど、血圧は低く、顎は外れたように大きく口を開けて呼吸をし、目はつぶっていたが内側の眼球は痙攣していた。

そんな祖父をみんなで見つめていると、祖父が大きな欠伸あくびをした。
家族は「まだ欠伸できるくらいやけん、持ち直すかもしれないな」と、少しだけ場が和んだ。
実は、こういう時の欠伸は危ない呼吸状態を指しているのだけれど、私もその知識がなければ家族と一緒に勘違いしていたのだと思う。
でも、勘違いで良いと思った。
これが祖父に会える最後の機会であることはみんな分かっていた。
だから、あまり重く暗くならないように、少しでも気が軽くなるように、最後に笑顔でお別れできるように、祖父が勘違いさせてくれたのだと、そう思った。

危篤になった原因は感染による発熱と、それに伴う高血糖によるものだった。
目が見えなくなったことから察するに元々、糖尿病があったのだろう。
近くにいた看護師さんに血糖値を訊いたら800越ていると教えてくれた。少しでも知識のある人には分かる恐ろしさだと思う。

祖父の娘にあたる私の母は持病のせいで体調を崩しやすいため、付き添いは叔父に任せて一旦帰宅した。
それから数時間後の深夜に再度連絡が来て病院へ向かい、母が到着して数十分後に祖父は亡くなった。

病室に入れるのは二人までだったので、私は母の送迎として待機していた車の中で、その連絡を受けた。
冒頭にも書いたように、涙は出なくて、悲しいというよりも少し安心に近い気持ちだった。
今まで頑張ったね、もうゆっくりできるね、そう思った。

お葬式に来た親戚や知り合いの人達も、泣いたりするような人はいなくて、これまでを労ったり、思い出話をしたり、そんな感じで穏やかに祖父を見送った。

祖父は私たちとお別れするまでに受容できる期間を与えてくれていたのだと思う。

どちらかというと寡黙で、そっと見守るような祖父だった。
俺の事は気にせず好きなようにやれ。そんな感じの優しさ。
だから、見送ってからはあまり囚われずに自然といつもの日常に戻れた。
きっとそれは、祖父の死を受容できていたこともあってのことだったのだと思う。

身近にいた大切な人達の『死』を受け入れることは、そう簡単なことじゃない。
受け入れるためには時間がいる。
自分の中でそれに向き合って、思い出に触れて、感情を咀嚼そしゃくして、時間をかけて心残りなく「もう充分だよね」て思えた時、真に受け入れられるのだと思う。

その時間を生前から持てていたかどうか、それが故人となった時にそれを受け入れられるかどうか、に繋がるような気がする。


じいちゃん、どうか安らかに。




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