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老害ジジイ対決


突然ですが

私はもうすぐ47歳になります。この年齢は世間的に中年と呼ばれています。しかし、かつては42歳をすぎると初老と呼ばれていました。

中年、初老、好きな方を選ぶとしたら初老です。理由は体力の衰えと、モチベーションの加速度的な減退が、初老という文脈にしっくり来るからです。45歳を過ぎたあたりから、こうした現象の数々に巡り合い「老い」というコンテクストを実感しています。

老いることにネガティブな印象はありません。むしろ世界に起きている諸々がどうでも良くなっていく過程は、平和的ですらある。ある意味では、そういう世界観を楽しめるのが初老ではないかと思うのです。

私は40歳の時にサーフィンを始めました。この時、私は小学3年生あたりの、魂が最も煌びやかに活動していた時(と私は認識している)のことを鮮烈に思い出しました。

波を滑るボードの上で、過去にタイムスリップ。そんな感じでした。これを機に、調子に乗った私は40歳以降「毎年一つ新しいことをする」と決めて生きています。

老いの一徹

老いの一徹という言葉があります。この言葉の意味は、年をとった人が自分の考えや決め事を頑固に押し通す様、他人の意見を聞き入れようとしない気質や様子、それらをユーモラスに表現する時に使う慣用句です。頑固一徹の老人バージョンですね。

つい先日、そんな「老いの一徹vs老いの一徹」的な経験をしたので、今回はその話を紹介してみます。

普段はあまり使わないFacebookに久しぶりに投稿をしました。内容は「とある岩場でチッピングを発見した。チッピングは悪しき伝統として一般的解釈が存在する。しかし、チッピングがあった時期、それによって作られた歴史をただ否定するのは面白みに欠ける」というものです。

その投稿が普段の数百倍の閲覧数となり、私にとってはバズったわけですが、その投稿に寄せられたコメントの一つに、私はイラつきを覚えたのです。

チッピングがクライミングの一手段として世の中で通用していた時期は戦後以降です。しかし私は70年代から80年代という表記をしました。理由は60年代のスタイルに信頼を寄せたクライマーがこの時代にそのスタイルを模倣していたことを知っていたからです。

つまり、60年代にチッピングが行われたのか、70年代以降にかけて、60年代のスタイルを模倣した人がチッピングをしたのか、分からないわけです。チッピングをした本人に会ったことがないので。

最初は誰もが手探りです。特に文化の始まりは倫理観よりも「どうやってやるんだろう?」という疑問の解決に大きなウェイトを占める。

そんな時代を経て、今度は実験的な時代がやってきます。70年代という年代はそんなイメージ。「そこにインスピレーションを受けた」という内容の投稿をしたわけです。

コメント主は「年代」に焦点を当てました。「年代が間違っている」という指摘です。しかし先にも書いた通り、専門的な見地から歴史の話をしている訳ではなく、一種の諧謔なのですが、相手は譲りません。

それからコメント主は「もっとシンプルに考えた方が良い」「横文字を使わない方が良い」などと、求めてもいないアドバイスを展開してきたので、直感的に「ヤバいやつが来たな」と思ったわけです。調べてみると高齢者。

そこで、私は警告しました。「言葉に気をつけろ」と。あなたがやっていることは他人の家(メンバーシップによるプライベートコミュニテイ)に上がり込んで「壁紙の色を変えた方が良い」「クローゼットを大きくした方が良い」と言っているのと変わらない。それだけ、求められていないアドバイスは一方的で暴力的だと訴えたわけです。

すると、コメント主は言いました。10年も年代がズレていること、横文字が多いこと、もっとシンプルに考えること、これらを(コメント主の正論に合わせて)私が佐久平ロッククライミングセンターの代表者として正さないことは良くない、という文脈で訴えてきたわけです。

その時、私は気付きました。このコメント主は私という「個人」と話をしているのではなく私の肩書きという「空想」と話をしているのだと。しかし、私はコメント主という「個人」と話をしている。ここが議論のズレていくポイントでした。

自由と社会の老害対決

ここでもう一つ思ったのは、これは個性と自由に大きな価値を感じている私と、社会性と倫理とルールに価値を感じるコメント主の、老害対決なのだと。

「俺は自由だぜヘイヘイ」なんて態度で生きている私は、ヒッピー的世界観は正義だと思っている節がある。しかしコメント主はその逆に、社会性と倫理とルールが大切だ、それこそが正義だという鼻息の荒さがある。

我々両者に共通するのは、それぞれ違う世界観における老害性を纏っていること。

ちなみに、老害とは「過去の権力や経験に固執し、変化を拒んで周囲に悪影響や迷惑を及ぼす現象や、そのような人を指す言葉」ということで、耳が痛くなる思いです。

「自由vs社会」の構造は歴史上、最も強いトレードオフの関係にあります。このコメント主は当然ブロックさせてもらったのですが、それと同時に私自身も老害化しつつあることを感じて「やばいな、、、」という実感も得ました。

私はこのコメント主のような思想を持った人が大嫌いです。ですから、私の人生や、私の作ったコンテンツには絶対に参加してほしくない。最も遠い距離にいてほしい。

しかし、このような私の強い反応は、老化という現象と混ざり合うことで「老害」という化学反応を促していることも確かなのです。

Facebookグループ

以前、これも同じようにFacebookですが、グループを作りました。佐久ジムメンバー達がパートナーを見つけやすくするために「クライミングパートナーグループ」というグループを作ったのです。当初の目論見を大きく外れて、現在は1000人を超えるメンバーの中規模グループになっています。

グループを作ってしばらくした時に参加してきた方が、自身の山行記録をやたら挙げるので「発表の場ではなく募集の場だ」と私が言うと「人の山行記録にケチをつけるとは、けしからん」と鼻息が荒い。調べてみると、こちらも同じく高齢者。

私は「次に同じような投稿をしたらメンバーを除外する」と警告。すぐに同じような投稿をして「俺の投稿を消すぐらいならこんなグループを作るな」という論旨だったので即座にブロックしたのです。その一連の動きに「当たって砕けろ」的な魂のようなものを感じました。無駄といえば無駄ですが、私としては面白かったのです。

しかし、今回のコメント主は、そう言った面白みもなく、ただただイラつくというか、依存的なメンヘラ気質も感じれて、それも相まってやたらイライラしてしまったのです。

おじさん及びおじいさんがメンヘラ化すると相当面倒臭い。しかし、私自身、ここまで感情が動いたからこそ、自分自身がこれから老害化していく可能性を十分持っていることのエビデンスでもあると感じました。

今回の件をきっかけに、今後は自分に内在する老害ジジイの可能性をはっきりと認識して、今のうちに襟を正していかねばと思ったのです。

老いることは素晴らしい経験です。しかし「老」と「害」がくっついてはいけない。それは他者だけではなく、自分自身にとっても害になり得る。その現象はやがて、自らの人生も暗澹としたものにしてしまうと、私は確信しています。

絶え間ない学びと広い視点が老害を防ぐ良薬かもしれない。

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