自分を偽るお金の使い方、自分を生きるお金の使い方
自分を「盛る」ことが、
生存戦略のようになっている。
加工された顔、脚色された経歴、
誰かの理想をトレースしたような言葉。
私はそれを見るたびに、
言葉にならない
虚しさ悲しさが湧き上がってくる。
個性とは程遠い状態。
等身大とはかけ離れた自分。
それは自己表現などではなく、
無意識の「自己否定」に他ならないからだ。
「ありのままの自分では、価値がない」
無意識に自分へレッテルを貼って
外側の価値観をペタペタと塗り固めていく。
社会の雑音にかき消された
本当の自分の声を聞かずに
誰かの何かの正解を着込んでいる。
その代償として支払っているのは、
お金だけではないように感じる。
自分という存在の輪郭を削り、
透明度を上げ、いつしか自分ですら
自分が見えなくなっていく。その末路は…。
どれほどお金があったとしても、
そこに残るのは、
ぽっかりと空いた孤独なのでは???
では、本当の豊かさとは何か。
去年京都の鞍馬山に行った時のことだ。
山頂の本殿から
歩いて下界に降りていくためには
整っているとはいえ、
山の中を歩くことになる。
人工的な音がしないその山道の中で
てくてく歩きながら
キョロキョロして私は歩いていたのだが
ふっとこんなことを思った。
ここ(自然)には、
背の高い木もあれば、低い木もある。
草も、苔も、キノコも、ツルもある。
どれも同じ形を目指してはいないし、
競い合ってもいない。
それぞれが、自分の役割を生きている。
太陽にあたって光合成をするという目的で
うまく干渉し合わないように生存しているし
日光があまり必要のないシダ植物は
ちゃんと日陰にいるし
太陽が必要な植物はちゃんと
背を高くして太陽を浴びている。
依存するものもあれば、寄生するものもある。
一人で育つものもある。
その全部があって、森は森として成立している。
そして美しい。
なのに人間社会はどうか?
バランスが崩れてはいないか?
一本の正解の木になろうとしすぎているのでは?
いろんな思いが駆け巡る。
もちろんメディアや影響力のある人の声が届いて
そういう世の中を作っているし
一定数はそれが正解だし、間違ってもいない。
望んでその世界を作っているし
それを否定することもできないが
私自身がその社会にいて違和感しか感じていない。
それは、社会を育てないし、
自分自身も育てないのでは?と
ずっと不思議で仕方がなかったからだ。
その社会が受け入れられなくて、
人と同じが嫌だと、
あまりにも逸脱した若年期を送ってきたことが
黒歴史になってることは言うまでもないが…
私はいつもこう思っていた。
自分を生きたい。
自分だけの世界を作りたい。
人と同じは嫌だ。
自分が自分として生まれてきたことで
社会に還元して
豊かになりたい。
漠然とそう願うものの
どこからどう手をつけていいかわからないし
知恵も経験もない、社会を逸脱した私に
環境は容赦なかったように思う。
理想や違和感を抱いているだけでは、
人は生きていけない。
突きつけられた現実だった。
自分を生きたいと思っても、
家賃は待ってくれないし、
生活は続いていく。
お金もない、人脈もない
コミュニケーション能力もない
自分の感情もうまくコントロールできない
なのに、勉強だけできたおかげで
プライドだけはしっかりある。
自分の持っている考えや思いが
甘くて社会ではどうにも通用しないことを
痛感した20代前半
私は途方に暮れた。
じゃ、どうしたらいいんだろう?
窮地ほど知恵が湧くとはよく言ったもので
もう後がない私になぜかわからないけれど
ぽんぽんと直感だけが湧いてくる。
そんな時、ご縁というべきか
どうしても行かなければならないと感じた
東京でのセミナーを知った。
内容は、今で言う心理学や、
自分の内面を整えるための学びだったが
これは絶対に学ばなければならないと思った。
でもちゃんと私が私の邪魔をしてくる。
どっからお金出すの?
時間は?仕事は?どうするの?
その前に夫が反対するでしょ?
どうせ無駄。無理。
諦めたほうが楽だよ。
でもどうしても行かなきゃならない気がする。
自分の中の葛藤が治らない。
当時の私は、漠然ではあるが
自分の内面が整っていないことが、
そのまま現実に影響していると感じていた。
仕事も、人間関係も、生き方もあり方も、
どこもかしこも噛み合っていなかったが
どうしていいか全く見当もついてなかった。
そんな時にふっと蜘蛛の糸のように
目の前に降りてきたのが
この講座だった。
受講料は15万円ほど。
今でも決して安くないこの金額は
当時の私からすると大金に他ならない。
受講費以外にも
九州から東京までの旅費と宿泊費もかかる。
その金額をどう捻出するか、正直わからなかった。
夫に「行きたい」と言うことも躊躇した。
それでも、
これを受けなければいけない、という感覚だけは
はっきりしていた。
どうやって説得しようか?
結果から言うと夫は反対しなかった。
必要だと思ったんなら
思ったようにしたらいい。
ほんとに針の穴を通すような感覚で
一つの細い糸を手繰り寄せるように
どんなふうに夫にプレゼンしたかは覚えてないのだけど
必死でどんだけ自分に必要かを訴えたことは確かだ。
それでも、あのとき私は
はじめて腑に落ちた。
現実を変えたいなら、
先に整えるべきは外側ではなく
内側だということ。
まずは自分自身を説得すること、
味方につけること。
自分を信じること、自分の決断に自信を持つこと。
内側がざわついていては
人生を豊かに生きることには程遠い。
あのお金は、
何かを買うための支出ではなく
未来の自分へ向かうための
テストだったのかもしれない。
その後、人生とは面白いもので
私は正反対の経験もしている。
少しお金に余裕が出たとき、
それを増やしたいと思い、FXに手を出した。
十分な勉強もせず、
都合のいい情報だけを集めて。
勝ち相場
主婦が一夜にして大富豪に
誰でも簡単に投資が成功する
確かにそう言う人もいただろうが
結局テストの点をちゃんと取れる人が
「全然勉強してないよ」って言うアレに似ていて
結果を出している人は
自覚があるかどうかは別として
ちゃんと努力もしているし勉強もしている。
なのに、そこをすっ飛ばして
都合のいいところだけを切り取って
脳が考えることを拒絶し
ユートピアだけをイメージさせる。
結果は、あっという間だった。
お金は減り、借金だけが残った。
今私が振り返っても
「そりゃそうなるよね」という話だと思う。
でも私にとっては、
とても大きな学びだった。
もちろん落ち込んだりもしたが
それ以上に得た収穫は大きかった。
文字通り「勉強代」となった借金たちは
数年かけてしっかり完済させていただいた。
そう、つまり
内面が整っていないまま扱ったお金は、
味方にはならない。
むしろ、その歪みを増幅させる。
お金は、
その人の在り方をそのまま映す。
逃げも、虚勢も、全部拡大される。
この出来事をきっかけに、
私はすぐに価値観を変化させられたわけではない。
むしろ、何度も自分の判断を疑ったし、
また同じ失敗をしそうになることもあった。
けれど一つだけ、
身体感覚として残ったものがある。
内面が整っていないまま扱ったお金は、
良くも悪くも、その人の在り方をそのまま拡大する。
いま、私がお金というものを
あらためて見たときに感じるのは、
「循環していないお金は、必ず手からすり抜けていく」
ということだ。
何かしらの喜びや、
誰かの前向きな変化につながっていないお金は、
広がりも増えもしない。
欠乏感や虚勢から使ったお金は、
循環するどころか、自分を蝕んでいく。
見栄のため。
どう思われるかのため。
自分を大きく見せるため。
それらは一時的に満たされても、
必ず自分を蝕んでいく。
お金は、その人の「在り方」を
そのまま映し出す鏡だ。
内面が整わないまま扱うお金は、
逃げも、虚栄も、傲慢さも、すべてを等倍で拡大していく。
私にとってのお金の使い道。
それは、誰かになるための装飾を
買い揃えることではない。
これまでペタペタと貼り付けてきた
虚飾を剥ぎ取り、
等身大の自分に還るためのもの。
体験を通し、知恵を蓄え、
世界の見え方を書き換えていく。
そうして磨かれた「内側」が、
また次のお金を呼び込み、循環を生む。
自分を偽るために使う一円は自分を侵食するが、
自分を生きるために使う一円は、
少しだけ明るい未来を引き寄せる。
少なくとも私にとって
人生の可能性を広げるための道具であり、
自分の人生を、等身大で生きるためのパス。
誰かになるための道具ではなく
等身大の自分に還るための道具
それが私のお金の使い道。
