みたらし団子理論〜願望を実現できるのは自分だけ〜
洋菓子より和菓子がスッキー
とかそういう話ではない。
「手を伸ばせば届くものを、
他人のせいで手放していませんか?」
たったひとつの団子を食べることが、
人生で何度も繰り返してきた
“もったいない”を思い出させてくれました。
これは、自分の人生を
“誰かのせい”にしないための、話です。
先日みたらし団子を購入してきて
昼下がりにお抹茶と一緒に食べようと
ダイニングテーブルに並べていた時のこと。
手に取った瞬間私は食べることを一旦横に置いて
みたらし団子を眺めながらこんなことを思った。
これ、今私が
食べるって決断をしたから目の前にある。
食べたい、と思ったから手にして
口に運ぼうとしてるんだよな。
とそんなことを思った。
いろんな妄想が駆け巡る。
もし私がみたらし団子を食べてる最中に
万が一誰かからビデオ通話がかかってきて
みたらし団子を見られたとして
「うわ。せしぼんさんって団子食べてる。
減量中って言ってなかったっけ?意志弱いわ〜」
って思われたらどうしよう、とかおもって
食べるのをやめてしまうこともあり得る。
私がここで
みたらし団子を食べないを選択してしまったら
一生このみたらし団子を
口にすることはないんだろうなとか
もし私が、「私だけ食べるなんて人でなしだ」
「夫に食べさせてあげない奥さんってなんなの?
一人で食べるのはありえない
人としておかしい。これは夫にあげよう」
って食べるのやめ、そっとみたらし団子を
お皿に戻したとしたら
これまた一生食べる機会を失ってしまう。
しかし私の
この時のみたらし団子を食べたいという
願望は一生成就しない。
まだ起きてない不安や
言ってるかわからない誹謗に気を取られたり
余計な罪悪感を抱えて自分の「欲しい」を
棒に振ってしまうことは容易に可能だ。
みたらし団子を眺めながら
1、2分が経っただろうか。
いろんなことが頭に巡った。
つまり、すべては自分の選択決断が
未来を作るんだとそう改めて感じたのだ。
他人の目を気にして
自分の欲しいを無視するのか?
まだ起きてない不安を気にして
目の前の幸せを、
手からこぼしてしまうのか?
よくわからない罪悪感を抱えて
自分を犠牲にするのか?
社会に生きている以上は
他者を気にするのは当たり前だけれど
だからと言って必要以上に気にして
自分の願望成就を自分が阻むというのは
いささか違っているようにも思う。
「こんなふうに思われたら嫌だ」
「こう思われたらどうしよう」
瞬間に関わってきた他人を気にして
私が自分の行動を諦めたとしても
私が気にした他者は
私の夢なんか叶えようとしない。
私の代わりに願望成就を請け負ってくれたりしない。
人生の一瞬、関わった人を気にしてしまったがために
その後の人生を大きく後悔するということが
これまでの私に、何回か起きたことを思い出した。
こう思われたら嫌だ
他人の目を気にして幾度となく
チャンスを逃してきた。
手を伸ばせば届くチャンスを
他者の目を気にしたり
不必要な罪悪感
自己肯定感の低さから
自分が自分で不意にしてしまったことを思い出した。
今私の目の前にはみたらし団子がある。
揺るぎない事実だ。
私が食べたいと思って買ってきた
老舗和菓子店の絶品みたらし団子だ。
食べるという選択をして
口に入れるという行動をするだけで
願望成就するのに、ここの過程が
なんとも長くてもどかしい。
どんなことでも
棚からぼたもちなどありえない。
あったとしても結局食べるか食べないかは
自分が決めるのだ。
勝手に口に入り、もぐもぐと口を動かし
ごっくんと胃に運ぶリモコンは誰も持ってない。
そう、どんな願望も
どんな夢も目標も、
自分しか叶える人がいないのだ。
