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スカッとする話が嫌い〜「当たり前」を疑い、正義バイアスを超える

SNSにこういう記事が流れてきた。


銀座の寿司店に、年老いた夫婦が古びた作業着姿で現れた。
カウンターは空席だらけだったが、
店主は露骨に顔をしかめ
「予約ですか?うちは格式ある店でして、そんな服装では困ります」
と冷たく言い放つ。


ところがその老夫婦の正体は、そこの寿司屋に
ネタを提供していた大手海産問屋の会長夫妻。
見た目で判断する店主ということで
会長はすぐさまここの店との取引を中止
店主は後になって痛い目を見ることになる。


いかにもSNSで流れそうな「見かけで判断するな」系の寓話だ。
なんならyoutubeにもたくさんあった。


見た目で判断した店主が悪い!とか
胸がスッとしましたとか
見る目がない店主が悪いとか
ちゃんと救われてよかったとか…



まぁそんなコメントばかりです。


私はこの羅列されたコメントに
びっくりしたというか
このエピソードに何の疑いもなくコメントしてる人たちって
何も違和感を感じなかったんだろうかと
スカっとどころか、モヤモヤするばかり。



あなたはどう思われましたか??



スカッとするという話は
メディアでもよく取り上げられてるので
人々の共感を得やすいのだろう。


正義が悪を裁くというか
間違ってる人をただせる構図というか。



水戸黄門的な?
アンパンマン的な?
正義と悪的な?


先ほどの話で言うと

見た目で判断するとか、自分に利益がなさそうな人は
相手にしないとか、フランダースの犬に出てくる
アロアのお父さんもまさにそんな感じ。
ハンスの言われるがままネロを誤解して
(見た目で判断して)ましたよね。


そういう本質をみないで、見た目で判断したり
さらには横柄な態度を取ったり
人としてどうなん?
みたいな自分の正義に反する態度を
取った人には制裁をくらわす。



ちゃんと報われる話に見てる人はスカッとするんでしょう。



だから、この銀座の寿司屋の話も
見た目で判断したり
地位や名誉で判断したり
人間の本質を見ようともせず
浅い判断で物事を進める人に対しての
制裁ストーリーと位置付けられてるんだろう。


でもね。



一見「差別を戒める話」のように見えて、
実際はそうではなかったりするのでは?と。



いやいや。
おかしいだろ。



と私は違和感しか感じない。


何が?と思った方。
いろんな捉え方があるし誰が正解でもないけど
私はおかしいだろ。と思ってしまった。



蓋を開けたら差別をしたこの店主を
実は権力者だった人が
追い込むみたいなエピソード。

 

店主はどうでもいい。
もっとね、言い方とかあったと思うし
見た目で判断して暴言吐いて制裁されたので
別にそれはそれで普通なのでよい。


私が強く引っかかるのは「客の側」だ。



私はね。そんな人を試すようなね
この客こそどうなん?って



どこのお店もそうだけど、
やっぱりある程度お店に敬意を表すでしょうよ。


はっきりとドレスコードとして
意思表明しているお店もあるけど
そうじゃないとしても、どう言うお店なのかな?とか
事前に調査したりの、敬意やマナーとして品位は必要な気がする。



お店って店主のこだわりや、夢が詰まってるところだし
そこで「食事をいただく」ならある程度の敬意は必要なわけで

露骨に差別されることを想定した
こういう人を試すようなのってどうなん?って私は思う。
もちろんね、店主の露骨な態度はNGだと思うけど
どっちもどっちでは?と思うんだけど



なのに物語は一方的に店主だけを悪者にし、
客を「正義の側」に置いてしまう。


大体童話にあった
金の斧と銀の斧のあの話も
子供の時から納得がいかない。


何のためにあんなことをするんだろうか?と
いまだに理解ができない。


神々の遊び?
なんなの?


試す理由がわからない。
試すって、信頼してないってことだからね。


そんなことされて気持ちがいい人なんているわけがない。


恋愛中の人が「好きだったらきっとこう言う」とか
「こうするはず」とか
そう言う相手の状況も考えなくて
試したりする行動に幾度となくうんざりしてきたけど
それと同じなのでは?とそんなことを思ったりした。



別にやましくなければ
試したっていいじゃないか。



そう言う意見もあるかもしれない。
でもそもそも「試す」ってことが
人間関係を破綻させてることに気づいた方がいい。


あ〜ちがったよかった。とか
あ〜やっぱりそうだった!とか
自己満足でしかない。


そしてこの創作ストーリーに
何の違和感も持たないのならば
私はちょっと危機感を覚えている。


ねえねえ。思考停止してないかい?


正義と悪というのも昔から刷り込まれた
わたしたちの「当たり前」だ


当たり前は疑うことが難しい。


だってそう言うものだから。
脳は余計な負荷をかけたくない。

スキーマ(そこから生まれる自動思考)と
呼ばれる物に当てはめられると思うのだけど

脳はスキーマと呼ばれる枠組みを持っている。
一度できあがったスキーマがあると、
新しい情報も、疑うより「既存の型」に押し込んで処理してしまう。
その結果、自動的に「こういうものだ」と反射的に考えてしまう。
これが自動思考。

だから「人を見かけで判断する人は悪いに決まってる」
というスキーマが働くと、
成敗される話が出てきた時に「ほら、やっぱり!」と
快楽物質が流れ、スカッとするんだろう。


でも、この状況は明らかにおかしい。


何でわざわざ銀座の寿司屋に注意されるような服装で出向くわけ?
一張羅とまでは言わないけど
ちゃんとそれなりの格好はTPOで必要でしょ?
って思うんだけど。


何でお葬式に喪服を着るの?
どうして結婚式に白を着ていかないの?


TPOだからでしょ?


なのに、この話はそう言うのが全く無視されて
「見た目で判断」と言う部分にだけフォーカスされている。
そこが違和感。と言ってるのだ。


ほぼほぼアウトな状況を自ら作って
ほらやっぱり引っかかったぜって
悪意しか感じない。


ハニートラップと一緒やん。


このスキーマは本当に厄介で
意識を持って立ち止まってよく観察しなければ
色々と見抜くことができない。


話の流れでもそこだけを切り取って
あたかも「悪口」のように扱う人が多いけど
前後の文脈を見てみたら
全然違うってことも多々ある。


自分の中にある当たり前は「信念」と言う言葉にも
置き換えられるが
その信念が強ければ強いほど
当たり前は当たり前として自分の中に君臨し
疑うこともなく、スキーマとして脳内で処理をされてしまう。


それ以外の事実や、視点が持てないまま
狭い真実で生きることになってしまう。


SNSは実にそういうスキーマを使ってネタが
ものすごくうまいと思う。


〇〇は〇〇だ。

大多数が持つ、共通のスキーマをつかって
感情を揺さぶり、購買意欲を掻き立てたり
扇動したりする。


そうなると、もう正しく思考を続けることはできないし
そもそも脳は省エネを選択するので
余計な思考を使おうとしなくなる。
つまり考えるのがめんどくさくなるのだ。


答えの出ないことを考えるのは
本当にしんどいし辛いし、めんどくさい。


でもそこにこそ自分の答えが
あるんじゃないかと思って
死ぬまでに、植え付けられた当たり前ではなく
自分が能動的に選択したいろんな信念を持って
生きていきたいなとそんなふうに思ってる。


モヤモヤは私にとってのリトマス試験紙のようなものかも。


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