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自分の哲学とやらを言語化してみる。

今回は、「自分の哲学」とやらを、
少しだけ言葉にしてみようと思う。


私の生きてきたことを棚卸して
生きる情熱ともなるコアを出したとき
「個性を生きる」という言葉に落ち着いた。


ここ数年これできてたんだけど
もう少し深掘りしたくなった。
しっくりこないわけじゃないけど
もうちょっと詳細で繊細な気がしたからだ。


いろいろと自分のこだわりや
生きるにあたって守りたいものや
美しいと感じることや
醜いと感じることなど
自分の価値観を多角的に言葉にして
ぎゅっとまとめたらこんなふうになった。


哲学って何だよ?ってずっと思ってたけど
今の所こんなふうに解釈が落ち着いている。


「自分が何を大切にして生きるか」という
生き方の設計図。


そしたらこんな言葉が湧いてきた。


等身大で世界と響き合うあり方。


多くの人は「個性」という言葉を、
キャラクターや目立つ特徴のように捉えがち。

けれど本来の個性とは、
そんな表面的な違いではなく
濁らず、自然の流れと調和して生きることこそが、
人が本来の個性を取り戻す姿かなと。


濁るというのは
自分を誤魔化して等身大ではない姿。

どこかから借りてきた価値観ではなく
自分から湧いてきた価値観。


もちろんここは多分ずっとアップデートする必要があって
これは誰の価値観なんだろう?って
感じながら悩みながら日々を過ごすことになるが
それもまた等身大。


完璧でないのも等身大。
その時の最善を受け入れる。と言ったところか。


日々成長をするし
日々進化をする
振り返るとその時は◎だったことが
今見ると△だったり×だったりすることだってある。


だけどそれを受け入れて
じゃ、どうしていこうかな〜
これが等身大と解釈している。


できないことに嘆くより
なぜできないのか?
なぜできたいのか?
それは本当に必要なのか?
そんなふうに自分と向き合うのが等身大かなと。


調べていくうちに
清明という言葉に出会った。


二十四節気にもあるこの言葉に
私の思いに沿った意味があったことに驚いた。



清明とは、生命が本来の秩序を取り戻していく状態。
桜は桜として咲き、風は風として吹くように、
人もまた、誰かを真似ることなく、自
分という生命の形をそのまま生きる。
それが「清明の個性」。


個性は作るものではなく、
本来の自分に戻る過程で自然に現れるものと捉え
努力や演出で作り上げる「らしさ」ではなく、
余計なものを削ぎ落とし、
自然体に戻ったときに立ち現れるありのままの構造。
それこそが、その人固有の響きであり、存在の美しさ。


個性は出すものではなく
出るものだと言っていた私の価値観にも沿っている。



そして、「清明の個性」は他者との響き合いの中で完成するそう。



自分が澄めば、他者の音も聴こえる。
世界と調和するとは、
迎合でも孤立でもなく、等身大で共鳴すること
つまり、清明とは個性が世界と対話できる状態

なんてかっこいい言葉でまとめてみたけど
そんな感じ。



自分を整えていくと
自然と世界と周りと調和して
お互いが美しく存在するよね。
そんな感じ。

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