いいことが起きると、なぜか怖くなる。運の正体ってなんだろう。
足の裏が無性にかゆい。
左の土踏まずのあたりだ。
かくとこしょばくて、痒みを抑えたいのに、
こしょばいのも一緒にやってくるのでややこしい。
(こしょばいって方言か?)
足をかきながら、自分の中に
不穏な空気が流れていることにも気がついた。
理由は明確。
足の裏がかゆい時は、お金が出ていく。
手のひらがかゆい時は、お金が入ってくる。
私はなぜか、そう信じているからだ。
待てよ。
これ、ほんとか?
なんで?
調べてみた。すると、手のひらのかゆみと
お金を結びつけるジンクス自体は、
どうやら世界のあちこちにあるらしい。
ところが面白いことに、
右手がかゆいとお金が入る。
左手がかゆいとお金が出る。
というところもあれば、
左手がかゆいとお金が入る。
右手がかゆいとお金が出る。
というところもある。
さらに、左右関係なく、
手のひらがかゆければお金が入るという説まである。
なんじゃそりゃ。
そして肝心の、足の裏がかゆいとお金が出ていく。
について調べてみたものの、
少なくとも私が調べた範囲では、
これといった根拠も由来も見つけられなかった。
私はいったい、いつ、どこでこれを仕入れたのだろう。
そして、なぜ今日まで一度も疑わなかったのだろう。
そういえば、これとよく似たことを、
私はつい最近もやっていた。
いつも行っているジムで、夏の還元祭があった。
チェックインしたときにもらうレシートが、
そのまま3枚で1口の応募券になるシステムで、
私はたぶん5、6口ほど応募箱に投入した。
そして、くじの結果発表の日。
私は人生で初めての出来事を目にすることになる。
当選者一覧から自分の名前を探していると、
特賞
と書かれた文字が飛び込んできた。
わ〜! 特賞だ!!!
喜んでいると、ジムのお姉さんが、
せしぼんさん、特賞でしたね!!
すごいすごいって言ってたんですよ〜
と声をかけてくれた。
え、これ、
ほぼ毎日来てくれるから今回はせしぼんさんに……
みたいな忖度じゃないですよね?
厳正なる抽選ですよね?
そうじゃないと思いつつ聞いてみた。
当たり前ですよ〜!
と大笑いされながら、
私はこんなことを口走っていた。
いや〜、私、近々雷にも当たるかもしれない。
と、口走って私はあることに気がついた。
なんで?
なんで雷が落ちる?
あれ?
あれれ??
いいことがあると、それだけ悪いことも起きるって、
私、なんでか思ってる?
何、この相殺マインド。
等価交換思想。
なんの因果関係もない。
ファンタジーすぎる。
私、怖い。
なんでこんなこと、ナチュラルに思ってるんだろう。
その場にいた夫に、帰宅してから話した。
すると、
うん。
何言ってんの、この人って思った。
だけど、ほっといた。
と言われた。
教えてくれよぅorz
私はもしかしたら、今までもこんなふうに、
いいことがあったのに、そのまま波に乗らず、
バチが当たるとか、
いいことはそうそう続かないとか、
いいことの後には悪いことが起きるとか、
勝手にブレーキを踏んできたのかもしれない。
そして、逆も然り。
悪いことが続いたら、そのことを直視せずに、
きっとこの後にはいいことが起きる。
と、どこか他力本願で生きてきたところも、
多々あるのかもしれない。
雨が降れば、いつか晴れる。
たしかに天気ならそうだろう。
でも私は、そんな自然現象まで持ち出して、
自分の選択、決断、行動といった自力を無力化して、
何か崇高なる力みたいなものに自分を乗っからせて、
責任を放棄していたのかもしれない。
げげっ。
これはまずい。
というか、アホすぎる。
直ちに是正課題だわ。
では、なぜ私は、
特賞が当たったら、次は雷に当たる。
なんて思ったんだろう。
色々と自問自答を繰り返してみたけれど、
これといった根拠も原因も見つからない。
なんとなく昔話や童話で見聞きしたり、
そう思い込んでいる人の話を聞いたりして、
ふ〜ん、そんなもんか。
くらいの感じで、自分の中に採用しただけなのかもしれない。
でも、改めて今の私が考えてみると、
今回、特賞が当たったことだって、
ただのまぐれで片づける話ではない。
私は応募という行動を起こした。
しかも1口ではなく、
当たる確率が上がるように、複数口応募した。
もちろん、最終的にどの応募券が引かれるかは私には決められない。
そこには偶然もタイミングもある。
でも、そもそも私が応募していなければ、
そのタイミングに引っ掛かることすらなかった。
なんでもそうなのかもしれない。
結果につながる分母を増やせば、
その結果が起きる確率も上がる。
いいことも、悪いことも。
よく引き寄せという便利な言葉で表現されるけれど、
引き寄せと呼ばれているものの中には、
実際にはこういうことも、
かなり含まれているんじゃないだろうか。
欲しい現実に対して、
ものの見方が変わる。
目に入る情報が変わる。
選択が変わる。
決断が変わる。
行動が変わる。
無意識だったとしても、
少しずつその現実につながる分母を増やしている。
家に閉じこもって誰とも会わずに、
いい出会いがない。
私は出会い運が悪い。
と言っていても、それは運が悪いのではなく、
そもそも出会いが起きる分母を増やしていない。
みたいに。
逆に、会いたい人がいそうな場所へ行く。
人からの誘いに乗ってみる。
自分から誰かを誘ってみる。
そうやって出会いが起こる分母を増やしていけば、
誰かと出会う確率は当然上がる。
もちろん、それでも何も起こらないことはある。
分母を増やせば、必ず望んだ結果が出るわけじゃない。
でも、何もしなかった私と、
その未来につながる行動を100回した私が、
まったく同じ確率の中にいるとは思えない。
運というものがあるとしても、
私はずいぶん長いこと、
運に任せなくても自分で動かせる部分まで、
運のせいにしていたのかもしれない。
ここにきて雷に冤罪を着せていた私、ごめん。
そうか。
自分の未来は自分で作れるって、
こういうことなのかもしれない。
もちろん、人生には自分ではどうにもできないことも起きる。
災害も、事故も、病気も、他人の選択も、
自分の思考や行動で起こしたわけではないことまで、
自分が引き寄せたなんて私は思わない。
でも、何が起きるかを選べないことと、
起きたあと、どちらへ向かうかを選べないことは、
まったく別の話だと思う。
不可抗力で何かが起きたとしても、
そこからどう回避するか。
どう柔軟に自分を逃がすか。
何を諦めて、何を守るか。
別の道を探すのか。
その先で、どんな未来につながる分母を増やしていくかは、
また自分で選べる。
私自身、これまで何度も、
どうにもならない局面に立たされてきた。
そして今振り返ると、
起きた出来事そのものよりも、
こうじゃないと嫌だ。
こうなるはずだった。
こうならなければ幸せじゃない。
そんな自分のこだわりや執着によって、
必要以上に自分を苦しめていたこともあったと思う。
どうせ無理。
できない。
叶わない。
そう言って代替策を探さないのは、
新幹線が止まったから、大阪には行けない。
と、その場で諦めるのと同じなのかも。
本当に行けないのか?
時間がかかっても辿り着く方法はないのか?
飛行機は?
車は?
別の路線は?
それでも無理なら、
そもそも私は、なぜ今日大阪へ行きたかったんだろう。
大阪へ行くこと以外に、
その目的を叶える方法はないんだろうか。
そうやって、欲しい未来そのものまで見失わずに、
そこへ辿り着く道のほうを柔軟に変えていく。
あの手この手で、
自分を、自分の欲しい未来に近づけてあげる。
そのために頭を使って、
選択肢を増やして、試して、
ダメならまた別の方法を考える。
知恵を使うって、
こういうことなのかな。
自分の未来を作るって、
起きることを全部コントロールすることではなくて、
何が起きても、
その場所から次にどの分母を増やすかを、
自分で選び直せることなのかもしれない。
そして今日、
私はまた年齢をひとつ重ねた。
カラットが増えた。
宝石でいうと、相当でかい。
私は自分のことを、
バイオルミネセンスと勝手にカテゴリーしている。
何かに照らされて光るのではなく、
自分から発光するもの。
いいことが起きたら、
次の悪いことを待たなくていい。
悪いことが起きたら、
いつか何かがなんとかしてくれると待たなくていい。
欲しい未来があるなら、
そこにつながる分母を、自分で増やしていけばいい。
そして、自分ではどうにもならないことが起きたなら、
そこからまた、
どの分母を増やすかを選び直せばいい。
新しく歳を重ねるこの日までに、
このことに気づけたのは、
私にとって、とても大きかった。
何かの力を借りて光るのではなく、
自分で考えて、
自分で選んで、
自分で動いて、
自分から発光する。
そんな等身大の美しさを、
これからも磨いていこうと思う。
今日からまた、
素晴らしい一年になりそうだ。

