「迷惑をかけるな」で育った私たちの末路
他者と関わるとき、こんな言葉をよく耳にする。
「迷惑をかけてはいけない」
「頼ってはいけない」
そしてこれを口にする人ほど、
どこか生きづらそうにしている。
かつての自分も、そうだった。
子どもの頃、助けを求めることは怠惰だと教わった。
できないと言うことは逃避で、
少し休むことさえ、堕落への一歩だとされていた。
そういう環境で育つと、「迷惑」という言葉は
いつの間にか、外ではなく内側に向かう刃になる。
他者に迷惑をかけないために、自分を削る。
助けを求められないから、
限界まで一人で抱える。
その繰り返しが、じわじわと人を消耗させていく。
ある時、こんな考え方を知った。
人間は生きているだけで、
誰かに負担をかける存在だ
という前提で動いている文化がある。
そこでは迷惑は、悪いことではなく
不可避な事象として定義されている。
「お前も迷惑をかけているのだから、人を許せ」
という発想だ。
最初は少し面食らった。
でも、これは迷惑行為を容認しているのではない。
人間の不完全さを、
最初から織り込んでいるということだ。
そもそも「迷惑」という言葉が、
粗すぎると思う。
他者に不快感を与えることと、
未熟さや無知からくる負担は、
同じ言葉で括るには違いすぎる。
前者は改める必要があるが、
後者は成長の過程で必然的に生まれるものだ。
それを同じ「迷惑」として禁じてしまうと、
挑戦の余地も、助けを求める余地もなくなる。
この歳になって、
ようやくわかってきたことがある。
自分の不完全さを認めている人だけが、
他者の不完全さに寛容になれる。
逆に、自分に厳しい人は他者にも厳しい。
それは意地悪からではなく、
自分に許していないことを他者にも許せないからだ。
「お互い様」という感覚は、甘さではない。
自分も誰かの負担になりながら
生きているという自覚が、
他者の失敗や未熟さを受け取る器になる。
そしてその器が、カオスの中でも
折れない強さの土台になると、
今は思っている。
迷惑をかけるな、ではなく。
謙虚に、迷惑をかけながら生きていく。
そのくらいでちょうどいいのかもね〜
