【掌握小説】kesäheila
「俺、柚羽の香りすっげー好き」
私に腕枕をしながら首筋をスンと香る翠の吐息がくすぐったくて、何それとくすくす笑いながらその温もりに包まれていた時間を思い出した。
真夏の夜はジメジメとしていて日中よりも気温が下がったとしても、暑さを忘れされないように冷房を効かせておかなければ途端に室内は熱帯雨林になる。
そんな中で私たちは何度も体を求め合い、汗を流した。翠が部屋にいるだけでこの夏がまるで楽園のように、キラキラと輝いて思えるほどに私は彼の存在を大切に思っていた。
「だっていい匂いなんだもん」
そう言って再び私の首筋にキスをする翠が遠のいていく。
夢から醒めると幾度となく体を這わせたベッドの上で私はただ天井を眺めていた。
「結局終わったってこと?」
「そんなことないと思う」
翠がラインに既読をつけなくなってから1ヶ月の月日が流れていた。今まではなんとなく続いていたラインだったのに、本当に突然、まるで私のことを忘れてしまったかのように未読が続いていた。
秋穂の言葉がグサリと心に刺さり、自然とラインの画面を確認してしまう。最後に翠に送ったラインは5日前。「どうしたの?」というシンプルなもので、そこに既読の言葉は出ていない。沈黙が続く画面を眺めていると、秋穂が「でも別に付き合ってたわけじゃないんでしょ?」と真のある言葉を告げた。
翠とは確かに「お付き合いしましょう」という礼節的な言葉を交わした関係ではない。ただバーで出会って、なんとなしにそういう空気になって、部屋になだれ込んで、それが心地よくて関係が続いていただけ。
けれど礼節的なものがないだけで端から見れば(私から見ても)付き合っているものだと感じられたはずだ。手を繋いでデートもして、他愛ない話をして、映画を見て、そういう何気ない日々が続くのだと思っていた。
最後にラインを交わした時も「31の新作食べに行こう」という何気ない内容だったのに。「いつ行く?」という返信に対して既読をついて以降、未読のラインが続いている。
ただスマホの画面を眺めて明らかに落胆の色を浮かべる私を見かねた秋穂がスマホを取り上げ、あっと思わず声が漏れる。スマホは秋穂の目の前にあるアイスラテの横に丁寧に置かれ、「とりあえず今日はこのまま買い物行こう。もうぱーっと買い物するのがストレス発散よ」そう言ってアイスラテを一気に飲みきった。
その後は秋穂とデパートに行ってコスメやら香水やら、とにかく普段は見るだけで終わるものを試してみたり、試着してみたりを繰り返し、予想以上の散財をした。楽しい時間だと思ったのに、頭の片隅ではラインの画面が気になって仕方ない。
秋穂とひたすら楽しい時間を過ごして帰りの電車に乗った瞬間、私はラインを立ち上げた。もしかしたらこの楽しい時間を察知して翠から返信が来ているかもしれない。期待と祈りが無意識に心を支配するが、新着の欄にあるのはどうでもいいマガジンばかり。翠の画面を開いても未読のままだった。
わかっていたことなのに。
希望を捨てきれない自分がいる。
「kesäheila」というフィンランド語がある。夏の恋人を意味する言葉で、ひと夏で終わる関係もあれば、それ以降も続き結婚するような関係に発展することもある。私はその言葉を知ったとき自然と翠の後ろ姿が浮かんだ。
私たちはきっと出会うべくして出会って、この夏をともに過ごして、夏の終わりとともに終わっていく。きっとそうなんだと、心の何処かで思っていた。
車窓から眺める景色がどんどん流れていくように、その流れに抗うこともできずに、私は翠のことを忘れるしかないのかもしれない。
翠は私の何だったのだろう。私は翠のなんだったのだろう。
存在に名をつけるのは無意味なことなのもわかってる。それでも答えを探さずにはいられなかった。
流れ行く景色を眺めて秋穂に「今日は楽しかった!ありがと!」とラインを送るとすぐに既読がつき「私も!またどっかいこうよ〜」と未来を示唆する返信がきた。
それに少し目の奥がジンとしみて、鼻の奥がツンとする痛みがある。ゆっくりと伝う涙を拭かずに私は秋穂に返信してスマホを閉じた。
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