赤い風船は、社会から少し遅れて浮かぶ
夕方になると、自分だけが少し世界から遅れる
夕方になると、世界は少しだけ、 自分がいなくても回っていくように見える。
駅へ急ぐ人たち。
スーパーの袋を下げた腕。
遠くで閉まるシャッターの音。
子どもを呼ぶ声。
夕焼けを映した窓。
街じゅうが、静かに「帰る」という形に折りたたまれていく。
昼のあいだ、私たちはずっと、 社会の速度に合わせて生きている。
返事をして、
役割をこなして、
その場にふさわしい顔を選んで、
遅れないように歩いていく。
何気ないふりをしながら、 ほんとうはずっと、内部では何かが張りつめている。
「自分」という形を、 なんとか崩さないようにするために。
でも、黄昏が近づくと、 その緊張は少しずつほどけていく。
そしてふいに、 こんなことを思ってしまう瞬間がある。
もしこのまま、 自分が静かに消えてしまっても、 世界は何事もなかったみたいに回り続けるのではないか、と。
電車は走る。
店は閉まる。
誰かは笑い、誰かは眠り、
明日の朝はちゃんと来る。
自分だけが、 少し遅れて世界からこぼれていく。
そんな気がする瞬間がある。
黄昏は、不安の時間というより、 「自分は代わりのきく存在かもしれない」と 知ってしまう時間なのかもしれない。
昼間は、 自分でなければならなかった。
自分の名前で呼ばれ、
自分の役割を引き受け、
自分の判断で動いていた。
でも夕方になると、 世界は急に静かになる。
その静けさのなかで、 「べつに、あなたじゃなくても回る」という構造だけが、 妙にはっきりと輪郭を持ちはじめる。
だから人は帰宅するのかもしれない。
家に帰りたいから、だけじゃない。
まだ誰かと、 自分がこの世界につながっていることを、 確かめたくなるのだと思う。
玄関の灯り。
台所の湯気。
部屋の物音。
たったひとつの返信。
そういう小さな生活の気配が、 「まだここにいていい」と、 自分の内部に教えてくれる。
けれど、ときどき間に合わない日がある。
夕焼けを見ているうちに、 景色より先に、 自分の内側のほうが夜へ落ちてしまう日がある。
あの感じは、 手を離れた赤い風船に少し似ている。
追えばまだ届きそうなのに、 もう届かない。
赤い点だけが、 夕空の向こうへ、 ゆっくり遠ざかっていく。
あれは希望だったのかもしれない。
子どものころの安心だったのかもしれない。
あるいは、 「自分はちゃんと誰かとつながっている」と 信じられていた感覚そのものだったのかもしれない。
黄昏どき、人はときどき、 内部から赤い風船が離れていく瞬間を見ている。
そしてたぶん、 帰るという行為は、 その風船を追いかけることではない。
見失わないように、 まだここにいる自分を、 そっと抱え直すための動作なのだと思う。
夕方になると、 人はみな帰っていく。
けれど、ときどき 内部だけが帰りそびれる。
赤い風船のように。
だから黄昏は、 人を少しだけ寂しくする。
でも同時に、 自分を抱え直そうとするやさしさも、 静かに思い出させる。
