存在理由:エラー404
目を開いた瞬間、肺に流れ込んだのは酸素ではなかった。
冷凍睡眠からの覚醒を想定して調合された混合気体――酸素比率は旧世紀の大気よりも高く、二酸化炭素は極端に低く抑えられている。そこに覚醒促進剤が加えられ、血流と神経は急速に目を覚ます。
喉がひりつき、息が詰まる。50年の氷眠が、肉体は一度死体に近い状態まで機能を低下させていたのだ。
視界に入るのは、無数の光を放つパネル群。周囲の人影は、白衣に見えるナノファイバースーツをまとい、拡張現実の端末を通して私を観察していた。
「被験体、覚醒。肉体は旧式だが、生命活動は基準範囲内」
無感情な声が告げる。
「……ここは……?」
「あなたが眠りについた日から、52年と105日が経過しています」
その言葉に胸を抉られる。記憶が戻る、50年後の自分、本当に未来へ来たのだ。あの頃をすべてを置き去りにして。
だが、研究員は冷たく付け加えた。
「あなたの居場所はもうありません」
そのとき、背後から声がした。
「ようこそ、未来へ」
振り返ると、そこに立っていたのは若き日の私自身。
遺伝子改良と教育によって完成された“人類の理想の私”だった。
都市は光の構造物でできていた。透明な建築群が空に浮かび、気候は完全に制御されている。人々は均整の取れた容貌を持ち、遺伝子工学によって病も欠陥も取り除かれている。
彼らの多くは言葉を交わさず、脳に埋め込まれたインプラントデバイスで感情と情報を共有していた。言語化が不得意な人はいない。表現したいことさえあれば、世界とすぐにつながる仕組みが出来ていた。
広場のスクリーンには「私」が映っていた。演説し、未来を語り、喝采を浴びる姿。しかしそれはクローンであり、人々は彼を「本物」と信じて疑わなかった。50年前からクローンは活躍していたのだろうか。一切年をとらず、50年前の姿の私のクローンは、最先端技術でバイタリティーあふれる人物として人前に立っていた。
眠りから覚めた本物の私はただ群衆の中で立ち尽くした。
誰も私を振り返らなかった。
背後の声に振り向いたとき、私は息を呑んだ。
そこに立つのは、若き日の私自身だった。
肌は滑らかで、眼差しは濁りひとつなく、動作のすべてが洗練されている。まるで「理想化された私」という像が、そのまま歩み出てきたようだった。
「……あなたは」
かろうじて声を絞り出すと、彼――いや、“私”は微笑んだ。
「私はあなたのクローン。より正確に言えば、あなたを基盤に改良された次世代体です。社会は私を“本物のあなた”として受け入れています」
言葉は淡々としていた。だが、その目の奥に一瞬だけ揺らぎを見た気がした。
「本物……? では私は?」
「旧式です。人類は進化を続けています。あなたは過去の一部に過ぎない」
冷ややかな響きだった。
研究員たちは遠隔で見守る。こちらにその様子がわかる。デバイスが組み込まれていた。遠隔で蘇る時から観察している技術者たちが、クローンの言葉にうなずき、記録用の端末に次々と情報を打ち込む。
クローンはわずかに視線を逸らした。
夜、再び彼と二人きりになったとき、その理由を知った。
「……私は常に恐れている」彼は窓越しに都市の光を眺めながら、低くつぶやいた。
「人々は私を完璧だと言う。でも私は知っている。本物はあなたであり、私は模倣だ。どれほど優れていても、あなたの存在が消えない限り、私は影にすぎない」
その声音は、昼間の堂々とした姿とはかけ離れていた。
人々の喝采に囲まれながらも、彼は孤独だった。
「誰も私を本当に見てはいない。彼らが信じているのは“あなたの幻影”だ」
私の胸に、奇妙な痛みが走った。
AIが作った小説はつまらない、人間が懊悩の末書き上げた小説こそ価値があるという説があるが、クローンはそっち側なのだろうか?
社会が不要と切り捨てた50年前の私こそが、彼の存在を保証していると。
人間の懊悩の末がやはり良いのか?逆説に気づいた瞬間だった。
彼は静かに振り返り、震える声で言った。
「どうか、私を否定しないでくれ。あなたが私を受け入れてくれるなら、初めて私は“私”でいられる」
その瞳に宿る孤独は、かつて自分が若いころ抱いていたものに似ていた。
未来は、彼を強くりりしく完璧にした様にみえたが、人間の弱さまで消し去ったわけではなかった。
都市の夜空は、人工の星々で光り輝いていた。
巨大なドームに覆われた空間では、季節も時間も人々の感情に合わせてプログラムされている。都市は完全に制御され、病も欠陥も淘汰され、倫理も合理性の枠内で最適化されていた。
私は彼を必要としていたわけではない。
彼もまた、私に依存しているわけではない。
私は歩きながら考えた。
社会が与える価値や、他者に必要とされることだけが、存在の証明ではない。
それ以上に、自己自身が自らに与える意味こそ、深く、揺るぎないものかもしれない。
クローンは私の横を歩きながら、静かに言った。
「私は完璧だと思われている。でも完璧であることは、最適化されているだけだ、完璧であることが、必ずしも幸福ではない。」
完璧でなくても、自分を肯定できる瞬間はある。
それは社会も他者も定義できない価値だ
ここにいるだけで意味があると感じられる、それが存在理由ですか?
私は首を振る。
「意味があるかどうかはわからない。だが、自分がここにいることを、自分自身が確認できる。それだけ」
私たちは言葉を超えて、ただ並んで歩いた。
街の灯りが二人の影を長く伸ばし、透明な建築の壁面に揺らめく。
誰も私たちに目を向けない。
誰からも必要とされていない存在。だが、それでいい。
未来の都市は、必要とされる価値だけで回っている。
だが私たちはその枠組みを超え、必要ではない価値を生きているのだ。
クローンは小さく笑った。
「社会に求められる私ではなく、私自身として生きるあなたが、私にとっても未知の存在だ」私は思い切って立ち止まり、都市の全景を見渡す。
光の線路が空を横切り、空気は無風で清浄。
その中で、私たちは必要とされずとも、存在の意味を自ら定めることができる。
「必要とされない価値」――それは、誰にも強制されず、誰にも消されず、ただ自分自身の意志で存在する価値だ。
社会の論理では測れない、私たちだけの価値。
私たちは沈黙の中で歩き続けた。
その沈黙は不安ではなく、確信に満ちていた。
必要とされない価値を生きること、それこそが自由であり、そして私たちがこの未来に残せる、新しい人間の形なのだ。


