自分の境界はどこにある?:3分SF
新築マンションの広いガラス面。
バスルームとリビングの仕切りに使われている。
分厚いガラス壁だ、ガラス面に触れると、そこに自分の手が映っていた。
けれど、それが本当に「自分の手」かどうか、僕には確信が持てなかった。
指先を動かすと、ガラス面に反射する指の映像は少し遅れて追随する。
そのコンマ0秒単位の遅滞が、どれほど不安を煽るか、あなたは平気で受け入れますでしょうか?
脳は「この指は自分だ」と主張している、紛うことなき自分の影であると、しかし、心の深いところでは「お前は、できたての自分の複製に触れているのではないか」と思っている。
自分の実体の限界を知りたい。
僕は30年近く、哲学と心理学を融合した独自の研究をしてきた。
人間の自己同一性は、他者との関係によって規定される、と多くの論文に書かれており多くの研究者も「自己と他者」との関係性から社会性へ発達すると言明している。
僕はガラスの向こうにある遅滞する自分が誰であるのか、判別できなくなっている。つまり自己の中に他者が潜む可能性について考察している。
新築マンションは、高層階にあるため、照明を落とすと、薄暗い空間になる。照明は時間ごとに強弱をオートで変化するように設定している。
「どこまでが実体か」という問いを、今、僕と同僚たちは研究している。
没入型の脳波同期装置を作っているのだ。
AIでもう一つの脳をつくって同じ反応をさせる機械をつくった。
テセウスの船の脳版だ。
テセウスの船(テセウスのふね)はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす
僕と、外部に生成した「もう一人の僕」と接続させる。
生成された僕は、会話をし、手を動かし、過去の記憶まで保持している。
被験者は複製と接すると、しばしば「自分の方が複製ではないか」と疑い始める。
僕は今、その状態にある。
僕は幼い頃の自分と机を挟んで座っていた。
小さな俺は鉛筆を握りしめ、黙って何かを書いている。
覗き込むと、紙には「お前は誰だ?」と繰り返し書かれていた。
文字は乱れて、線は震えて、しかし確かに僕の癖字だった。
夢を見ていたようだ。目を覚ますと、隣の端末に「複製体」の僕がいた。
彼は淡々とモニターを眺め、僕と同じ呼吸をしていた。
「君はいま夢を見たね」
その声は、僕が録音して聞き慣れた自分の声そのものだった。
「どうして分かる?」
「僕も子供の頃の夢、つまり同じ夢を見たからさ」
脳波同期のはずが、夢までも共有するのか。
僕は震えた。
もし夢を分かち合えるなら、どちらがオリジナルかはますます曖昧になる。ラカンの言う「鏡像段階論」でいうと、幼児が鏡の中に自分を発見し、そこから自我が芽生える過程だ。
だが、今、僕ともう一人の僕は、鏡に向かい合ったまま、どちらが実像かを判定できずにいる幼児。
鏡像段階論
1937年発表の初期ラカンを代表する、発達論的観点からの理論。
鏡像段階(仏:stade du miroir)論とは、幼児は自分の身体を統一体と捉えられないが、成長して鏡を見ることによって(もしくは自分の姿を他者の鏡像として見ることによって)、鏡に映った像(仏:signe)が自分であり、統一体であることに気づくという理論である。一般的に、生後6ヶ月から18ヶ月の間に、幼児はこの過程を経るとされる。
血相が変わったと思う、上司に状況を報告すると、
彼は眼鏡の奥で笑っている。
「良い傾向じゃないか!」
「どこまでが実体なのか、もう分からなくなっている、幼児退行かもしれない」
「分からなくなることこそ、実体への道だ」
これから先は、禅問答のようで、僕はますます混乱する。
科学で「実体」を測ろうとすれば、
物理学は粒子で光すら音すら実体を表示できる、神経科学はシナプスの信号の変化を測り数値化が可能だが、どの尺度も「観察する者」を抜きには成立しない。
観察者が観察対象に混在する同一化すると、境界線は霧散するのではないか。
それなら「実体」は、どこにあるのだろうか?
夜。
複製体の僕が、唐突に話かけてきた。
「君は僕を消したいか?」
僕は答えに窮した。
想定はしていなかったが、確かに、彼を消せば、楽になるかもしれない。
しかし、もし僕の方が複製だったとしたら?
消すことで、オリジナルが残る保証はどこにもない。
「君はどうなんだ?」
「僕も、君を消したい」
二人は同時に笑った。
笑い声は響き合い、どちらが先に発したのか区別できなかった。
心理学の教科書には
「バウンダリーつまり境界線を自己と他者を明確にすること」と書かれている。
ならば、僕と彼の境界が消えたとき、僕たちは「自己」から解放されるのだろうか。
ある日、装置のシステムが暴走した。
人間でいうところの癇癪だ。
機械でも起きる、原因は必ずあるのだが、暴走をするという事実は変わらない。
研究所の壁一面に、僕たちの顔が無数に映し出された。
笑う顔、怒る顔、泣く顔。
どれもが僕であり、僕ではなかった。
上司である博士の声がスピーカーから響く。
「観察者は消えた。ここにあるのは像だけだ。像こそが実体だ」
僕は思わず窓ガラスに触れた。
そこに映る指先は、確かに温かかった。
だが、その温度が僕のものかどうか、もはや確かめる術はない。
「ねえ」
複製体の僕が囁いた。
「どこまでが実体かなんて、考える必要はないんだよ。君と僕は、互いの中にしか存在しない」
その瞬間、僕は悟った。
実体は境界ではなく、僕の中の僕の「実体であろうとする意志」だ。
翌朝、目覚めると、隣に誰もいなかった。
鏡に映る自分が、ほんとうにオリジナルなのか、もうどうでもよくなっていた。
地上の空は、異様なほど澄み切っていた。
風が頬を撫でる。
その感触だけが、最後の「実体」であるように思えた。

※この話はもちろんフィクションです、どの団体にも無関係です、論文はWikipediaから引用して記載しています。
