AIは「未来」を予測できない:3分SF
夜明け直後の冬の街は、まだまだ暗闇が光より強め。重そうな雲の切れ目から光がかすかに滲んでいるような。
歩道の端には昨夜の雪が寄せ集められ、表面は氷となり、白と茶色と灰色がまだらに混ざっていた。
自動販売機の低い唸り音だけが、街がすでに起きている証のように続いている。
キョウコは、歩道をゆっくり進んでいた。
チャコールのコートは年月を経て柔らかく体に馴染み、カシミヤ専用の虫喰い跡消しの刺繍がある。白髪は後ろでまとめられ、風が吹いても乱れない。
凛としている、という言葉がそのまま形を持ったような佇まいだった。
靴が雪を踏むたび、きゅ、と小さな音が鳴る。
その音を、キョウコは懐かしむように聞いていた。
川沿いの道に出ると、対岸まで視野が広がる、
水面は薄氷に覆われ、ところどころ黒い流れが見える。枯れた葦が風に揺れ、コンクリートの橋の袂では、鳩が身を寄せ合っている。遠くのマンション群は、朝靄に溶けてかすんで見える。
10年前も、同じ景色だった。
いや、同じに見えるだけかもしれない。
街灯はいつしか蛍光灯からLEDに変わり、川沿いの防災スピーカーや監視カメラは増え、サイネージは「将来判断支援制度の相談窓口」表示が嫌味なく視野に入り込む。
冷たい風だけは、決して変えることはできない。
この10年で、日本は社会制度が整い、生活は格段に便利になった。
事故が減り、事業の損失は予測され、迷いは「非効率」と呼ばれるようになり、準備されて正解の中から選択する制度に変わった。
キョウコは、その流れを、外から眺めてきた。
市役所は、朝の光を反射して白く立っている。
自動ドアが開くたび、暖房の空気が流れ出し、キョウコの眼鏡を曇らせる。ロビーの床は光を反射させている、足音がやけに大きく響いた。
ホールには、すでに人が大勢集まっている。入口のカウンターが586名
二酸化炭素濃度、湿度、等の調整度数を表示している。完全空調稼働中。
スーツの肩に雪を残した会社員。
小型タブレットを確認する学生。
腕を組み、説明を待つ様子の高齢者。
壁際には大型スクリーン。
その下に、小さくこう書かれている。
「個人選択記録・公開」
広告もない、地味な配色。
空気は張り詰めていた。
キョウコは、最後列の椅子に腰を下ろす。
背もたれは硬く、座面は冷たい。前の席では、誰かがコートのボタンを留め直している。遠くで咳払いがひとつ。
照明が落ちる。
スクリーンに映ったのは、グラフではなかった。
淡々と並ぶ、日付と短い文章。
「遠回りをあえて選んだ」
「話しかけなかった」
「引き受けた」
「断った」
説明はない。
理由もない。
ただ、選択だけが、リアル画像と共に、静かに積み重なっている。
会場の誰かが気づく。
これは、模範ではない。
成功談でも、失敗談でもない。
人が、自分で決めて生きた記録をただ流している。さながら実験的映画上映会。
最後の一文が表示される。
「私は、選ぶことを、手放さなかった」
その瞬間、誰も拍手をしなかった。
ざわめきもない。
代わりに、椅子のきしむ音や、呼吸の気配がはっきりと伝わってくる。
人々が、それぞれの10年を思い返しているのが、わかった。
外に出ると、雪が再び降り始めていた。
市役所前の広場には、足跡が複雑に交差している。
急ぐ人、立ち止まる人、引き返す人。
そのすべてが、今この瞬間の選択だ。
キョウコは、立ち止まり、雲を見つめた。
冷たい雪片が、頬に触れる。
この映像公開の反応に応じて制度は静かに改定される。
AIの画面には、必ず一行、表示されることになった。
あなたが選ぶ。
冬の街は、相変わらず不完全だ。
だが、そこを歩く人の足取りは、ほんの少しだけ確かになった。
キョウコは、人波に紛れながら、ゆっくりと姿を消す。
彼女が残したのは、答えではない。
自分で選択してきたという事実。
10年後の日本の冬は冷たい。
それでも、未来は自分の手で選び、静かに温める場所になっていた。
