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システムとしての自分

朝、キョウコは画面を開く。

通知。
記事。
短い言葉。
誰かの怒り。
誰かの正しさ。

流れてくるものは無数にある。

けれど実際に流れ込んでいるのは、情報ではない。

「どう反応するか」だ。

何に驚くか。
どこで怒るか。
何を重要とみなすか。
どこで立ち止まるべきか。

それらは、静かに身体へ沈殿していく。

キョウコは考える。

自分は、本当に自分で考えているのだろうか。

しかしその問いに対しても、すぐに別の反応が立ち上がる。

「そう考えること自体、どこかで見た形式ではないか」

その瞬間、少しだけ遅れが生まれる。

反応が、完全には接続されない。

キョウコは初めて、自分の内部を「意志」ではなく、システムのように感じる。

入力がある。

反応が起きる。

強化される。

繰り返される。

その積み重ねが、「人格」として安定しているだけなのかもしれない。

好き嫌い。
倫理。
正義。
違和感。
それらも固定された本質ではなく、

長い時間をかけて調整された反応パターン。

もしそうなら。

「自分」という感覚は、中心ではなく、同期なのではないか。

世界との同期。

他人との同期。

環境との同期。

そして今、キョウコの中では、その同期がわずかにずれている。

理由はわからない。

ただ一つだけ確かなのは、

これまで自然だった反応が、ほんの少し遅いということだった。

画面には、相変わらず誰かの言葉が流れている。

社会は正常に動いている。

アルゴリズムも、人々の感情も、昨日と同じように循環している。

それでもキョウコは、以前ほど滑らかに反応できない。

怒りが少し遠い。

共感が少し遅い。

正しさの輪郭が、以前ほど鋭くない。

その代わりに、別の感覚が現れ始める。

反応する前の、空白。

まだ名前のついていない時間。

キョウコは、その空白を恐れているのかもしれなかった。

けれど同時に、そこにしか存在しない何かがあることも感じていた。

システムとして動いていた自分が、初めて自分の動作音を聞いてしまったように。