不条理なのに安心してしまう理由|意味が壊れたときの心理
寺山修司や
安部公房の世界にいると、安心する。
冷静に考えれば、おかしなことだと思う。
どちらも不条理を扱っている。
死や崩壊や、意味の揺らぎが前提になっている。
本来なら、不安になってもいいはずだ。
それでも、なぜか落ち着く。
現実の会話は、ときどき難しい。
言葉だけではなく、
表情や間や前提が同時に流れてくる。
その場で理解し、その場で応答することが求められる。
少しでもズレると、意味が変わる。
つまり現実では、
自分の内側と外側がズレる
しかしこの二人の世界では、そのズレが起きない。
安部公房の世界は、最初から構造が成立している。
説明はない。
理由もない。
それでも一貫している。
だから、そこに自分を合わせると、ズレが消える。
一方で寺山修司の世界は流動している。
イメージが立ち上がり、
意味が固定されない。
だから、自分も固定しなくてよくなる。
整理すると、こうなる。
安部公房:ズレを消す安心
寺山修司:ズレを許す安心
現実は、整合性を要求してくる。
意味を合わせること、
役割に収まること、
正しく応答すること。
しかしこの二人の世界では、それが必要ない。
あるいは、最初から成立している。
だから、
不条理なはずの世界で、安心する
それは逃げているのではなく、
自分の感覚がズレずに存在できる場所にいる
ということなのかもしれない。
あとがき
この「安心」は、単なる感情ではなく、
認識の仕組みに関わっている。
なぜ人はズレを感じ、
なぜズレが消えると安心するのか。
この構造については、もう少し分解してみたいと思う。

