悲しみは愛によって祭りとなる
大したもん蛇まつり
「大蛇が来たぞー!!」
大きなかけ声ともに、パトカーの先導で大蛇がやってきた。蛇の長さは82.8m重さ2t、竹と藁で作られた世界一長い蛇は、2001年(平成13年)にギネス認定されました。
噂にも聞いていた大蛇がうねる様子は、生で見ると想像以上に迫力があります。そして、「大蛇が来たぞー!」という掛け声に少しの違和感。なぜなら関川村にとって「大蛇」とは「水害」の象徴にような存在だからです。
実際にお祭りを見て、歴史を紐解いていくと、違和感が大きな納得へと変わります。とにかく素晴らしい祭りでした。


大蛇が道路を渡る
今回運良く、迫力ある大蛇を間近で見れました。祭りのメイン会場である大蛇の頭から尾まで、通過にかかる時間は1分47秒。

大蛇伝説は、いつ生まれたか?
大したもん蛇まつりは、1988年(昭和六十三年)比較的近代に作られた地域の連帯感を強めるためのお祭りです。
しかし、その大蛇伝説の時代は古く、東海道中膝栗毛で有名な十返舎一九が、大蛇伝説を元に「大里峠」を書いたと伝わっています。
『越後国関鎮守座頭之宮由来』
<小国町史より>
1808年(文化五年)、江戸の十返舎一九が大里峠を越えて下関村に入ったと記載あり。
(資料:にいがた地名考 〜歴史と由来〜 長谷川 勲 著)
下の地図を見ていただければ分かるとおり、新潟県の関川村と山形県の小国町は峠をはさんだお隣さんです。
安土桃山時代、太閤検地に基づき1597年(慶長二年)に描かれた「瀬波郡絵図」(山形県 米沢市立博物館所蔵)には、ぢやばミ村(蛇喰村)、おゝりかとうけ(大里峠)との記載もあります。

大蛇伝説はどの時代に生まれた物語か? 時期を特定する資料はありません。新潟県伝説集成 下越篇によると、物語は「おりの大蛇」と「座頭宮」の2つに分かれており、座頭宮の話は“女房おりの”が大蛇になってから何十年か後の話になります。
「座頭」という呼び名は、室町時代の盲人の琵琶法師の官名。江戸時代では僧体の盲人で、琵琶・三味線などを弾いたり、語り物を語ったり、あんま・はりなどを業とした者の総称とあります。(goo辞書)
また物語に登場する座頭は「検校」という地位にあります。検校は室町時代以降、盲官(盲人の役職)の最高位の名称と定着したとあります。(weblio辞書)
新潟県伝説集成の大蛇伝説は、室町〜江戸時代のお話でしょうか。
「座頭」と「検校」では役職や身分が違うようで、江戸時代を舞台にした「座頭市」のイメージとは違い、大蛇伝説の「座頭」は権力もあったのかもしれません。
おりの大蛇
昔、蛇喰に忠蔵という炭焼きがいた。ある日、阿古屋谷で雑木を伐採しているとき大蛇に遭遇したので、斧で退治し切り刻んで家に持ち帰り、納屋で味噌漬けにしておいた。
翌日、忠蔵が山に出かけたあと、女房の“おりの”が味噌漬けを見つけ、一切れ焼いて食べてみたらとても美味かったので、もう一切れ、もう一切れと食べるうちにみんな食べてしまった。
すると猛烈に喉が渇いて、家の水瓶の水だけでは足らず、裏の女川の水も飲み始めた。すると川面にうつった姿は大きな蛇体に変わっていた。
大蛇となった“おりの”は川上へ泳いでゆき山奥へ住みついたので、この山は「大里峠」と呼ばれるようになった。
座頭宮
蛇喰の“おりの”が大蛇になってから何十年か後のこと。
蔵の市という座頭が、都で検校という位をもらい、帰りに大里峠にさしかかった。
蔵の市は、疲れたので道端で休憩し、琵琶を弾きはじめた。するとどこからか現れた女が琵琶に聞きほれていたが、一曲終わると側に寄ってきて話し始めた。
自分が山の大蛇であること、人間だった頃の夫と娘が村人に捕えられ亡くなったこと、その復讐のため川をせきとめ一帯を大きな湖にするつもりだと。
しかし人間がそれを知って鉄の杭を打ち込むと、どうにもならないので誰にも言わないように。他の人に話すとあなたの命はありませんよ、と蔵の市に告げて去っていった。
蔵の市は急いで峠を下り、大庄屋に伝えた。大庄屋は村人を集め鉄の杭を大里峠一帯に打ち込んだ。すると大蛇は怒り七日七夜大雨を降らせ、蔵の市は呪いにより亡くなってしまい、大蛇も死んでしまった。
村人は命を犠牲にして村の災難を救った蔵の市に感謝し、神社を建てて祀った。これが大蔵神社で、またの名を「座頭宮《ざとうぐう》」という。
※「おりの大蛇」「座頭宮」 新潟県伝説集成 下越篇より抜粋・要約
大蔵神社と日本神話




<御祭神>
須佐之男命(スサノオノミコト)
大国主命(オオクニヌシノミコト)/大己貴命(オオナムチノミコト)
櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)
<秘宝>
琵琶法師 蔵の市が所持していたという琵琶が秘宝として保管されている。開封が禁じられており、見ると目がつぶれると記載された資料もありますが、『図解 にいがた歴史散歩 村上・岩船』には琵琶の写真が掲載されていました。
<欅の木>
蔵の市の杖が大きな欅となったと伝えられています。



大蔵神社入口の由来が書かれた看板には、大同年間(806〜809年)以前の創設であり、「この地域に初めて稲作が導入された頃、移住民により奉祀されたと伝えられている」と書かれています。 えっ 稲作!?!?
大蔵神社は、蔵の市が祀られるより、はるか以前から信仰されていた神社のようですが。
この地域に稲作が導入された時期はわかりません。一般的には日本に稲作が入ってきたのは弥生時代とされていますが、最近では縄文時代から稲作が始まったとも言われています。
大蔵神社の御祭神、大国主命(オオクニヌシノミコト)は稲作や医療を教えてまわり、国づくりをしたとされる出雲の神様です。
関川村には縄文遺跡が何箇所も発見されているため、もともと人々が暮らしていた土地に稲作がもたらされ、移住民により大蔵神社の最初の形がつくられたとも考えられます。
ここで 「にこふね道中 村上市・胎内市編」で紹介した「越の八口」にも繋がってきます。まだ読まれていない方は、こちらから読んでいただくと、古代の妄想ストーリーが楽しめるかと思います。
『出雲国風土記』に「大穴持命(大国主)は越の八口を平定した」と記載があり、この八口が関川村八ツ口という説もあるのです。(諸説あります)

ここから先は想像力高めに、古代を舞台にした小説を読むような気持ちで、並行世界の歴史物語を楽しんでいただけると嬉しいです。関川村周辺にあった話かもしれないし、なかった話かもしれない。けれどブログの終わりには、きっと温かい気持ちになれるはず。そう思っていただけるように書いていきたいと思います。
もしや八岐大蛇!?!?
大蔵神社の御祭神である須佐之男命(スサノオノミコト)、櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)といえば、日本神話「古事記」「日本書紀」の 八岐大蛇に登場する神様です。
八岐大蛇は八つの首を持つ大蛇であり、大蛇はスサノオノミコトの十拳剣により切り刻まれ、尾からは草薙剣という鉄または銅と思われる剣が出てきます。
大蛇・切り刻まれる・鉄により倒される……。もしや関川村の大蛇伝説は、 八岐大蛇がベースになっているのか!?!?。
十返舎一九が書いた『大里峠』
十返舎一九が、著した「大里峠」『越後国関鎮守座頭之宮由来』では、現代伝わっている伝説とは異なる点が見てとれます。
【上の巻】八岐大蛇伝説のように、生贄として“おりの宮”という社に、年に一度少女を1人ささげる習わしがある。しかし村人は“おりの宮”の神主に、娘を捧げたくはないと訴える。
【中の巻】村の目代(代官)は村人を捧げる習わしをやめさせる。すると怪異が続いた後、目代の夢に女性(三千年生きている大蛇)が現れる。「もともと湖だった土地が畑となり村人が五穀を育て始めた。『毎年村人を1人捧げるので五穀を食べないくれ』と村人が請うので、数百年そのようにしてきたと警告する。しかし目代は警告を怖がらず「氏子の命をとる神は崇めない」と断り、“おりの宮”を粉々にし神主も追い出してしまう。
【下の巻】現代の伝説と違う点。“おりの”が神社の名称で、琵琶法師 座頭の名は“きぬ市”。
大蛇は琵琶の音色の御礼に“きぬ市”に警告します。「“おりの宮”を壊されたので山に住んでいるが、これから雨を降らし川を堰き止めて湖とし、自分の棲家とするので関川村には行かないほうがいい」と。
(以降、「座頭宮」とほぼ同じ内容)
十返舎一九の物語を読むと、とくに【中の巻】は、縄文の古代信仰から農耕・製鉄を行う時代へと、移り変わる歴史が描かれているような気がしてきます。
縄文土器の縄目は蛇を表し、その時代は地母神として女神を崇めていたといいます。蛇は古語では「カカ」や「ハハ」と呼ばれ「母」に繋がります。生命を産む母なる大地、そこに鉄の杭を打ち込み(製鉄文化が持ち込まれたか、鉄を使った封印か!?)大蛇は消えてゆくーー。
想像でしかありませんが、農耕をしていない縄文の集落に、農耕や製鉄をする民が移住してくる。食糧も豊富なため人口も増え、時代の主流が農耕へと移行していき、時とともに縄文文化は人の記憶からも薄れてゆく。
年に1度行われる大蛇への生贄は、本当に生贄であったかもしれませんし、蛇をトーテムとする土着の種族を「大蛇」とするなら、農耕を持ち込んだ種族との婚姻による、和平・和合の話であったかもしれません。
*****
「にこふね道中 村上市・胎内市編」
古四王神社 もまた、時代の変わり目の舞台であったと考えられます。
この地域に住んでいた土着の種族(蝦夷※か?縄文人か? 蝦夷も龍蛇信仰といわれている)は、第8代孝元天皇の皇子 大毘古命(オオヒコノミコト)により平定されています。
大毘古命(オオヒコノミコト)が祀られている古四王神社は、くねくねと蛇行する長い参道の先にあり、かつては別の信仰の場だったのではないか?と思わせるものがあります。
※蝦夷は全身に刺青をしていたようです。関川村の土偶にも刺青があったような……後日確かめたいと思います。大蛇伝説の蛇の味噌漬けを食べすぎるくだりは、秋田の十和田湖、八郎太郎伝説にも似ており、北方との交流もあったと思われます。

「山神」の石碑は山と人の世界との境界線や、山の神と遭遇した場所に建てられている。
〜遠野市博物館 Xより〜
鉱山と海洋民族
歴史旅ブログ「にこふね道中」の村上市・胎内市編・佐渡島編では、星と鉱山と湧水を追いがちです。すなわち、海洋民族の痕跡を追っていることになります。
「にこふね道中 村上市・胎内市編」でも書きましたが、関川村の「安角」という地名は、長野県安曇野同様、海人安曇族の名残ではないかという説があります。(諸説あります)

この地域に稲作をもたらしたのは、大国主命(オオクニヌシノミコト)を神とする出雲族かもしれませんし、海人安曇族だった可能性もあります。安曇族※もまた、稲作や養蚕を広めた龍神信仰の種族であり、鉱山技術に優れた人々でした。
沼金山と畑銅山に隣接するように安角地域があります。鉱山開発にやってきた人々が移り住んだのでしょうか。
※阿曇氏(安曇氏):
福岡市東区志賀島にある志賀海神社は、全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する。龍の都と称えられ、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。(Wikipediaより)
志賀島は漢󠄁委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)、純金製の王印(金印)が出土した島でもあり、「君が代」は志賀海神社で、「山誉め祭り」という神事の神楽歌として伝わっている。

縄文土器などが出土しているそう。
まだ知られていない
鉱山跡もたくさんあるようです。
沼金山と女王
佐渡金山の世界文化遺産登録にばかり気をとられていましたが、関川村にも金山があったんですね。村上市高根の鳴海金山の存在も知りませんでした。調べてわかることばかりです。
関川村は日本海側と内陸とを結ぶ交通の要衝にあたり、先史時代(旧石器時代)から荒川沿いに道ができ発達してきました。
沼川流域の「沼」は、旧米沢街道沿いにあります。『図解 にいがた歴史散歩 村上・岩船』によると「沼」は「奴奈」の転化で、奴奈は玉を意味し、飯豊山山系の玉石は古代人の注目の的であったそうです。
沼川は奴奈川だったということでしょうか? 古代史好きなら、おぉっ!と反応してしまう名称です。
糸魚川の奴奈川姫が思い浮かびます。奴奈川姫は翡翠を用いて祭祀を行う高志国の女王であり、出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)と結婚しています。
十返舎一九版の「大里峠」に、女性:3,000年生きている大蛇が登場しますが、関川村にも長く地域を治めていた女王(祭祀王)がいたのかも?と想像してしまいます。
“おりの”が、機織りの織りなら、古代の巫女であったかもしれませんし、“おりの”の夫、炭焼きの忠蔵は鋳造かもしれず……。十返舎一九版にいたっては座頭の名は“きぬ市”なので養蚕!?。なにやら暗号めいてきましたが、空想はこの辺にしておきます。
*****
沼川に話を戻しますと、平安時代には沼川の本流・支流より砂金が採取され、平家一門の重要な財源となっていました。
その後、村上城主 堀丹後守が沼金山の開発経営をし、寛永年間(1624-43年)には最高2,950人もの人夫がいたと記録されています。
堀丹後守死去のあとは廃山となっています。
探し物、見つからず
海洋民族の痕跡を追い、星の降る池〜岩船神社〜荒川沿いを上流へと向かう旅でしたが、船で世界を渡り歩いたラピュタ人の痕跡もペトログリフも見つかりませんでした。フリーランス業の隙間時間にササーッと出かける一人旅。熊出没情報にビビリ、山に分け入ったわけではないので仕方ないですね。

嶽薬師いや、朴坂山??
見つかるのは空想の欠片ばかりです。
蛇喰の隣の集落名が、南中で、ナーガ(頭が複数あるインドの蛇神)みたいだなと空想したり、大蔵神社の向拝正面の彫刻が鳳凰であったため、出雲系の神社なのに龍じゃないことに驚いたり。
空想を巡らせる旅は、現実の中で小説を読む感覚です。

フェニックス(鳳凰)とは関わりがあるというが・・・
関川村には湧水もたくさんあります。湧き水だけでも旅ができそうです。これはまた次回ですね!今回は安角集落の隣、鮖谷集落の湧き水を飲ませていただきました。甘くて飲みやすい水でした。
やはり、湧き水のあるところ神社あり!です。
神社のある場所に湧水が湧いたのか? 湧水の出る場所が神聖な場所として祀られていったのか? 答えの出ない旅になりそうです。


すぐ左が湧水(写真撮り忘れる)
再び 大したもん蛇まつり
大したもん蛇まつりは、2024年 地域文化の発展に貢献した個人や団体に送られる「サントリー地域文化賞」を受賞。
内閣府 国土交通省が2024年に創設した、「NIPPON防災資産」にも優良認定されました。
昭和42年(1967年)8月28日、多くの犠牲者を出した羽越大水害の記憶を後世にも残すため、大蛇の長さは82.8mとなりました。まつりへの参加を通じて、過去の水害と今後の備えの意識が地域に深く浸透している素晴らしいまつりです。

大したもん蛇まつりは、まず蛇喰集落の「おりのの碑」で安全祈願をするところから始まります。
大したもん蛇まつり 新潟県公式動画
ダイナミック〜!!!

とぐろを巻く大蛇
日本昔ばなしのような演奏が流れ
なぜかウルっときました。
大蛇に近づいて見ると、胴体の全てに文字(集落名)が書かれているのがわかります。関川村54集落が分担して胴体をつくり、大蛇は頭部と54個の胴体がつなぎあわされてできています。
全ての集落が参加することで、まつりが“自分ごと”になる素晴らしいアイデアであると同時に、バラバラになった伝説の大蛇も表現されているように思えます。
つなぎ合わされた大蛇の姿、親しみを込めた「大蛇が来たぞー」という掛け声、まつりに参加する人々の活気ある姿から、災害や歴史の悲しみを乗り越え、自然と共存していく逞しい愛が感じられました。
まつりっていいね!

*****
大蔵神社の御祭神である、須佐之男命、櫛稲田姫命が登場する八岐大蛇伝説もまた、治水に関わる物語ではないかと言われています。
製鉄が盛んになった頃、木が大量に伐採されたため、洪水が頻繁に起こり、その様子が八岐大蛇として物語となったという説もあります。
八岐大蛇の姿は、一つの胴体に八つの頭と八つの尾をもち、目はホオズキのように赤く、背中にはヒノキやスギが生え、八つの谷と八つの丘にまたがるほど巨大で、腹には血がにんじでいるといいます。
オロチは本流・支流のある暴れ川であり、砂鉄の鉄分を含んだ川は錆びて赤く血のように見えたのかもしれません。
その暴れ川を退治し治めたのが須佐之男命ということになります。須佐之男命は、息子や娘に命じて全国に木を植えさせた神様と伝わっています。

爽やかな風が吹いた
■おまけの巻 カフェ・食事
【東桂苑カフェ】
新潟県関川村上関(道の駅 関川に隣接)
9:00~16:00(12月~3月は休館)
お食事&スイーツ


大正ガラスにも趣がある

【古民家カフェ 元糀屋】
新潟県岩船郡関川村朴坂188-2
10:00 - 18:00
定休日:水・木(12月~3月は冬季休業)
お食事&スイーツ


■おまけの巻 岩船大祭と岩船神社
2024年10月19日、岩船大祭本祭は横なぐりの雨でした。山車やお舟様の写真はこちら→☆をご覧ください。


開いていません

2体の龍と亀の彫刻

お宅が多かった
■おまけの巻 本当の歴史とは?

関川村蛇喰「おりのの碑」裏には、「村に伝わる伝説」「十返舎一九の残した伝説」「八岐大蛇伝説」、そのどれとも違う文が刻まれています。
『蛇喰という地名は、地すべりや崩れ落ちた地形の場所につけられ、その元凶は大蛇の仕業と考えられていた。たび重なる飢饉で存亡の危機にある一家を救うため苦界に身を沈めた女性おりのがこの地の出身であることから、蛇漬を食べつくし大量の水を飲み自らも大蛇になった、という伝説が生まれた。』
また、小国町史に記載のあった十返舎一九ですが、新潟県新発田市を訪れた記録は残っていますが、関川村まで足を伸ばしたという記録は、新潟県側には残っていません。
どの話が本物の大蛇伝説なのか?
どの話が本物か? わたしには分かりません。正しさよりも伝わる本質のほうが大切なように思います。大蛇伝説は災害伝承であり、自然の大切さも怖さも伝えてくれています。
大したもん蛇まつりは、災害を未来へ語り継ぎながら、大蛇を悪者にもしていません。歴史観を丸っと包み込み、皆んなで「まつり」を楽しんでいます。正しさをぶつけ合うより、ずっとずっと平和です。
歴史や伝承は、「丸っと包み込んでそのまま感じとる」そのように向き合っていきたいと思いました。
*****
現代に残っている歴史は、勝者の歴史だと耳にします。様々な事情で書き換えられ上書きされたものを、現代の私たちは「歴史」と思って学んでいます。「歴史」の背後には、たくさんの敗者の物語や想い、祈りの場の本質があるように感じて旅をしています。
次回は新潟県見附市の草薙龍伝説の予定です。
(寄り道するかも……たぶん寄り道する)
今回も、拙いブログを読んでいただきまして、ありがとうございます。


