味の素ABF、フォトレジスト、ヘリウム ─ AI半導体を止める3つの脆弱性
中東の海峡が止まると、AIが止まる ― 一枚のフィルムから始まる連鎖
味の素という会社が、世界の半導体産業の急所を握っている。そう聞いて、すぐにイメージできる人は多くない。だが、NVIDIAの最先端AIチップも、Intelのサーバー向けCPUも、皆さんが使っているパソコンも、味の素ファインテクノが作る一枚のフィルムなしには成り立たない。
そしていま、そのフィルムが「作れなくなるかもしれない」という話が、業界の片隅で囁かれている。原因をたどっていくと、はるか遠くの中東、ホルムズ海峡という細い水路にたどり着く。一見つながりのない事柄を、一本の細い線が結んでいる ── そういう話である。
うま味調味料の会社が作る、半導体の心臓
ABFという素材がある。Ajinomoto Build-up Filmの頭文字を取った名前で、味の素のグループ会社が世界シェア98%を独占している。半導体のチップを基板に載せるとき、その間に挟む薄い絶縁フィルムだ。
なぜ味の素なのか。話は1970年代、グルタミン酸ナトリウムを作る過程で生まれる副産物の研究にさかのぼる。アミノ酸由来の樹脂が電子材料に応用できるとわかり、研究を重ねた結果、半導体業界の標準素材になった。食品会社の副産物研究が、いまやAIブームの一角を支えているという、奇妙な巡り合わせである。
特に最先端のAI半導体では、このフィルムが大量に使われる。一般のパソコン用CPUが6層のABFを使うのに対し、NVIDIAなどのAIチップ向け基板は18層を必要とする。基板の表面積も3.5倍あるため、一個あたりの使用量は10倍近くに跳ね上がる。AIブームそのものが、ABF需要を爆発的に押し上げている。
そのABFを「作れなくなる」可能性がある、というのが本稿の出発点である。
原料の旅 ― フィルムは中東の油から始まる
ABFがどこから来るのかを遡ると、意外な場所にたどり着く。

中東の原油 → 蒸留して取れるナフサ → そこから抽出されるベンゼン(芳香族化合物) → フェノール → ビスフェノールA → エポキシ樹脂 → ABF。化学の階段を一段ずつ降りていくと、最後にあのフィルムができる。
ここで重要なのは、芳香族化合物 ── ベンゼンや関連物質 ── は、原油の種類によって取れる量が違うということだ。中東のアラビアン・ライトのような原油には芳香族が豊富に含まれている。一方、近年アメリカで増産されているシェールオイルは、化学的にライトでパラフィン(直鎖の炭化水素)が多く、芳香族が乏しい。同じ「原油」と呼ばれていても、化学的にはかなり違う素材なのである。
日本の石油化学産業は、戦後一貫して中東原油を前提に組み上げられてきた。ナフサクラッカーも、改質装置も、その下流のベンゼンプラントも、すべて「中東原油の組成」を念頭に最適化されている。日本が輸入する原油の約95%が中東産で、その大半がホルムズ海峡という細い水路を通って運ばれてくる。
そして2026年春、その水路に異常事態が起きた。
ホルムズの細い水路
ホルムズ海峡は、ペルシャ湾とアラビア海をつなぐ、最も狭いところで約34kmの水路である。世界の海上原油輸送のおよそ2割、日本にとっては輸入原油の9割以上がこの水路を通る。地球上で、これほど少数の国の経済を一点で握っている地理的特異点は他にない。
2026年に入って、中東情勢の緊張からこの海峡の通航が事実上制約される状態が続いている。日本の3月貿易統計を見ると、中東からのナフサ輸入は前年同期比で4割減、エチレンプラントの稼働率も落ち込んでいる。原油そのものは備蓄(254日分)で当面しのげるが、ナフサ由来の化学品は備蓄の対象外で、輸入が減れば即座に効いてくる。
「ではアメリカのシェールを買えばいい」という声があるが、ここで先ほどの化学的事実が効いてくる。シェールオイルでは芳香族が十分に取れない。日本の製油所をシェール向けに改造するには年単位の時間とコストがかかり、それでも芳香族収率は中東原油には及ばない。「原油は確保できても、芳香族が減る」という、量ではなく質のボトルネックが生じる。
「中国にいくらでもある」という錯覚
ABFの中間原料であるビスフェノールAは、実は世界的に供給過剰の状態にある。中国が2020年代に入って大規模増設を続け、汎用品の値段は下がり続けている。日本の三菱ケミカルは2024年に北九州の生産設備を停止したが、これは需要不足ではなく、中国製品との価格競争に敗れたためだ。
ではABFの原料は中国から買えばよいのか、というと話はそう単純ではない。
半導体用のビスフェノールAは「電子グレード」と呼ばれ、汎用品とは別の市場である。純度は汎用品の99.5%に対して99.95%以上、不純物のナトリウムや塩素は汎用品のppm(百万分の一)に対してppb(十億分の一)単位 ── つまり1000倍厳しい純度管理が求められる。理由は単純で、半導体のチップに微量の金属イオンが入り込むと、配線間で電気が流れて壊れてしまうからだ。AIチップのように回路が5ナノメートル以下になると、不純物が1個入っただけで歩留まりが下がる。
電子グレードのビスフェノールAを作っている会社は、世界でも数えるほどしかない。日本の本州化学工業、日鉄ケミカル&マテリアル、台湾の長春石油化学、韓国の国都化学。これらの会社が寡占している市場で、いずれも原料のベンゼンは中東原油由来のナフサに依存している。中国の汎用品がいくら過剰でも、ABF向けには使えない。
アジアは同じ船に乗っている
「日本が足りなくなったら、韓国か台湾から融通してもらえないのか」── そう思うのは自然だが、現実はそう優しくない。
韓国の原油輸入も7割が中東依存である。台湾は日本並み。台湾の長春石油化学が作る電子グレードのビスフェノールAも、原料はホルムズ経由の原油から来ている。韓国のSK、LG化学、GSの石油化学プラントも、中東原油向けに最適化されている。中国だけが、ロシアからのパイプライン経由(ESPOパイプライン)で多少の独自調達ルートを持っているが、それでも半分は中東経由だ。
つまり、ホルムズ海峡が止まると、東アジア全体が同時に窮地に陥る構造になっている。日本だけが困るのではなく、隣の国も同じように困る。「アジア域内で融通し合えばいい」という発想は、平時の流通構造を念頭に置いた楽観論で、ホルムズ封鎖シナリオでは成立しない。
救いがあるとすれば、ABFのような電子材料は単価が桁違いに高いということだ。汎用ポリスチレンが1キロ200円なら、電子グレードの中間体は1キロ数千円から数万円する。芳香族が足りなくなれば、まず汎用品の生産が止まり、電子材料用の高単価品は最後まで価格で確保される ── という構造にはなっている。ただしそれは、汎用化学品産業を犠牲にしての「電子材料優先確保」であって、日本の化学産業全体としては大打撃を受けることに変わりはない。
実はABFは氷山の一角だった
ここまでABFの話をしてきたが、半導体材料のサプライチェーンを調べていくと、ABFは数ある脆弱な素材のうちの一つにすぎないことがわかってくる。
もっと深刻かもしれないのが、フォトレジストである。
フォトレジストは、半導体の微細回路を描くための感光性の液体だ。光を当てた部分の溶解性が変わる性質を利用して、回路パターンを刻み込む。世界シェアの90%以上を日本企業 ── 信越化学、JSR、東京応化、住友化学、富士フイルム ── が握っている。半導体産業の毎日の消費材で、ABFのように「貯めておける」素材ではなく、絶え間なく流れていなければ製造ラインが止まる。
そのフォトレジストの構成成分も、ほぼすべてがナフサ由来の特殊化学品である。ベースになる樹脂、溶剤、添加剤、そして光に反応して酸を発生させる「光酸発生剤(PAG)」── どれも芳香族化合物やフッ素化合物の精密合成によって作られている。一つでも欠ければ製造できない、極めて脆弱な構造だ。
三つの独立した危機が、一点に集まっている
フォトレジストが特に深刻なのは、ホルムズ封鎖以外にも、独立した二つの危機が同時進行しているからだ。
一つは、アメリカの3M社が2025年末に「PFAS」と呼ばれるフッ素化合物の事業から完全撤退したことだ。PFASは環境中で分解されない「永遠の化学物質」と呼ばれ、健康被害と訴訟リスクから、3Mは2022年に撤退を発表していた。問題は、3Mがフォトレジストの心臓部である光酸発生剤の原料となる特殊フッ素化合物の主要サプライヤーでもあったことだ。撤退は予告されていたので業界には準備期間があったが、代替サプライヤー(ベルギーのソルベイ、日本のAGCやダイキン工業)への切り替えは認定プロセスを含めて時間がかかる。
もう一つは、欧州化学品庁(ECHA)が進めているPFAS全面規制案である。これは2023年に提案され、欧州内でPFASの使用を原則禁止する内容だ。半導体産業は「代替技術がない」として適用除外を求めているが、規制発効時期と除外範囲は2026〜2027年に判断局面を迎える。
つまりフォトレジストには、ホルムズ封鎖(地政学)、3M撤退(企業判断)、ECHA規制(環境政策)という、起点も性質もまったく異なる三つの危機が、同時並行で進行している。そしてその三つすべてが、フォトレジストという一点に収束する。
では「PFASを使わない代替フォトレジスト」を開発すればよいのではないか、と思うかもしれない。研究は世界中で進んでいる。だが、化学増幅型レジストという現在の方式は、フッ素化合物の極端な酸の強さ ── 通常の酸の1兆倍 ── を前提に設計されていて、簡単に置き換えがきかない。実用化には開発・配合・認定で合計5〜10年規模の時間が必要で、業界の国際ロードマップでも本格量産投入は2030年代以降とされている。今のフォトレジストの99%超は、依然としてフッ素化合物に依存している。
そして、もっと根源的なもの ― ヘリウム
フィルム、レジスト、と素材の話を重ねてきたが、最後にもう一つ、見落とせない脆弱性がある。それは半導体製造装置を動かすためのヘリウムガスだ。
ヘリウムは風船を膨らませるあのガスである。だが半導体製造では、エッチング装置 ── プラズマで回路を削り込む装置 ── でウエハーを冷却するために使われる。プラズマからの熱でウエハーが熱せられる一方、表面温度を0.2度刻みで管理しなければならない。そのためにウエハーの裏面に薄くヘリウムを流し込み、熱を逃がす。
なぜヘリウムでなければならないかというと、熱伝導率が窒素の6倍、アルゴンの8〜9倍と桁違いに高く、しかも化学的に不活性で、低分子量で微小な隙間に入り込めるからだ。これらの性質をすべて兼ね備えたガスは、地球上にヘリウム以外存在しない。
そしてヘリウムは、主にアメリカ、カタール、アルジェリア、ロシアといった限られた国から産出される。天然ガス田から副産物として取り出されるもので、需要が増えても簡単には増産できない。供給が滞れば、最先端の3ナノメートル・2ナノメートルロジック、3D NAND型フラッシュメモリ、DRAM、CMOSイメージセンサー、HBM(AI用高帯域メモリ)など、最も付加価値の高い半導体の製造工程が即座に成立しなくなる。フォトレジストやABFのように「数ヶ月かけて影響が出る」のではなく、その日のうちに止まる。
もしすべてが同時に起きたら
ABFが減産する。フォトレジストが供給制限になる。ヘリウムが届かない。これらが同時に起きると何が起きるか。
まずAI半導体の生産が止まる。NVIDIAやAMDのGPUは、ABF基板を必要とし、フォトレジストで描かれ、ヘリウムで冷却されたエッチング工程を通る。三つの素材すべてに最も依存しているのが、現在最も需要が伸びているAIチップだ。生産が止まれば、Microsoft、Meta、Google、Amazonといったハイパースケーラーのデータセンター投資計画は遅延し、生成AIサービスの成長そのものが鈍化する。
次に、サーバーCPU、PC向けCPU、HBMメモリ、スマートフォン向けの高性能チップが影響を受ける。レガシー半導体 ── 車載用や家電用の枯れたチップ ── は影響が小さいが、最先端品に近づくほど影響は深くなる。
2020年から2022年にかけて、世界は半導体不足を経験した。コロナ禍と台湾の水不足と米中対立が重なり、自動車生産は数千万台減り、家電製品の値段が上がった。今懸念されているシナリオは、それを上回る規模になりうる。素材ごとに別々のショックではなく、上流の中東原油という共通の根っこから派生した、連鎖的なショックだからだ。
ロシアの油という、見えにくい選択肢
地理的・化学的に最も合理的な代替供給源は、実はロシア原油である。ウラル原油やESPO原油は芳香族収率が高く、電子グレード品質に適合する。しかもロシアの極東サハリンや東シベリアからは、ESPOパイプライン経由でコズミノ港まで運ばれ、太平洋を3〜4日で日本に届く。ホルムズ海峡を一切通らない。
だが2022年のウクライナ侵攻以降、G7のプライスキャップ制度により、日本は実質的にロシア原油の直接輸入を停止している。例外はサハリン2案件(三井物産・三菱商事が権益を持つ)のみで、これも限定的だ。
興味深いのは、ロシア原油由来の製品が、別ルートで日本に届いている可能性があることだ。インドはロシア原油を割安で大量購入し、ジャムナガル製油所などで精製して、ナフサや芳香族製品を世界に輸出している。これらが日本に間接的に流れ込んでいる。原油の段階では「ロシア産」と認識されないが、製品段階では入っている ── 表立っては誰も語らないが、業界では知られた構図である。
ホルムズ封鎖が長期化すれば、サハリン2の拡大やプライスキャップの実質緩和といった、政治的な落としどころが現実味を帯びる。1973年の第一次オイルショックの際、日本はアラブ寄りに外交方針を転換した前例がある。エネルギー安全保障は、最終的に政治的選択を強いる。
見えなかったものが、見えてくる
普段、私たちはスマートフォンの中身を考えない。AIに質問するとき、その裏側でNVIDIAのチップが計算していることを意識しない。そのチップを基板に固定する一枚のフィルムが、味の素という食品会社の関連会社で作られていて、その原料が中東の油田から細い海峡を通って運ばれてくる ── そんなことは、考えないですむなら考えないほうが楽である。
だが、その「考えなくてすむ仕組み」全体が、実は驚くほど少数の場所、少数の会社、少数の物質に依存している。日本のABFは味の素ファインテクノの群馬工場でほぼ全量が作られる。電子グレードのビスフェノールAを作れるのは世界で数社。フォトレジストの90%は日本企業。ヘリウムを安定供給できる国は数えるほど。中東原油の輸送はホルムズ海峡が要。
どこか一点が止まると、連鎖的に他が止まる。そういう構造が、現代の半導体産業の足元には広がっている。
これは「日本が悪い」という話でも、「中東が悪い」という話でもない。20世紀の後半から、世界は分業と効率化を進めてきた。一つの素材を一つの会社が世界中に供給するほうが、コストは安い。だがそのぶん、その一点が止まったときの影響は大きくなる。私たちが享受している「安くて高品質な半導体」という現代の前提は、こうした集中の上に成り立っている。
ホルムズ海峡が早期に解消されれば、多くのシナリオは杞憂に終わる。だが3M撤退とECHA規制は、ホルムズと無関係に進行する独立した変動要因で、向こう5〜10年にわたって半導体素材の供給構造を揺さぶり続ける。仮にホルムズが解消しても、構造的な脆弱性そのものは消えない。
味の素のフィルムから始まった話は、思いがけず遠くまで来た。だがこの「思いがけない遠さ」こそが、現代産業の本当の姿である。一枚のフィルムを作るために、地球の半周分のサプライチェーンが動いている。そしてその経路のどこか一点が詰まると、最先端のAIが止まる。
見えなかったものが、ホルムズという細い水路によって、いま少しずつ見えはじめている。
本稿は2026年5月時点で確認できた公開情報・業界分析・各社IR資料をもとに構成した。具体的な数値や時期予測には不確実性が含まれ、ホルムズ海峡情勢の継続期間、各社の在庫水準、代替サプライヤーの実供給能力など、外部からは見えない要素も多い。本稿は産業構造を理解するための情報整理であり、特定企業の投資判断や政策を主張するものではない。
