『インコンプリート』 全文公開
あらすじ
妹を介護しながら高校へ行かずボクシングジム通いをしているトワ。ある日ジムが倒産、ふと思い立ってひと探しを始める。
はじめに乗り込んだのは闇バイト。テレビに出演している気象予報士そっくりの運転手から手かがりを得る。今度はSNSのスパムDM求人に電話をかけ、ボーイの派遣事務所に潜入、元お笑い芸人のキヨマに雇われてホテルへサービススタッフとして働く。
強運とまっすぐな行動力だけで誘拐未遂を阻止するトワ。なぜか自分も追われる身となり、助け舟に乗ったと思えば拉致されてしまい——。
順々につながるヒントから探し人チャッキーにたどりつくまでの、トワが妹に助けられながら新しい答えを探しに行く話。
インコンプリート
古本屋で文庫本を買った時、焼けて変色した天を薄く切り落とすついでになくなってしまった茶色い栞の臍の緒に、今まで何度出会っただろうか。ついでに切れた栞の先が、恐竜のデスポーズで見られる背骨みたいにページの中で反りながら発掘された時にはもう古本を買えなくなる。いや、そこまでではないか。ちょっと小遣いが増えたら懲りずにまた何かを買い求めにくるだろう。それで店内の陳列棚の本からAmazon.comでは手に入らなくなった絶版書籍リストと同じ本を探し出すゲームの続きをする。
今日の僕はやや傷心だった。彼女が欲しくて彼女を作った、その彼女に、彼氏が欲しくて彼氏を作ったけれど、あなたぜんぜんだめね、セックス込みの総合評価の余地もなくサヨナラって言われた時くらい落ち込んでいる。これはもちろん、僕自身のことではなく、一般論的に。ちなみに「あなたぜんぜんだめね」は日に十回は聞いている気がするから、すっかり耐性が骨の髄まで染み込んでしまっていて、実際に落ち込んでみせるというところまではできない。むしろ「だめね」が「可愛い」に聞こえるまでになってるかも。いつも端末越しに話しかけてくる声を反芻しながら、信号待ちの靴のつま先をとんとんとやる。
それで、傷心の僕は朝の十時からブックオフプラス西五反田店にいる。ここは結構お気に入りの場所で、前に丸谷才一の『輝く日の宮』を見つけたとてもいい思い出の場所だ。単行本はカバーの角に僅かな破れ目があったがぜんたいに綺麗な状態だった。しかもスリップが挿さったまま。おそらく別の書店から下取りした新古品だろう。
その時ばかりはリストを照合する必要はなかった。会計を済ませてそそくさと店の外に出ると、すぐにスマホでLINE通話を始める。
「僕の大願は叶った、もう終わっていい」
開口一番に端末に声を吹き込むと、逆光で暗い画面の中にいた少女が思いきりしかめ面をした。
「トワ、音が割れる、もっと小さい声で話して」
「見て、丸谷才一だ」
インカメラを覆うように獲得したばかりの単行本を見せつけると、対面の女の子は痺れを切らしてもおっと唸った。
「へたくそ、落ち着きなさいよ。いつも言ってるけどあなたもう高校生なの。少しは相手のことを考えて。ねえったら」
だって仕方がないじゃないか。その日の喜びは言葉に表せない格別さがあった。じっさい、『輝く日の宮』が過去いちばんの大捕物で、僕はあの美しい単行本を超える秘宝を未だ見出せていない。
そんな栄光の瞬間に浸って自分を慰めたくなるくらい、今はなにがあってもだめで手詰まりだった。自動ドアを開け店内に踏み込む。新入荷とおススメのポップが飾られた店頭の棚を上から下まで確認し、文庫、単行本、新書、海外文学のコーナーまで最効率ルートで辿った。普段なら鬱々とした心も晴れやかになるこの夢の小径も、今日ばかりはあまり力になってくれなさそうだった。
諦めて入った自動ドアを再び抜け出て、大崎広小路の交差点まで足を伸ばし、スターバックスコーヒーへ向かう。横断歩道を渡りきる手前でスーツ姿の男とぶつかった。ぶつかりに行った、が本当だけど、彼女に言ったらまた呆れるから、振り向きざまに貰った舌打ちのことも口にしないと心に誓う。
きれいに磨かれた自動ドアから入店する。先にスマホアプリでチャージの残高を確認しておく。二、三歩進み出て、カウンターでドリップコーヒーを注文した。マグカップでのご用意でもよろしいですか。紙のカップで、すみません。ランプ下の提供台で白いカップを受け取る。階段を一段飛ばしで二階へ上がり、窓際のカウンター席のそばにある丸テーブルの上にボディバッグを下ろした。
ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出して手のひらに置く。外気の湿度で肌に密着するTシャツを引っ張って軽く仰いだ。今日はまだ体温をあげる運動を行っていない。体質でほとんど発汗できないのは僕だけでなく妹にも遺伝していた。これで毎日ジムに行けていたら何も問題はなかったけれど。憂鬱が振り出しに戻り、深々とため息をつく。
デバイスと同期を終えたイヤホンを耳につけてから、ボディバッグの中からへんてこなぬいぐるみを取り出した。僕にはイモムシに見えているけれどこれを購入した彼女にとってはそうではないらしい。謎の生き物の胴にチャンピオンベルトみたいにかけられたスマートウォッチの画面をつつく。ショートカットボタンでLINEのビデオ通話を開始した。呼び出しの音が数秒続き、今はあまりタイミングが良くなかっただろうかと思った。
コーヒーカップの蓋を開ける。プラスチックの蓋の裏面には茶色い線がついていた。表面を覆う湯気と泡を払い除けてひとくち飲む。通話の停止ボタンを押そうとイモムシへ手を伸ばすと、チャンピオンベルトについている液晶画面がぱっと切り替わった。
「トワ、いま十一時。わたし、カテ中だけど」
「そうだった」
イヤホンを耳に押し込み直しながら、おはようと挨拶する。目元だけ僕にそっくりな電話の相手は、リクライニングベッドの操作リモコンで背もたれを起こした。インカメラに写る自分の顔を確認して左手で前髪を整えている。
「それであなたは、本当は学校の授業中だけど?」
「意地悪言うなよ、千世だって学校行ってないだろ」
セイレーンの顔が描かれたスリーブを持って僕がコーヒーを飲むと、彼女は左手で拳を作って画面に打ちつけるふりをした。腕が細くて動きも緩慢だが、小さなウェアラブルデバイスの画面から本当にそれが飛び出てきそうで、体が勝手に反応して軽くガードを作る。
「もう二度と」
彼女は歯茎を剥き出しにしながら屈辱に声を震わせた。
「そのゴミ箱にこびりついた灰色のセロテープみたいな名前を呼ばないで! 約束よ! わたしがあなたをお兄ちゃんって呼ばないのと同じで! わかった?」
怒鳴り散らされているのがイヤホンを突っ込んだ耳の中でよかった。隣のテーブルに腰かけたビジネスマンがマグカップのコーヒーをタブレットの上にこぼさなかったのは、僕が彼女の絶叫を一心に受け止めたおかげだ。
「わかってる、愛してるよ、エミュレット」
僕の妹は五歳になったくらいの時からエミュレットという名前になった。由来は本人しか知らない。今週はレスパイトで小児病棟にいたけれど、昨日から臀部の炎症が悪化して熱が下がらないのでICUに転棟している。
手足が四本生えているのが人間の通常だとしたら、妹はそのうち三本を生まれた時に返上している珍しいバージョンの体をしていた。一般にリリースされていない左手一本の希少な躯体は、電動車いすに乗って自由に移動する。他にも食事の補助や導尿、入浴の介助、疼痛による不眠の対応など、彼女の肉体には様々な補助活動を標準で行うよう作られている。いつもは僕と母親に時々自治体が派遣してくれるヘルパーさん、それから私大の現代福祉科の学生ボランティアさんで妹の生活は補完されていた。エミュレット曰く、生まれた時からこうなので、何かが圧倒的に欠けていると思うことはないのだそうだ。日常のすべてにおいて途方もなく手間と時間がかかることに関しては、「すごく不満。毎日Xに暴言を書き連ねているから最期に地獄へ行くことは決まってるの」と涼しい顔で言うだけだ。
病棟の個室で僕とビデオ通話をしているエミュレットは、朝からあたりまえに高校へ行かず、けれどアルバイトもジムにも勤しんでいない兄に今日もブックオフへ行ったのかと尋ねた。小さくうなずいて、不作だった、と首を振ると、それが普通なのだと窘められる。
「エミー、本当はこっちじゃなくて、池袋へ行く予定だったんだ」
「そうだったわね。今日は火曜日?」
そう、火曜日。家から直接そのボクシングジムへ行って、一日トレーニングをする日だった。母親には小学校六年間通い続けた体操教室よりも月謝が安いという理由だけで、気が済むまで通ってよし、と了承を得ている。社会人向けの肉体のシェイプアップを主とするコースで申し込むつもりだったけれど、見学の日にたまたまそこにいたコーチに声をかけられ、半年だけプロコースの受講生になることにした。
同じ時期に入所したメンバー数人はみな同世代で、暴力への期待と好奇心に満ち溢れており、今の時点でも自分には特別な才能があると信じて疑わない連中だった。僕はその中でいちばん強さへの執着がなくて、サンドバッグに触れない日も、ロードワークと縄跳びと筋トレで練習時間が終わってしまっても、特に不満を口にすることがなかった。入りたての素人が、自分で練習する忍耐もないくらいの時に、わざわざ誰かに指導を請えるとも思っていない。
体操教室に通っていた時の癖で、練習後はひとり残って柔軟をする。シャワー室で喋りながら順番待ちをするよりもずっと有意義で静かな時間だった。首筋に汗が伝う感覚。吐く息が熱い。目の奥がずきずきと痛む。本当は運動そのものもあまり向いていないけれど、凡庸にも僕は妹とはちがって手足が定数与えられた人間だから、それを滞りなく使っている。適度な負荷で、傷んだり再生して少し強くなったりする肉体で何かができるかもしれない。古本屋で掘り出し物を見つけたり、家族の世話をしたり、コーヒーを飲みながら五反田の景色を見る以外の、ささやかな、誰かのためになりそうなことが。
半年のプロコース受講期間満了を待たず、通っていたボクシングジムは突然なくなってしまった。下ろされたシャッターの上に白いA4のプリントが貼られているだけでほかに何もない。
関係者各位、当職は債務者より依頼を受けた代理人として、以下の通り通知します、云々。
運営会社の破産申立てのための債務整理と、ジム運営の打ち切りが弁護人により書面で通知されたものだった。少し前に正月の予備校で同じようなことが起こり、ニュース番組で延々と受験生の悲壮な映像が流されたことを思い出した。
朝、シャッターと小さな通知書を見ているのは僕だけだった。前日は病院へ行く予定でジムへ行くのを予め休みにしていたから、他の面々はきっと昨日のうちにこれを知っていたのだろう。べつに自分と同じように路頭に迷う仲間がほしかったわけではないけれど、ロッカーの中に入れたままにしていたアンダーアーマーのおろしたてのタオルが心残りで、しかしわざわざ取り返す労力をかけるほどでもない、という微妙なやるせなさを分かってくれそうなひとの顔を見てほっとしたかった。自分とはもっと別の事情で、このジムの突然の消滅に打ちのめされている人間は必ずいるだろう。じきにプロテストを受ける予定だったとか、ボクシングで生計を立てていきたかったとか、大成しなかったが力の続く限り自らの力を試したかった、とか。実績のある人間は大手のジムに入り直すことは容易だけれど、顔も名前も定かに思い出せない僕の同世代たちは、このままジムから投げ出され、アマチュアボクシングからもいなくなってしまいそうだ。甲乙丙またはひいふうみくらいで僕の中にある印象の彼らとは、きっとこの先何度街ですれ違っても、互いに気づくことはできない。
僕は思いきって妹に告白した。
「ジムがつぶれちゃった。僕、今日からきみと母さんの厄介者だ」
個室でカテーテル処置を受けている彼女は、小さな画面に映った自分のみばえをしきりに気にしながらすまし声で答える。
「もともと扶養家族なんだから、厄介ではないし寄生は当然よ」
「かといって、学校へ行く気にもならない」
「期待してないってば」
「バイト……増やすっていってもな」
「たぶんトワはお金を稼ぐ才能もないわよね。五年以内に自分を可愛がってくれる資産家を見つけて飼われる準備をしておいた方がいいかも、男女問わず」
「また突飛な、ラノベの読みすぎだよ」
「エクスクラメーションマーク恐怖症に言われたくない」
起き上がって蓋を外したままの紙カップに口をつける。店内の強力なエアコンに湯気がさらわれて、あっという間にぬるま湯コーヒーになっていた。長風呂して脱水に気づかず、上がると立ち眩みでふらふらになるコーヒー。名前にするとちょっと長いか。
「ねえエミー」
「なあに」
「自分の腕に名前ってつけたことある?」
片側のイヤホンをいじりながら尋ねる。そちら側にマイクがついていたのか、妹は微かに眉をひそめ、うまく聞き取れなかった、と目だけで返事した。
「やっぱりいいや」
「ああ、こっちの手に人形を可愛がるみたく名前があったかって話?」
「聞き取れてるじゃん」
「こういうの、よく時間差で理解できる時があるの、どうしてだろう、人間の脳っておもしろいのね。わたしがもし人間っていう分類で合っていればだけど」
「ややこしいな」
隣のテーブルにいたひとが席を立った。気づかない間にビジネスマンはロングヘアーの女性にすげ変わっていた。僕はここでどれくらいの時間、彼女と会話していた? ほんの十分ほどだと思っていたのに、顔を上げるとカウンターの景色もやや変わっている気がする。時間から切り離されてからだがひとりだけ置いていかれている感覚が生まれる。この場合、妹は僕と道連れなのか、それとも外の世界と同じ時間の経過の中を過ごしているのかが分からない。
エミュレットが画面の左上に視線をやる。看護師かヘルパーがきて対応しているのだろう。いつも彼女はそのやり取りの時に律儀にもマイクをミュートにした。自分を子ども扱いして話しかけてくる彼らの方が子どもっぽく見えてしまうのを、僕に筒抜けにさせてしまうのがかわいそうなんだって。その気持ち、なんとなく分かるような、分からないような。
画面の向こうから目線が戻ってきた。セイレーンのスリーブをカップの周りでフラフープみたいに回して遊んでいた僕にひらひらと手を振ってみせる。それで、と前置きすると、彼女はちょっと照れたみたいな笑みを溢した。妹は僕が言うのも変だけど、今までみた女性の中で群を抜く美人だ。大人になって母さんみたいになると思うと少しがっかりしてしまうくらい、今がいちばん綺麗なんじゃないかと思う。
「むかし、それぞれ名前はあったのよ。モーちんとかマコとか。いつごろどうやってその名前になったのかも覚えていないし、呼び続ける理由もなかったから、この子たちは手とか足に戻った。あなたがトワに戻ったのとおなじじゃない」
「へえ、僕、トワだったんだ」
「あ、そういう感じ? あなたよりわたしの方がこういうの得意よ、無理そうなら今のうちにひっこめた方がいいんじゃない」
「ごめん、そうする」
彼女の助言はまっとうで、じっさい僕がトワという二文字に情報処理される存在だとか、妹の手足がモーちんやマコだった時期にその名で認識したことがないとか、そういうことよりもきっと、コーヒーが空っぽになってからのことを考えるべきだと思った。右ポケットに四つ折りにしてとっておいたレシートを引き出して、カウンターでワンモアコーヒーを注文して続きの一時間もここで粘るか。あるいは、別のところへ移動して、何か新しいものを見つけるか。
電車で移動するのはあまり建設的ではないと思った。歩いて山手線をたどれるが時間効率が良くない。近場の公園にいれば日陰を見つけられたとしても少しの時間で暑さに自分が溶けだしてしまいそうだ。駅構内だったら直結の百貨店から吹き漏れる空調の冷気で多少は涼しいか。
そうだ、と口に出してから、僕は残りのコーヒーを飲み干した。
「ねえ、彼は元気かな。しばらく暇だし、こっちからどうにか連絡を取ってみようと思うんだけど」
駅の構内の映像を頭に浮かべると思い出されるひとがいた。彼はホームレスで、どれぐらいの間なのか毎日ずっと有楽町線の池袋南口改札の近くに座っていて、気の遠くなるような時間落とし物をじっと見届け、さいごにそっと拾い上げたらそれを自分のコレクションにするというルーティンだけで生きている。いつも同じ服に同じ帽子、お風呂にはもちろん入っている気配もなく、冬にどうしているのか分からない、刹那的な風貌だった。
僕は彼をチャッキーと呼んでいた。交わした会話はぜんぶ集めてもメモアプリの画面をスクロールするほどにもならないくらいだ。学校に行っていない僕よりも、成人した男性が駅構内のタイルひとマスに終日座り続けているという光景は、一見して社会では何の益にもなっていないように思えたが、それでも僕は彼の存在を愛していた。
その姿を見かけなくなってから僕も妹も彼の足跡を知らない。もちろん連絡先を尋ねたこともなかった。浮浪者の中にもまれに住所か電話番号をもっているひとがもちろんいるかもしれないけれど、きっとチャッキーはそういう種類の人間ではなかっただろう。
妹が反対しそうなことは分かっていたので、べつに助けを求めようと思っていないけれど、と付け加えた。イモムシに巻きつけられた小さな画面がいっしゅん他の通知で遮断されてからすぐに復旧した。途切れた映像の前後で、エミュレットの表情は変わらなかった。
「店を出るの」
通話の終わりを示唆する言葉だった。
「そうしようかな。エミー、面会は明日にするよ」
どうせ一日の時間制限が十五分ぽっちだからわざわざ来なくていい、と彼女は語調を強くする。それが遵守しなくてはならない彼女からの行動制限なのか、あるいは僕の勝手な判断を許してくれる範囲なのか、声を聞いたらいちおう分かるのが僕、分からないのが母さんだ。生まれた時から一緒にいるからね、とフォローすると、私は生まれる前から一緒にいるのよ、と母さんに苦笑いを返される。
飲み終えたカップからスリーブを抜き取ってパペットみたいに手に被せる。セイレーンの微笑を振りながらICUの個室に別れを告げた。じゃあ明日、と無理やり言い逃れて切った通話、スタバの店舗を出た後も彼女から追撃のLINEはなかった。面会は行ってもいいということみたい。
それなら許可が下りているうちに、今からの用事を次の面会時間までに済ませないといけない。
集合時間ぴったり、暗闇に人影がひとつ、ふたつ、みっつ。僕がよっつめ、予定通り。指定されたシグナルのスレッドに書き込みをする。四人を集めた指示役のアカウントから、三分後にリーダーが到着するから指示に従うように、という連絡が入った。メッセージには時間の制約があり、発信元からのメッセージは順次サーバーから消えてしまうだろう、既読にするのと同時にスクリーンショットを撮る。
応募後の手続きが思いのほかスムーズに進み、午後一時に連絡した僕はその日の夕方六時半、既に一件目の巡回訪問のメンバーに抜擢されていた。その晩集められた人間は、それぞれその場限りの名前を与えられている。ヤマ、オノ、タニ、マル、本名から抜粋された二文字のコード、非常に明解だ。マルは僕のことで、事前送付した運転免許証に丸谷凡三と書いておいたからそんな呼称になった。キラキラネームも落ち着きつつある今時、我が子に凡三などという名をつける親がどこにいるのだろうか。彼らにはそんな疑心を抱く余地はない。僕が丸谷凡三でも斯角然鹿であっても、万一の時に遁走を阻止するための切符として当人のいちばん大事そうなものを使いたいだけだ。たぶん彼らがその脅迫を成功させることはないし、僕もここから逃げようとも思っていない。
エミュレットとの会合を終えた僕は久々にネットカフェを訪れていた。会員証の提示を求められ、どうしても見つけられなくてしぶしぶ新規の入会金を払ってソファ席の三時間パックを選ぶ。オンラインゲームの一部メンテナンス時間中のため利用ができないことを告げられて短く返事した。
使うのはブラウザだけ。まず、ワンタイムメールで捨てアカウントを払い出しする。有効期限は一週間、じゅうぶん、僕はきっと今の三時間しかこのアカウントを使用しない。払い出したアカウントをコピペして、Xでユーザ登録をする。プロフィール画面に最低限の情報だけ書く。
18♂/高3/学校行ってない/見る専/裏垢
アカウント名は724106。分かるひとには分かる、分からないひとには分からない。
ユーザー情報以外のプロフィールもアイコン画像も設定しないでそのままキーワード検索を何度かする。特にめぼしいヒットがなくてもリーチの多い投稿にはいいねを押しておく。スパムアカウントから勝手にフォローされていく。検索を続ける。
エミュレットはきっとその後も定期的にチャッキーの捜索を試みていたはずだ。彼女に見つけられないものは僕にもきっと見つけられないに決まっている。通常に学校へ通っていれば今は四年生の妹に対して、義務教育で学修する内容に追いついていないとか、ぜんたいに経験というものが劣っているとか、そういう年齢を基準に何かを考えるということがこの頃はいっさいなかった。妹は僕より物知りで、オンライン社会に散在するものを摂取するだけでなく、書籍からの情報収集に非常に長けていた。四つのうちひとつしか与えられていない腕ひとつでよく一日に何時間も読書に励むなと思うほど、こちらの想像を遥かに超えて何でもやる。だから僕がただ手足を振って前に進むだけのロードワークをしたり、シャドーのフォームで指導者から叱責を受けていた間にも、彼女にとって最も有意義な時間の活用が行われていたはずなのだ。
なので、チャッキーは見つからない。あるいは、エミュレットは先に居所を掴んでいるが、僕に報せたくない、ふたつにひとつだ。
情報は落ちているならXしかないと思っていた。ブルースカイやスレッズの家捜しはコストパフォーマンスが悪い。堕ちた王者といえど、Xという場を使った訴求についての信頼性は今もある程度有効だ。もしも自身が所持している情報を周囲に騒いでほしい人間がいれば、投げ込むのはやはりXのはず。
けっこうな期間の探索をしたが、不審者の出没やホームレスへのリンチ、暴行についての画像つきの投稿で彼を探し出すことはできなかった。彼と会えなくなってから一般に報道されている事件関係の肖像はニュース動画で逐一チェックしていたけれど、念のためネット上にあるまとめにも目を通しておく。もちろん、ヒントはない。
実はチャッキーの本名は前に偶然知り得ていたのでそれも改めて検索する。Googleの検索バーにも直打ちして叩いた。新しい情報のヒットはなし。過去の有名な記事や、彼の来歴に関係のある誰かが、悪意のない昔の投稿で彼の高校の卒業写真をアップしてそれがまとめサイトに転載されていたけれど、見るものはすべて数か月前に既に検索済みだった。進捗はゼロだ。
三時間も滞在可能時間があるにもかかわらず、二十分足らずで打つ手がなくなってしまった。どうしようか。適当に興信所を探して、ひと探しをしていることを正直に打ち明け、無料で教えてくれる範囲の助言を仰ぐか。検索結果の上部に表示されるリスティング広告を数件開いたが、すべて電話での受付のみだった。ソファ席は半個室のブースだが声を出せば空間ぜんたいに筒抜け、番号を控えて通話ボックスに移動するのは最後の手段にしておこう。念のため問い合わせ先をスマホのカメラで撮影して控えておいた。ネットカフェに入店する前から僕のスマホは機内モードに設定してある。三時間の音信不通に気づくのはおそらく妹だけだから問題はない。
キーワードで絞り込みした結果の中に、路上脱出支援団体という単語が見えた。なるほど、彼らを社会復帰させようという活動がどこかで行われていることを初めて知った。かといって、この団体じたいに問い合わせをしたところで、僕のような不審な未成年者に個人情報を渡してくれるわけではない。むしろ昨今はこういった団体を騙った詐欺被害が界隈にのさばっていそうだ。
詐欺、というひとつの端緒がキーボードを叩く手を止める。何か解を得られる気がしているから少し考えた方がいいと思い、画面を見つめたまま思考を編み始めようとしたところだった。
Xのタブに一件の通知がついた。メニューバーのDMを開く。僅かな時間の中で僕の急ごしらえのアカウントを見つけてフォローしてきたスパムアカウントのうちのひとつらしい。
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DMに返事を打つ前に、機内モードのスマホをネットカフェのWi―Fiに繋いで、VPN接続用の野良アプリを入れた。経由地はトルコ。上手なやつに追跡されれば身元が割れそうだが、子供騙しの対策でもしないよりはしておいた方がいい。
スマホのブラウザで作ったXの捨てアカウントにログインし、もらったDMの返事を打った。
《こんにちは。お金がほしくてバイトを探しています。いつから働けますか》
《ご連絡ありがとうございます! 年齢と性別、住所を教えてください。都内なら今日から案件あります!》
本名と生年月日の提示、身分証明書の写真のアップロード、家族構成と親の年収、なんてえげつないことを聞いてくるのかと思いながらそれらに淡々と回答していく。免許証は妹からのプレゼントで、同人グッズのWEB入稿でどこまで本物っぽい偽物を作ってくれるか試したかったからと言って押しつけられていた。写真もフォトショップで現実の僕よりかなりかっこよく補正されている。財布に入れたままだから表面がやや擦れた状態だが、発行日から少し経過した状態みたいに見えていいなと思いながら無音カメラで撮影した。本物の敷島斗和はまだ普通自動車の免許も取得できない未成年だ。
駅を離れる前、西五反田のドトールコーヒーショップの前にある公衆電話でエミュレットに電話をかけた。通話が途切れるのが嫌で百円玉を入れたら、お釣りが出ないことを知らずに思わず唸り声を上げてしまう。
「なるほどね、それじゃご武運を、悪い子ちゃん」
何を始めるのか分かっているエミュレットは、弾んだ声で僕を送り出した。少しだけ心の奥では心配されていることも伝わる。本当に、本当に少しだけだけど。
午後十一時、集められたのは練馬区中村橋駅北のセブンイレブンの前だった。全員が軽装でじぶんの持ち物以外は何も持っていない。
シグナルへの連絡から七分後、今日のリーダーがやってきた。アルトサックスのソフトケースくらいの大きさのバッグを持っている。強盗の武器になるようなものをそこに入れているのだとしたら分かりやすすぎる。特に吟味もせずに一件目に飛びついてみたけれど、獲物はきちんと見定めるべきだったか。
良質な窃盗組織とはいえない集団の末端であるリーダーは、ヤマ、オノ、タニ、マルの四人の名前を確認すると、現場へ移動する、と言い、住宅街を一列に歩かせた。
「はじめまして」
前を行く青年が振り返って僕に声をかける。これはヤマ、オノ、タニのうち誰だろう。マスクから見えている部分だけの顔面から察するに、私立文系、大学三年というラベリングが、当たらずも遠からずな気がする。
「俺は三回目なんだ」
彼は少し得意げに言った。
「これから何をするのか、先に教えてあげるよ」
呑気におしゃべりを続けようとする彼を、リーダーは足を止めてじろりと一瞥する。彼はその時は口を噤んだが、しばらくしてまた話をし始めた。今晩の仕事が彼の最終回になるだろうと思った。報酬も貰えないかもしれない。貰うと名実ともに犯罪者になるから、僕も辞退したいところだけど。
五分後、五人組は細道の入り組んだ住宅街へ着いた。古い戸建てが並んでいて、灯りをつけている家はほとんどない。手口は簡単で、暑さしのぎに窓を開けている家から順々に住居へ侵入し、金品を窃盗するというものだった。そういう町内巡回であることははじめに承知していたので、特に驚かなかった。ヤマタニオノのどれかひとりが、本当に今の今までそれを知らなかったというような顔をしていた。見た目は僕よりも若く見えた。きっと高校生だろう。
「窓が開いていなかったら割ってもいい。現金以外のものでも時計や貴金属があれば持って帰れ。車は向山公園に待機している、終わったらシグナルで連絡を取れ」
リーダーは鞄のファスナーを開け、ハンマー、特殊警棒、バット、バールをそれぞれ出して僕らに投げてよこした。動きを制限するものは何も持ちたくなかったから、バールを持ったひとに特殊警棒も持っていてくれないかと交渉して、縮めた状態の警棒を尻ポケットに突っ込む姿を見守った。僕は左右の拳を軽く作り、もう片方の手で指のつけ根にある関節のでっぱりを撫でる。
リーダーは刃物を鞄から取り出すと、俺は先へ行くと言い残して、猫の通り道みたいな草の茂った小径の中へ入っていった。あとは残りの四人でなんとかしろということらしい。シグナルの通知でスマホが震える。
《状況は全て把握している。早く動け》
ヒッと小さく悲鳴を上げたひとりが、よろよろと道を進み始めた。さっきの三回目の男がすぐに歩み寄り、一緒に行こうと彼を誘った。
僕の武器を預かってくれたひとりが残ったので、意向を伺うつもりで視線だけ送る。夜でもむっとする暑さの中マスクをしたままの青年は、だらだらと汗を流していた。
「やるしかないんだ、やるしか……」
どうしても金を稼がないといけない事情があるのだろう。詐欺被害に遭った人間が別の事件の加害者になるなんていうのもこの頃はよく聞く話だ。
これからの僕の行動として考えられるシナリオは、急襲に失敗したと見せかけて逃走し、護送用の車に乗り込むこと。そこには先ほどのリーダーとはまた別の人間が控えている。きっと今の武器渡し係よりは手がかりを持つ可能性は高い。かといって、チャッキーに近づくための過程としてはゴールまで途方もない距離に思えた。
「場所、任せますよ」
僕が声をかけると、バールの男はうなずいて、慎重に侵入先の吟味を始める。少し後ろをついて歩きながら、僕はシグナルに新しいトークを打ち込んだ。
《ここで発信すれば運転手と連絡が取れますか?》
バール男が庭木の茂る家の前で立ち止まる。
《グループのメンバーにドライバーもいる、いいから早くやれ》
音を立てないように門扉をそっと押し開け、植木の隙間を歩いて裏庭へ回った。動きがあまりに緩慢で退屈になる。音を立ててもいいからもっと素早く動けばいいのに。
ファスナーを開けたままにしていたボディバッグからオープンフィンガーグローブを取り出した。正直、使い方はよく分かっていないが、これをしていれば無闇に怪我をしなさそうだ。とんとんとそれぞれの拳で太腿を叩いてみる。普段しているグローブより薄くて軽いからほぼ剥き出しの状態だが、覆いが一層あるというだけでやや安心はあった。
リングの中を聖域だとは思わない。あの中にも殴り合い以上のただならぬ感情と動物的本能が溢れている。試合で命を賭ける時と、今みたいにはじめからばかなことだと分かっていても腹を括っている時と、動力の源になるのもやることもほぼ同じだ。
それでも楽しい時は夢中で殴って肉や骨をだめにするんだろうなとぼんやり考えながら、まだ無傷の指を液晶画面に滑らせて質問を打った。
《灰野辺千秋を知ってる?》
返事を確認する前に、前の男が急にバールを振り上げた。予想外の動きに思わず二歩後ずさる。
想像よりも鈍い音を立ててガラスに亀裂が入った。衝撃で大きなくり抜きになったガラスがそのまま真下へ落ちてくる。
画面のロックボタンを押さずにスマホをポケットにしまった。質問のタイミングとしては最悪だった。これからの状況をどう抜け出せたとしても、こちらの欲しい答えがシグナルに送られてから画面を開くまでの時間にトークはとっくにバニッシュしてしまっている。
ねえエミュレット、もしかして僕、明日の朝刊で名前が載ったりするのかな? だとしたら、せっかくだし丸谷凡三のままでいたいって思っちゃうけど。
ベランダのガラスをバールで割った男は、俯いたままぶつぶつと呪文を唱えていた。
「できない、できない、帰りたい、帰りたい……」
その言葉とは裏腹に、ガラスを踏みつぶしたスニーカーは、大胆に侵入を開始した。男の体が完全に家屋の中に消えてから、僕もゆっくり探索を開始する。
部屋の中は静寂の匂いが漂っていたが、妙な緊張感もあった。人間の気配がする。住民は眠ってはいないのではないだろうか。今の物音に起きて、穏やかならぬ状況を察知し、警戒しているのではと思う。割れたガラスを踏まないように窓枠を慎重に跨ぎ、壁際に寄せられたカーテンに沿って立った。街灯のない空間でもすぐに目が慣れる。二、三しっかりと瞬きしてから、土足のままで絨毯を踏んでしまうことが後ろめたくなって軽く頭を下げた。バールの男は階段の方まで進んでいく。開けたままになっていたリビングの扉の方に彼の影がかかると、俄かに物音がした。
グワンと鈍い音が大きく響く。バールが床にごつっと硬く当たって跳ねる。武器を手放した男はその場でうつ伏せに倒れ込む。あっという間に耳から出血していて、ワッと叫び声があたりに響いた。
蹲った男の向こうから、別の人間が姿を現した。金属バットが伸ばした腕をしならせている。
「出て行け、殺すぞ」
鋭い声を聞いた時、それが誰なのか咄嗟に判断できなかった。暗闇の中で目が合う。つい十数分前に武器を持たされて悲鳴を上げていた小胆な少年だった。
「なにー、あいつら横取りしにきたのぉ」
間延びした気味の悪い声もする。奥にもうひとりいた。三回目の男。
バールを失った男は足下で転がったまま動かない。彼の尻ポケットに挿していたはずの警棒も見当たらなかった。バットとハンマー、暗がりの戸建ての廊下、手前に階段。
どうする、チャッキー。
記憶の彼に問いかける。
バット男に目を据えながら軽く手を伸ばし、前へ屈んだ。体を折ってバールに手を伸ばす姿は格好の獲物だった。黒く塗られた金棒がゆらりと頭上を漂う。僕の脳天にそれがまっすぐ向かってくる瞬間、すぐに重心を後ろへ移動してバットの間合いの外へ出た。振り回す、振り下ろす、突くこともできるがほとんど選択肢にならない。動きが単調なバットは簡単に避けられて床に叩きつけられた。今度は相手が両腕を伸ばしたまま前に屈んだ状態になる。軽くステップして左の拳を上げ、男の右の顳顬に向かって振り抜いた。理屈ではよく分からない動きを、体が勝手に体現する。ジムにいる時の僕は、基礎練習以外の時間、ほぼ自動操縦で動いていた。
殴られた男が尻餅をつく。脆い。もう立ち上がれないか。廊下の影が近づいてくる。元バットの男から目を離さないようにしつつそちらへいっしゅん視線を送った。
三回目の男の後ろには別の人影があった。拘束されているわけではないが、頭から血を流していた。意識を保っているか分からない。
これはさすがに、不起訴とはいかないか。
エミュレットが呆れて説教を垂れてくる顔を思い浮かべながら、三回目の男の懐に潜るように体を動かした。ハンマーを持つ腕を片腕で先にがっちりと固定してから、もう片方の腕で殴打する。男も抵抗してハンマーを振り回しはじめる。ふくらはぎに微かな鈍痛が走る。獲物が軽いと手首を返されて簡単に可動することをあまり計算できていなかった。廊下の壁に腕を思いきり叩きつけて可動域を殺すことにした。何度か打ちつけると相手の腹からぐうと声が漏れる。ここで追い打ち、相手の攻撃の気力を削ぐために脇腹に強めの殴打。こちらも殴り返される。手からハンマーは落ちたようだ。素手での攻撃であれば貰い慣れているから怖くなくなった。ガードが続くと焦りが出るのか、動きが大振りになる。避けやすい、僕に当たらない、男が躍起になる、こいつ、一回目と二回目もこうやって内輪で揉めて殴り合ってるな。
接近してからのパンチは威力の加算はないが、標的には確実にヒットした。薄いぺらぺらのグローブでも、照準通りのパンチがボディにぴたりと嵌められると、深い良い音で返ってくる。
何発かやってから、若干の狡さを帯びながら、おとがいにとんと拳を持っていく。顎を揺すられた相手は途端に不覚になり、その場にひっくり返った。
床に這っている男たちを割れた窓ガラスから外へ放り出す。背中を叩いてバールの男を立ち上がらせると、彼はそのまま庭に転げ落ちた。
これだけ騒ぎが大ごとになったのに、はじめ僕らに武器を渡したナイフ男は様子を見にきたりはしなかった。四人を置いて先に帰ったのかもしれない。傷んだヤマオノタニを他人の家の庭へ突き飛ばして置いておきながら、シグナルで連絡を取った。
迎えにきてほしい。すぐに返事の通知がある。無理だ、向山公園まで自力で来い。三人怪我をしている。ではそいつらを置いて行け。
たぶん迷った時間は二秒くらいだった。分かった、と返信を打って、元バールの男の服を掴んで持ち上げた。
「背負うのは無理だ。歩ける?」
このまま引きずって運ばないといけないのかと思っていたが、男はすぐに自立した。
「待て」
元バットの男が追いかけてきた。家の中で再会した時にあった戦意はまったく失せているようだ。逃走用の車に乗りたいのなら、元バール男を運ぶ邪魔をしないでくれと断った。
「山脇だよ」
バールは力なく笑った。もしかして彼は本当に自分の身分証明書の写真を送ってここへ来たのだろうか。エミュレットが好きそうなタイプのネジの取れ方だ。きっと裏のない良いやつなんだろうけど、僕は聞かなかったことにする。
向山公園の前に着いた。僕と元バール男と元バット男は街灯の下を足早に通り過ぎ、ハイエースが停まっている暗闇を目指した。端末でシグナルに入力し、到着、と連絡する。了解、スライドドアから入れ。
僕がドアを引いて元バール男を先に乗せる。その背中に走り寄った元バット男がそのまま乗り込もうとしていた。片足をかけるという時に急にTシャツを引っ張られて後ろへ吹っ飛ばされる。追いついて来た三回目の男が、ひっくり返ったバット男の頭をハンマーで叩こうとしていた。スライドドアを咄嗟に離して体当たりする。横によろめいた隙に鼻面に右フックを打った。
暗さのせいなのか、距離が測れなくて拳は鼻先に掠っただけになった。相手は怒り狂ってハンマーをめちゃくちゃに振り回し始める。これは送迎車に追いていかれるパターンだなと思いながらもういちど構える。半歩踏み出す。ハンマーがハイエースのテールランプにぶつかってがしゃんと音が鳴る。走り去る車の音。
僕の体は急激な速さで宙に浮かぶと、あっという間に後部座席に吸い込まれた。後ろから僕を抱え上げたのはバット男で、足が入ったすぐ後にスライドドアをバンと思いきり閉めたのはバール男だった。ふたりともはっはっと詰まった息を短く吐き出し、呆然とシートに座っていた。
少しして、泥落としマットに仰向けでひっくり返っている僕をのぞき込んで、バール男は「大丈夫?」と声をかけた。ハイエースが乱暴に揺れ始める。平衡感覚を失う前にぱっと起き上がり、バール男につかまってシートに這い上がった。バット男とバール男は向かい合って腰かけ、時折膝頭を擦りつけ合いながら、互いにどこか申し訳なさそうにしている。ふたりはついさっき、殴った方と殴られた方の関係を構築したばかりなのに。
僕は黒いカーテンのかかった運転席の方へ振り返った。
「四人全員、拾った方がいいと思ったんですけど」
返事はなかった。運ばれる人間と口をきいてはいけないなど言われているのだろうか。
体を正面に戻してスマホをポケットから取り出した。VPNのアプリを入れてから端末はずっと発熱していた。シグナルで簡単なメッセージを入力する。
《ひとり乗せ忘れています、このあとは何処へ?》
返事は即座にきた。
《JR新宿駅西口、運ぶ人数の指定はされていない》
《現場へ置き去りにした方がそちらの具合が悪いのでは?》
《余計なことは考えるな、使えなくなったやつは、これまでのことを脅されて搾り取られるだけだ》
「へえ、興味あるな。詳しく教えてくれませんか」
もういちど、自分の声で呼びかけてみる。ハイエースは今もどこかの道を結構なスピードで走り続けている。ぐらぐらと揺れる後部座席で、のこりのふたりは頭を抱えたりにわかに震え上がったりしていた。もしかして、今日はみな初見の四人が組まされていたのかもしれない。凶行はそのうち習慣化による感覚麻痺で当たり前になる可能性を大いに孕んでいた。どちらかといえば今晩の彼らはかなり才能があった。今はもう二度と関わるものかと思っているが、またすぐにXのDMで自らかけ子に連絡を取ることになるかもしれない。
僕はどうしようかな。他のふたりが荷下ろしされる時、自分だけここに残って運転手の後を尾けるのがいちばん面白そうだと思っていた。決して肉声で返事をしてこない徹底さが何かを匂わせていた。確実に時間経過で文字を消してくれるシグナルより口頭でのやり取りに怯えるのは、例えば声に特徴がある、あるいは盗聴など外部への警戒なのか。
ハイエースの車内は雑音に溢れていて、むしろ内緒話に適した環境だと思えるくらいだった。僕は自分が動くことにも特に気配を抑えるような配慮はせず、腕を持ち上げて黒いカーテンをつまむ。
揺れる車に運ばれながら、『輝く日の宮』の冒頭を思い出していた。ある短編小説が物語の中に挿入されていて、タクシーの運転手が主人公に何かを説明しているところの断片だけがいやに印象に残っていた。
廻りを取られるんでさあ、一晩中。
強力な語彙は未だ何も知らなかった僕に鮮烈な記憶として刺さった。ああ、こちら側の世界は、明るくて綺麗でぜんぶが漂白された不自由な方で、あちら側が、そぞろ寒くて猥雑で真実の方なんだと気づいた。僕はその本をはじめに薦めてくれた中学の国語教諭の寝癖の形まで覚えているのに、彼女の名前をもう忘れてしまっている。
突然ハイエースが急ブレーキを踏み、乗っていた全員が座席から転がり落ちた。カーテンを掴んだままバランスを崩すと、布地がレールからぶちぶちとちぎれていく。
運転手の顔が見えた。以前にどこかで会ったことのあるような気がしたが、その場では思い出せない。そもそも人間の顔と名前を正確に憶える能力が圧倒的に欠落している。例えば今日がいつか終わるとして、眠って目が覚め明日に変わった時、僕は母さんと妹とチャッキー以外のことはすべてどうでもよくなっている。もちろん僕のことも。
後部座席に冷ややかな視線を送った運転手は、ふたりを降ろせと僕に下知した。ここでもシグナルで。バットとバールのシートベルトを外してスライドドアから出るように促す。オフィスビルと屋根つきのバス停留所が見えたので、確かになんとなく新宿駅西口あたりに連れてこられたような雰囲気はあった。言われた通りに彼らを先に降ろしてから僕も後部座席から降りようとすると(もちろん、本当は降りたくなくて、ふりだけ)、助手席にかけた手の甲に硬いものが押しつけられた。
《降ろせと言っただけ。おまえは残って運転を代われ》
画面に映った送信済みのフキダシを読まされる。
目の前の冷たいものが本物の銃ではないことは分かっている。もしもそれが本物だとして、車内で発砲して悪いことはあってもいいことはひとつもないはずだし。ああ、エミュレットの頭脳が欲しい。もしくは彼女の従者であるトーク型生成AIによる冷静で迅速な助言が。
僕に物騒なものを突きつけている運転手はそのまま尻を助手席に移動させた。僕が未成年で免許を偽造しているのに気づいていないとは考えにくかった。分かっていてあえてそれを課したりするかな? まあ、運転は一応、できるけど。
短く息を吐き出し、開けたままにしていたスライドドアを閉じた。降りたふたりのぼんやりとした顔がドアの向こう側にまだ見えている気がする。
僕は黒いカーテンを肩で押しながら座椅子の間をすり抜け、手の甲に乗せられた鈍色の筒を丁寧に押し返し、運転席のシートベルトを引いた。
「知ってるんですね、彼のこと」
ベルトをバックルに押し込む動作に紛れてボディバッグをまさぐった。VPN接続が続いている状態ではあるけれど仕方がない。最悪、このスマホは捨ててしまっていい。
中のイモムシに巻きつけてある小さな画面を叩いて目覚めさせる。側面のボタンを二度押し込むと、自動で登録した連絡先へ発信することになっていた。
ハンドルを握る。「サイドブレーキはどこ?」と尋ねて時間を稼ぐ。ファスナーを開けたままのボディバッグの中で画面が点灯し続けている。どうやら通話は始まったようだった。ハザードを切って、ブレーキから右足を外す。
助手席に座っているのは、僕より二十歳くらい年上の男性だった。見覚えがあると思ったのは、子どもの頃に毎朝視聴していた朝のニュース番組に出てきた気象予報士に顔がすごく似ていたから。僕はその頃から自分がヘテロじゃないことを知っていて、顔が好きな男性の名前はきちんと情報としてインプットしていた。彼の名前は平川信夫さんだ。
助手席の平川さんは、ここでようやく口を開いた。
「余計なことは考えるなよ」
僕は軽く肩をすくめた。
「お金は別に要らないんです、ひとを探しているだけだから」
鞄の中のエミュレットは、僕らの会話には参入しない。このあと平川さんに指示された通りに甲州街道を走り、別の現場で急襲をしていたであろうきな臭い男たちを搬送するという幇助に甘んじた。車から降ろされる前に後部座席に誘ったが、男同士の性欲の解消は断られた。
チャッキーの所在については触れられなかった。平川さんは、「昔、界隈ではわりと有名だったっていうことだけ知っている」と言って、僕から車のキーを取り上げると下高井戸駅前で運転席に戻り、ひとり走り去った。
ハイエースの影が見えなくなってから、イモムシに向かって「仮眠と風呂が済んだら面会に行くよ」と言ったけれど、彼女は眠っているみたいに静かだった。僕は通話を終え、VPN接続を解除し、今日を終える前に、新しく入れたすべてのアプリをすべてアンインストールした。
*
母さんが出社する時間を待ってこっそり自宅へ戻り、シャワーを済ませてから冷蔵庫のブルガリアヨーグルトをカップのままスプーンを突っ込んで食べている。がらがらの始発電車でもうっかり寝ないように立ったまま移動していたから、疲労の蓄積はほぼ満ちている状態だった。億劫でスマホにも触りたくなくなっている。今頃妹は病棟で朝のルーティンをつつがなく消化し終えたただろうか。
キッチンの狭い通路を塞ぐように、冷蔵庫に背中を預けて両足を伸ばした。未明に知らない男に殴打された肩や腰は何かに接しただけで鈍痛を思い起こすほどだったけれど、ひと眠りすればぜんぶ治るだろうという不思議な過信によってさほど気にならない。妹らしいことを言えば、睡眠は思考の整理になるから、焦っている時ほど少しは寝た方がいい、しかも夜の数時間より昼間の十分間がもっとも効率の良い睡眠摂取だ。今を昼間と分類するにはだいぶ無理があったが、要は不休で動くよりも今の僕には仮眠を与えた方がいい。ただ朝のニュース番組だけが気になって素直に瞼を下ろせない。もう少しだけ気力を振り絞り、這ってテレビの前に向かうことが正解な気もする。まだ顔を憶えているうちに、平川信夫さんの今の姿を確認した方がいいのではないか。ひょっとして僕の記憶が間違っているだけで、顔も体格もまったくの別人だということが分かって、めくったカードを一枚裏に戻さなくてはいけない可能性もある。
昼間人口が千五百万人以上いる首都のなかで、いちど見失ったひとを再び見つけることがどんなに困難なのか、通常の価値観での理解ははじめにできていた。だけど今晩のあてずっぽうの捜索は、その割に大きな釣果だったのだ。
チャッキーを知るひとがいた。今の接点はないまでも、少なくとも存在は認知されている。表層に現れつつある浮き石をひとつひとつ飛んで渡ればいずれたどり着くのではないだろうか。それで僕が因幡の白兎にならなければの話だけど。
瞬きの動作がゆったりと視界に映る。両目のシャッターが切られると、同じ風景の中で間違い探しみたいに物の行き来が行われる—―それはカウンターの上の観葉植物がまだ枯葉になっていない、とか。エミュレットの外出用の上着がダイニングにかかったまま、とか。あとは僕が今よりもう少しだけこの家のことが好きではなくて、食器棚のガラス戸に栄養ドリンクをぶつけて割ってしまったあとが残っている、とか。推測するに一年くらい前の家が見えているんじゃないだろうか。リビングのドアががちゃっと音を立てて開けられた。部屋にひとが入ってくる。
チャッキー。僕は思わず声を出した。色褪せたキャップにへんてこなTシャツ姿の男が姿を現した。帽子を脱ぐと彼の頭はなぜか金色に染められている。服装は池袋駅の改札脇で跪座をしていた彼なのに、恰好や顔立ちが記憶よりもずっと若かった。誰なのか分からないはずだけど、間違いなくチャッキーだ。僕が知るはずのない、成人して間もないくらいの彼を、「チアキ」と自分の声で呼んで、両腕を伸ばした。
金髪のチャッキーは僕の前で膝をつき、冷蔵庫に寄りかかるようにして体をかがめると、丁寧に指の先で僕の唇を撫でて、それから甘く咥えるように口を塞いだ。ぞわぞわと腰のあたりが落ち着かなくなって背中が反る。シャツの裾を引き出されて入ってくる手に脇腹を触られると、頭の奥が焼けたみたいな感覚になって「はあ、はあ」と声が漏れた。
ずっと好きなんだ。ごめんなさい、僕があなたを見つけてしまったから。キスをされると泣いてしまう、怖くなって顔を逸らしながら肩を突っぱねる。チャッキーは鼻で「ん?」と僕に投げかけ、曖昧な拒否を取り下げさせた。
おかしいって分かってる。本当は僕の性趣向は本来の生殖由来である異性に関心があって、チャッキーのことは好奇心で触りたいだけなんじゃないかって何度も思った。もしかしたら僕がまだ会ったことのない美人にお腹を撫でられたら同じように盛って腰を振るのかもしれないし、抱き合って匂いを嗅ぐのだって異性の方が脳へ伝播する刺激が強いのかも。もしそれが正しいと学習できたとして、どのみち経験したことがないからなんとも言い難い。それに、いちばんはじめを好きなように選ばせてもらえるのなら、僕はチャッキーに抱かれてみたかった。
本当にいいの、と言いながら、履いていたスラックスのゴムに手をかける。金髪の男は僕の歯の間に指を挟んでこじ開け、舌を吸ってからふっと小さく笑った。可愛いひと、なんで今の姿でこの家に来てくれないの。今日なら母さんもエミーもいないよ。僕の声は聞こえていないみたいで、若いチャッキーは僕の体の好きなところをぜんぶ、舌と手で撫でまわしてくれた。
「気持ちいい」
言わなきゃいけないと思って、彼の挙動に勇気を出して反応する。弱くて細い声に返事はないけれど、拾う刺激が強くなった。恥ずかしいくらい固くなったところを、まだ人生でいちども舐められたことのないはずなのにどうやって気持ちよくなっているのか脳ではなぜか理解していて、僕は彼の口の中で呆気なく果てた。
太腿を痙攣させながら、尻の穴がはしたなく収縮しているのが自分でも分かった。スラックスをずり下げて膝を立てて強請る。ほしい、ほしい、チャッキー、ここ。
せっかくの壮大な妄想は、堪え性のないペニスが虚無を漏らしたのと同時に睡魔の重みに負けて立ち消えになった。陰茎を包んでいた手のひらが汚れる。ティッシュで指の隙間を拭う間ほとんど目は閉じていて、そのまま開かなくなった。金髪の青年は別れを告げる間もなく、手から離れていってしまう。
何かが削られているような音がする。細かい震動による掘削、身の危険を感じて目を開けた。少し遅れてそれがスマホのバイブの音だと意識が追いつく。キッチンカウンターに置いたままにしていたボディバッグががたがたと震えて移動を始める。中身のバランスが崩れたらこちら側へ落ちてきそうだ。スプーンを咥えて片手を伸ばしそれを受け止める準備をする。予測の通りに落ちてきた鞄の取っ手は掴めたが、荷物が思いきり顔面にぶつかってきた。
エミュレットからLINEが入っている。家族面会が規制解除になり、九時以降ならいつでも来院して三十分以内の面会をできるようになったらしい。コロナで制限がひどかったころ、一日一組二名まで五分と定められていたからかなりの好待遇だ。着いたらベッドを十分借りてもいいかな、と音声入力を使って返信を送り、空になったヨーグルトのカップをスプーンと一緒に洗った。
デサントのランニング用ウエアを着て昨日のボディバックを肩にかける。上も日除けのために長袖にした。鞄の底に押し込んだままのオープンフィンガーグローブはやはり血の痕と汚れが残っている。シンクの下にある台所用マジックリンで擦ると完全には落ちないものの、少しはましになった。
次は通気性よりも撥水に長けた素材のものを買おう。もしもこの先も、自分が死なないためにひとを殴らないといけない場面が僕の行先にあると想像してのことだけど。どうだろう、今度こそ妹が何か言い出しそうな気がする、本格的に僕に構うのはまだ先にしていてくれるかな。
自転車で五十分かけて、妹のいる病院へ向かう。正面玄関から入っていちど地下へ行き、西棟の面会受付で入館許可証をもらった。去年からストラップカードではなく服に直接貼り付けるシールになったので、用が済んだらそのまま剥がして退出できるから手続きが億劫ではなくなった。
病棟へ上がる前にエレベーター脇のタリーズコーヒーに寄る。アイスコーヒーとホットココアとレーズンサンドふたつを買って紙袋に詰めてもらった。
フットサルができそうな広い小児病棟のフロアは大きな窓がたくさんある明るい部屋だった。通常の病棟とは違い、仕切りのない中央のスペースがスタッフステーションの代わりになっている。彼女のいる部屋は柵のない大人用ベッドが置かれた個室で、天井から管理モニターとカメラが吊ってあった。
「おはよう」
先に妹が僕に話しかける。タリーズコーヒーの紙袋を細長いテーブルに下ろした。近くの看護師も飲食物の持ち込みにすっかり慣れていて何も言わない。僕が墓前に添えるようなものですから、と咎められるたびに言うので、自分たちがわざわざ言わせているみたいになっていたたまれなくなったのだろう。
「ただいま」
答えた言葉が情けなく個室に響いた。ほっとしたのか、声が少し震えたのが恥ずかしかった。エミュレットはテーブルを押しのけて左腕を伸ばし、かがんだ僕の首に抱きついた。
「しんどいんだろ、熱がひどい」
「誰かさんが夜中に起こすせいでね。トワ、右手握って」
言われた通り、彼女の短くてふわふわの腕のつけ根を病衣の中で見つけて手で包む。ベッドはやや傾斜がつけられていて、脚のない彼女がずり落ちないくらいのところで呼吸が楽にできるように調整されていた。
「ときどき思うことがあるよ」
同じ年頃の子がいったいどれくらい手足が長くて、肩幅があって、体は成熟しているのか、もう初潮は迎えているのか、彼女に触っている限りでは分からないものを、いつも探るように肌をなぞってしまう。愛とか固執とかではなく、僕は純粋に妹への好奇心で、つけ根の他になにも無い腕を摩る。彼女も僕が何を考えているかをよく知っている。
「朝起きたら、僕が千世になっていて、きみが僕の体の中にいて、そのままそれぞれ動き回ることができるかもしれないんじゃないかって。それが定期的にあって、お互い喜んだりがっかりしたりして、でも入れ替わる必要があるんだ。千世は僕で走りたがってるし、僕もきみで喋りたがってるから」
「素敵な提案だけどね」
彼女は汗をかかない額にじっとりと皺を寄せた。
「お願いだから、そのボトルにこびりついて塩を吹いているシャンプーの残骸みたいな名前を引っ込めて。いい? これが最後よ。次にやったらあなたのおばかな夜遊びに二度と付き合わない」
「ごめん、エミー、もうしないから」
既に何万回もしているであろう口約束に、彼女は頼むわよ、と顔を顰めた。
ベッドの彼女が透明マントで隠してしまっている両脚のところに腰を下ろし、僕は昨日のできごとを手短に話した。言葉で整理しているうちに、闇バイトの中でもずいぶん粗悪なケースに遭遇してしまったことが自分でも理解できた。しかも釣果だと思っていたチャッキーとの繋がりも、客観的に見て適当な応答を僕が盲目的に信じたいだけみたいになってくる。
妹は目を瞑ったまま胸を上下させ呼吸を繰り返していた。僕の話を注意深く聞くというよりも、呼吸や脈や酸素濃度でアラートが鳴り、それを看護師が止めにくるのをできる限り回避するための動作に思えた。
「ただのふざけたいたずらかと思ったけど」
「うん」
「意外とよくできていた、というのが私の評価ね。VPNアプリとスクリーンショットは素人のわりに賢明よ。ダメなのはあちこちの防犯カメラに敷島斗和がそのまま写っていること。丸谷凡三はどうしたの」
「あれだって僕だよ」
「不自然にフォトショップされた顔のね。次に誰かに会った時、あなたは自分の名前を明け透けに呼ばれるわ。動揺しないで」
「オーケー。……次?」
軽く相槌を打ってすぐ引き返したけれど、彼女はそれがいけないのよ、とぴしゃりと一蹴した。
「トワ、もう少し頭を使って」
「努力はするけど無理だと思う、できればきみに任せたい。昨日、ちょっと乱暴にひとを殴った時に気づいた、たぶん普段もひとを殴っている時と同じくらいしか頭は仕事をしていないよ」
「でも素晴らしいくじ運でチャッキーの関係者を引き当てたじゃない、一晩で」
「まあ」
「それで、誰なの、平川信夫って」
さっきよりはかなり呼吸が落ち着いているエミュレットの向かいで、僕は紙袋から引っ張り出そうとしていたアイスコーヒーを取り落としそうになった。知らない? 平川信夫を? 僕の妹が??? そんなことが現実に起こりうるんだろうか。もう十二年以上もNHKのニュース番組に出演し続けている気象予報士で、白いドーベルマンみたいな顔で声はやや高めの穏やか、女性キャスターとの比較で推察するに身長は百七十七センチくらい。テレビ画面越しに見る限りでは僕がはじめて彼に出会った時からまったく歳をとらないと思うほど、見た目が老けない。ライトグレーの背広を好んで身につけ、タッチモニターで動く天気の絵文字を使うのが得意だ。それを僕の口から説明しろって? エミュレットは気でも触れたのだろうか。
「一言いい? 興味ないの、そのひと」
「ああ、そういうこと。驚いた。僕が質問になんでも答えすぎるお喋りジェミニちゃんになるところだった」
今後こそアイスコーヒーを取り出して蓋の真ん中にストローをぷつっと通すと、彼女は当然のように、わたしにもひと口ちょうだい、と言ってきた。飲むと死ぬかもしれないけど。そう言って死んだことないじゃない。しかも元々墓前用。確かに。
緑色のストローの内側からするすると吸いあがるアイスコーヒーは、数秒後に透明のカップの中にまたそろそろと戻っていく。口のちいさいエミュレットは、飲み物はスプーンひとさじくらいしか嚥下できない。
「興味があるのは本物の平川信夫じゃなくて、ハイエースの運転手の方ね。それが本物とちょっと似てるっていうだけで御の字」
「なんだ、そういうこと。僕、いちおう毎日観てたから、あの暗がりだけどまあ自信はあるよ」
「その説得力が大事よ。で、次の仕事」
「もうそんなものが?」
彼女が残りは飲まないとつき返したアイスコーヒーをもらってごくごくと飲んでいると、妹は片方の腕を器用に使って、自分のスマホと僕のボディバッグの中にあるイモムシを一緒に掴んで自分のお腹の上に乗せた。接触型の充電の時みたいにスマートウォッチの画面の中央に黄緑色のピクトグラムが映る。切れ目がちょっと不格好な切手みたいな形は、じきにSIMカードだと読み取れた。
「なにこれ」
「おまじない」
「僕がまたおばかに走り回るための?」
「まあそんなところ。今度はエミュレット様の護衛つき」
新しいeSIMを読み込まされた僕の端末は、まるで今まで別のユーザーに管理されていたデバイス情報を瞬時に憑依させたみたいに、ロック画面やあらゆる表示を様変わりさせた。
「あっ、『喫茶テプテプ』!」
六本木にかつてあったのだろうか、シックな喫茶店の外観写真に、僕はベッドの上で小さく腰を浮かせた。
「AIが描いたいい加減なね。どう、丸谷凡三くん」
「僕は眼帯でもして、無免許運転でさ、良家のお嬢さんを送り届ければいいのかな、麹町とか上野とか」
僕が絶版本の冒頭にあるかつてない最高の短編小説に触れ、他にも自分のスマホにどんな仕掛けがあるのかとそわそわしながらイモムシを取り返そうとする。妹は体の胴から出たのがその一本の腕だけとは思えないほど素早く僕の背中をつつき、さらに脇腹の弱いところをくすぐった。
「あ、くそ」
「おとなしくしなさいよ、面会はあと七分」
「それはいけない」
持っていたアイスコーヒーを飲み干してカップを空にすると、レーズンサンドの袋をひとつ破って頬張った。かじりとる時、零れる粉末を吸いながら気をつけて口に入れても、どうやったって小さなかけらは布団に落ちる。下へ払い落として病棟の綺麗なフローリングを汚すべきか、正解が分からない。褥瘡防止の硬いベッドで体の重心を変えると、妹は僕に説明するために取り出した自分の端末を鏡代わりに指先で前髪を整えた。
「ツイッターを開いて、トワ」
彼女の幼くて少しかさついた声は、まるで体だけ成長を止めた女性が檻から脱するための切実な訴えをしているように聞こえる。学校に通っていたらランドセルを揺らしながら通学路を無邪気に走っていただろう足は生まれる前に返上してしまった。妹は同級生と肩を並べて歩くことはない代わりに、彼らと同じ時間軸で成長する必要もないのだ。小遣いをくれるひとが母さんしかいなくて、強張った背中と腕を揉みほぐして摩る人間が僕しかいない生活で、彼女はみんなより早く大人になる専用の通行口を見つけていた。
っていうかエミー、Xが前はツイッターだったこと、きみは知らなくてもいいだろ。僕だって、いいねをファボるって言ったことないよ。
ネットカフェで作ったアカウント情報は、端末にログイン画面のモニターをそのまま写真に残しただけで、ほかは記録からも記憶からも抹消していた。それが今は、スマートウォッチの小さな画面を指で撫でるだけで、認証されたアカウントのタイムラインを日めくりカレンダーみたいに見ることができるようになっている。それってつまり、おまじないにかかってしまえば、消し去りたい過去の恥ずかしい自分ももれなくゾンビできるってこと。わお。適当につけたアカウント名をようやく思い出して、大きな画面のスマホのロックを解除した。
「724106の?」
「もうあなた大人気高校生よ。一晩でスパムが触手みたいにアカウントの全身に巻きついている」
クラスで人気者になる可能性を今まで一塵も持ち合わせていなかった僕は、彼女の予告に手を叩いて喜んだ。昨日の午後に、やっつけで作った空っぽのアカウントに? 開くと本当に、DMのタブに夥しい量の通知バッジが折り重なっていた。新着329件。天文学的。
スレッドに表示される本文の冒頭だけで特殊詐欺と闇仕事のまとめサイトみたいになっていた。フルタイム正社員の月給十九万から転職二か月で毎日始業は十一時、週四休で月給八十万っていったい何が起きているのだろうか。もはやそういうのをひねもす探索するのを成人前最後の勉学としてもいい気がしていたが、エミュレットには別の考えがあるみたいだった。
「今朝の午前四時五十二分に来ているメッセージを見て」
「無理だよ、ここから探し出すのは」
無理じゃない、と可愛いかすれ声にぴしゃりと言われた通り、ちっとも無理じゃなかった。未読の迫力あるボールド書体に埋もれたライトグレーのバーに刻まれたつつましい細字はすぐに見つかった。
《時給1500円~♪》大手企業社内オフィスのサービススタッフ積極採用中! 経験者優遇◎土日祝休
未経験者歓迎! 扶養内OK、昇給あり、交通費全額支給
実働6~9時間、休憩あり(週3~4日以上)
※終電考慮
☆フリーターさん歓迎☆フルタイム歓迎☆WワークOK☆ランチタイムのお仕事詳細は050―4510―6767
この手の謳い文句の読解にある程度の要領を得ている僕は、これが土日祝日休みでもランチタイムの仕事でもなければ、職場が大手企業の綺麗なオフィスビルじゃないことは当然分かる。
「清掃業、ってことかな」
「額面通りに見ればね。もしかしたらお尻触られちゃうかも、やめとく?」
「いや、こっちは選べるから。嫌なら殴れって意味だろ?」
「グローブなしでも良ければね」
エミュレットがくすくす笑うと、喉に詰まった痰がごろごろと鳴った。吸引処置のためにナースコールのボタンを押す。看護師が来た時には時間制限にかかわらず僕はここから追い出されるだろう。
「これからやるべきなのは?」
「しらん顔して電話してみて。もっと時給のいい現場はないか、とか適当に聞いて」
「わかった」
こちらへ近寄ってきた看護師が慣れた手つきで処置ワゴンを運び、妹の吸引の準備を整え始めた。僕はベッドから立ち上がり、残ったホットココアとレーズンサンドを紙袋の外へ出してテーブルの隅へ並べた。スクラブを着た看護師は分かりやすく嫌な顔をして「食べ物はちゃんと持ち帰って」と僕を叱るような口調で言った。
「食べる用じゃないんです。墓前に供えるみたいなものだから」
ボディバッグにごみを入れた紙袋をしまいながら、すかさずそれに答える。
「そうそう、あとで夕方の墓参りが回収してくれるからお構いなく」
妹もそれに応じた。
明日は? うーん、ホットティーにしようかな。抹茶は少し臭かったの。了解、じゃあまた。
今日の看護師は僕らに何かを投げかけるでもなく、ただ呆然とするパターンの人間だった。まあそうか、小児病棟の管理処置室にいる小学生の女の子が、自分の死後を想像させるようなことを話す方が普通じゃなくて、生きているという事実のことを考える彼らの方が当然に正しいのだろう。僕と妹は会って話ができるのとは別に、生きていることはあまり重要ではないと思っていた。たぶん、どちらかが死んでも僕らの会話は続くだろうし、もしかしたら本当に、体と中身が入れ替わったりするかもしれないから。
面会から帰る時、いつもエミュレットは大人しくなって、うっすらと唇を開けながら目を潤ませ、整えたばかりの髪をベッドで可愛らしくくしゃくしゃにして、初恋のひとを見送るみたいになった。また会えるわよね、とか言われたら、僕の方が泣いちゃいそう。吸引チューブで気切の穴を掃除されている妹に近づき、屈んで頬を擦りつけると、彼女は嬉しそうに両目を細めた。
「エミー、レスパイト飽きた」
いじけてそう呟くと、小さな肩が楽しそうに揺れる。
「管理入院だってば、あなただってのびのびしてるじゃない」
「暇つぶしに苦労してるんだよ。早く戻ってきて」
病棟を出て、タリーズコーヒーの返却台のところにあるごみ箱に紙袋を捨てに行く。外来患者、面会シールを胸に貼ったひと、製薬会社の社員ロゴが印刷されたストラップを提げるスーツ姿のひと、スクラブ、白衣は今は珍しくて、着ているひとは実習中の学生が多い。
医者になろうって思ったことはある? 数年前に母さんに言われたせりふを思い出して、通り過ぎる白衣姿に向かってふっと笑みをこぼした。もしも僕がそう思うなら、すぐに千世も同じことを思って、たぶん彼女が先に医者になるよ。僕の答えに彼女も納得していた。
トワは自分より弱いものがいる時しか頑張らないものね。自分がいちばん弱いと、何もしない。
そうかもしれない。学校に行かないかわりに通っていたジムは楽しかったけれど、ボクシングはあまり向いていなかった。少しだけ体の使い方を知って、いちばん弱い自分よりは強くなったことだけ、今回はマシな方だったのかも。
あの時間は、もしかしたら完璧に殴られる体を作るためだったのかもしれないとも思う。僕はチャッキーの強さを知っていた。いつか殺されるまで殴り合いをしたい、こちらがとっくに立っていられなくなっていても、彼の力の続く限り殴られ続けたいっていう儚い夢を持つ人間は、やっぱり少々やばいやつだろうか。
エミュレットの病院から自転車で行くこと十五分、ブルーボトルコーヒーの店の前を通ったので、なんとなく一杯飲んでいくことにした。清澄白河駅近くにある鉄筋がむき出しになっている店舗は昼前の時間でも混んでいる。カウンターに腰かけると蛇腹模様の天井をいつまでも見上げていたくなった。
おまじないをかけたスマホを持ってから三日経っていた。僕はその間、毎朝病棟へ見舞いに行き、学校に行かない間は周辺をランニングしたり、区立のスポーツセンターで簡単なトレーニングをしたりして過ごした。休憩スペースのベンチの傍にある掲示板には、クライミング、ヨガ、フラダンスなどの教室案内が貼ってあったが、どれも僕がすんなり途中参加できるようなものではない。体操の設備はあるが、指導者が不在なのか、教室は開かれていなかった。
久しぶりに平均台と平行棒に触っていると、近くで什器の整備をしていた職員から「経験者の方ですね」と笑いかけられた。僕はそういう時、愛想よく笑うのでも、そそくさと逃げるのでもなく、ただ何も言わずにその場に立ち尽くしてしまう。外的なアプローチで初めて他者の目のようなものに気づき、向けられたレンズ越しに自分がどう映っているのかが分からなくなり、凍りついてしまうのだ。
用があって話をしている時はいい、談笑の輪に入れないことにも特に何も思わない、一瞬だけ向けられた興味に似た匂いをした何かが、僕がいちばん苦手なものだった。
フリーズした僕に、職員は邪魔したことを詫びてすぐに立ち去った。しばらく時間が経ってから肩にかけていたタオルが落ちて、自分も動いていいことに気づいた。動いていい、留まることはない、体に言い聞かせてみたが、この三日、僕はゼロをイチに変換するアクションに失敗している。
エスプレッソマシンの並ぶカウンターから提供されたドリップコーヒーはぽってりした透明のグラスマグに入っていた。白い器に入っている時よりも液体が明るい茶色に見えるのが少し怖い。そういえばつい最近まで、コーヒーを黒い飲み物だと思っていて母さんにけっこう本気で心配された。焦茶もそうだけど、紺とか濃茶とか、僕は黒の仲間を色識別するのがかなり苦手らしい。
それで、僕は自分には紫がかった茶色に見えるそのあたたかい液体を少しずつ大切に飲んでいた。テーブルの上にボディバッグから取り出したイモムシを置く。朝の面会時間で検査前の着替えを手伝ってやったのに、エミュレットからは連絡がない。疲れて少し午睡している頃かも。尻ポケットからスマホを出してXのアプリに親指を置く。いつも接触するほんのいっしゅん前のめりに、静電気反応でぱっと画面が展開する。
濁流のように上から下へ流れてくるスパムを抜け、不忍池の蓮みたいに夥しく通知バッジをぷかぷかと浮かべたDMのタブを開いた。病室で妹と見たサービススタッフの求人情報が丸い葉の間にぽっかり開いて水面が見られるように、静かに既読の状態で揺蕩っていた。
メッセージの全文を読み返す。テキストを長押しして末尾の電話番号をコピーしようとしたが失敗した。たったの十一桁だから暗記して通話アプリに手打ちすればいいだけだ。ゼロゴーゼロ、インターネット回線を利用したIP電話だ。ゼロゴーゼロ、シのゴのイワずにロクシチロクシチ。めちゃくちゃ覚えやすい。むしろ用が済んだあとも忘れられなさそうでちょっと気味が悪い。
eSIMの回線で発信する。ワンコールで通じたのでぱっと耳を当てたが、流れたのは自動音声だった。切らなければこちらの情報が傍受されるだろうか。それすらも何も思わない世の中になったけれど。母さんとたまにリビングで会う時に話題になる食べ物や商業施設の名前は、たいていどちらかのアイフォーンかグーグルピクセルに聞き耳を立てられていて、次にブラウザで検索する時、テキストバーの下に出てくるおすすめ記事(それすらもフリーライターが適当に作った誤字脱字だらけのおよそ情報発信とはいえないようなもの)はたいてい、直近の会話に出てきたものと深くリンクしている。僕らの生活はすべてヒトじゃないものに監視されている。冷静になれば、ヒト程度に見張られていてもそれほどの焦燥は湧かなかった。女声で繰り返される「こちらは、留守番伝言サービスです」を三回聞いてから通話を切った。
折り返しの電話が来たのはコーヒーをすっかり飲み終えた後だった。僕は耐震補強のような十字に渡された鉄骨の大きなビスを眺めながら、静かな店内でぼんやりと過ごしていた。尿意はままあったが意識しなければ我慢できる程度だった。スマホで着信を感じてすぐ、イモムシにベルトをくくりつけたスマートウォッチに「来たかも」とボイスメッセージを吹き込む。
「はい」
スマホのロックを解除し、口をすぼめて小声で応答すると、吐く息がマイクに擦れてぼっと音を立てた。耳の向こうでは男性のはつらつとした声が響く。
「こんにちは、電話くれたみたいだけど?」
知り合いみたいな言い回し、なれなれしい、どこかで聞き覚えがある、たぶん僕はこのひとのことが嫌いだ。
おそろしい速さで脳内でタイピングされていく返答の、ほんとうに最小限以外のところを、それが助詞であっても構わずぜんぶ削ぎ落として、最も凝縮された状態でそれに応じた。こういう時、頭に浮かぶ活字がいつも縦書きだから、僕はみんなと違って少しかわった生き物なのかもしれないと思えることが面白い。
「求人DM見て」
「ああ、そのパターンね! 近頃は間違い電話が本当に多くて。もう一年半くらいだよ、まったくどこの誰がばら撒いているんだろうねえ、いつもは折り返さないんだけど、さっきまでの通話の相手が似ている番号の羅列でさ、ほら、いまどきもう番号なんて電話帳に登録しないじゃない」
顔も見えない相手にぺらぺらと喋り続ける男に、僕は辟易とした。スポーツセンターの職員に本心ゼロの関心を向けられるのとは比べものにならない、重怠いストレス。最低だ、せめて平川信夫さんの声が良かった。年下の妹を責める所以などないはずなのに、エミーがセンスのないことするから、などと腹の中で悪態までついた。
「えっと、じゃあ切ります」
「ああちょっと、待って待って待って」
う、うざい。
スマホをテーブルに打ちつけて会話を放棄し、木の板に斜めにぶつかって跳ね上がる端末の顛末を見届ける前に席を立つ。踵を返す。ボディバッグから乱暴に自転車の鍵を取り出し、置き去りになったイモムシの哀愁を無視してガラス戸を押し開け店から逃げ去る。
ということはしなかった。すごい、ほんの数か月の間に僕はすっかり大人になっているみたいだ。スマホを握っていない方の手のひらを見てみる。理想に描く成人男性の手にはなりきれていないが、柔らかくて皺の浅い子どもの手ともまったく別物だった。千世の手を比べてみたいな。そういえば彼女と手を重ね合わせたり指の長さを比べたりなんか、もう長らくやっていない。
気まずくなって空になったガラスマグを見下ろしながら、僕は「どうぞ、なにか」と返した。
「求人、って言ってたよね? 仕事を探している?」
「そうなります」
「すぐにでも? 東京都区内で通えるところにいるかな。ちなみに、年齢は?」
「っていう、怪しいバイトですか」
「これ、怪しいのかな、人材派遣だよ。現場で指定のユニフォームを着て、ホテルの宴会場でお酒作ったりお皿にオードブル並べたりするの。できれば顔が綺麗な子を集めたいけど、今はちょっとした緊急事態でね。えっと、今日か明日、面接に来られたりする?」
「どこですか」
「菊川だよ、東京都墨田区。都営新宿線に乗るんだけど」
スマートウォッチを光らせて現在時刻を確認する。
「十分でいけます。今、清澄白河なので」
「それは奇遇だ。待って……二時までなら事務所にいる。インゼクトって名前の事務所を検索して、適当に来てくれるかな」
分かりました、と返して、いちど電話を切った。スマートウォッチには妹からのメッセージが通知の最前面にいる。何か面白いことはあったかと書いてあるので、きみが好きそうなシチュエーション、と音声のタイピングですぐに返事を出した。なんとなくそうしたくなって、イモムシから外したスマートウォッチを片手と顎を使って左手首に装着しておく。
インゼクトは検索するとすぐにGoogleマップで所在地が出てきた。小名木川を越えた先にあるマンションの一室らしい。すぐに行くつもりで身支度を始めたが、尿意を思い出したのでいちど席を立った。カウンターチェアに戻るとき、気が変わってコーヒーをもう一杯頼んだ。僕の小遣いのほとんどぜんぶがコーヒーと古本になって消えていく。
十一時三十分、ブルーボトルコーヒーを出て、自転車で菊川へ向かった。外は雨が降り始めていた。
デサントのパーカーについている薄いフードをかぶってペダルを漕ぐ。三ツ目通りは車通りが多くて、木場公園の美術館も建物の中に蛇腹の行列が見える。
十一時三十七分、近くのコンビニ前を借りて自転車を停める。十一時四十二分、事務所インゼクトが入るマンションにたどり着いた。どう見ても七階建てくらいしかないのに、部屋番号が1108号室とマップに書かれている。はじめから不審な点は満載だったのでさほど驚かなかった。念のため、エントランスに入ってみる。
意外にも、ポストを見れば確かにインゼクトの表札はあった。どうやらGoogleの方が誤記だったらしい。一階のいちばん端にあることを確認し、いまどき珍しいオートロックではないフロアへ進む。家庭ごみを捨てる居住者と思しきひととすれ違った。向こうが軽く会釈するので、こちらも頭を下げる。
部屋の前にあるインターフォンを鳴らすと、向こう側の音声が開通するより先に廊下の足音が聞こえてきた。はいはいと陽気な声とともに不用心にドアが開けられる。出てきた男は源氏物語絵巻がでかでかとプリントされたTシャツを着ていた。にわかに承認しがたいセンスに後ずさりがよろける。僕の視線を感じたのか、男は服の裾を引っ張り、「可愛いでしょ、コレ、徳美で買ったの」とにべもなく言った。徳川美術館のことを日焼けサロンみたいに呼ぶ男は、見た目は若いが歳は三十代前半くらいだろうか。世俗に疎い僕でも、確信的にこの顔は見覚えがある。
「芸能人」
「まあ、〝元〟ね。電話の子でしょ。入りなよ」
当たり前だが、ドアの向こう側はふつうの3LDKの住宅の間取りだった。床はラグの代わりにタイルが敷かれていて、壁に取りつけられた鏡の面積が広く、カーテンが布製のロールタイプということでなんとなくオフィス感が漂っている感じだ。本来はリビングであろうひらけたスペースの中央に、少し高めのソラマメみたいな形をしたテーブルが置いてあり、そのうち半分には大きなモニターのデスクトップPCが備えつけてあった。壁にはインゼクトの社名が書かれたプレートがかかっている。何も知らない僕に言われたくないだろうが、人材派遣事務所っぽさはない。
通り過ぎた時にちらっと見た限りでは、別の部屋は全面グリーンバックの小さなスタジオになっていた。リビングには狭小空間でも投影できるプロジェクターが天井にはりついている。部屋の隅にある大きな後づけのクローゼット、写真館にありそうな胡散臭い革製の大きな茶色いソファ。なんだここは。おしゃれな八九三のサテライト事務所?
黙ったまま部屋をきょろきょろしていると、男は不意に両手で僕の肩を掴み、そのまま形にそって腕をぱんぱんと叩き、顔をのぞき込み、膝をやや折って屈みながら(自分の背が余っていて窮屈とでもいうのだろうか、嫌味たらしい)にこにこ笑った。作り笑顔の猛烈な既視感に、ついに埃の被った記憶が奥からずるっと引き出されてきた。
「ああ、〈朝ヨーグルト〉の」
「へえ、若いのに知ってるんだね」
思い出せたことにほっとしていると、彼もえへへっと無邪気な照れ笑いをした。
コンビ名〈朝ヨーグルト〉、大学のお笑いサークル出身で芸歴の浅いうちから地上波に出ずっぱりの人気芸人だった。ボケのキヨマとツッコミのジリン、学生時代にはそれぞれ別の相方がいたが、サークルの引退前に相次いで解散、一般就職する気のないふたりが余りものでくっついたのが始まり。当時のネット記事でそう読んだ記憶がある。
ふだんほとんどバラエティを観ない僕が彼らを知っていたのは、あの天気予報士平川信夫さんが、ある朝地方ロケで餅つきをリポートした時、朝ヨーグルトのふたりがそこで餅をこねてついてを現場のやや後方でしていたのだった。間違いなくそれはNHKの仕込みだったはずだが、平川さんとキヨマがとても親しげに言葉を交わす映像がずっと頭の奥に残っていた。それが初めて、根拠のない嫉妬を覚えた瞬間かもしれなかった。僕は朝ヨーグルトのキヨマをずっと苦手な男だと思っていた。
芸能界を早々に去ったというのをかつてのネットニュースで見たような見なかったような。それで今、彼が菊川のマンションの一室で何をしようが、本当に心からどうでもいい。ただ、至極都合の良い思考で、このひとの人脈を使ってもらうことはできないだろうか、と邪心が出てしまった。
「仕事も探しているんですが」
腹を決めて切り出した。
「ひとも、探していて」
「へえ」
彼はあっさり相槌した。
「そういうのは俺より上手なやつがいるけどな。あと、あんまり社会的に影響のある人間だと、さすがに初対面のきみとは、会わせてあげられないんだけど」
「よく理解できます」
「そう、ならよかった」
キヨマは大股でリビングを歩き、縦長の戸棚のドアを開けた。絶対に服飾品の収納だと思っていたそれは、ドリンク専用の冷蔵庫だった。いくつかの選択肢を提示され、サッポロのおいしい炭酸水を選んだ。ここでようやく価値観の一致をひとつ見出せて安心する。コンガスは無糖が正義だ。渡されてすぐ、栓を開けてごくごくと半ばくらいまで飲んでしまう。こういうのは遠慮しても仕方ない。男の気が向けば誰かに会わせてもらえるかもしれないし、これきりで終わるかもしれない、それは致し方なかった。試しにいちど、ホテルのバンケットの給仕に使ってくれたらいいなとは思ったが、と炭酸に含まれていた二酸化炭素をふうっと吐き出すと、彼も僕の真似をしてサッポロの炭酸水を飲み始めていた。
ちりちりと喉のうちがわを炭酸のちいさな粒がぶつかって破裂していく。その単純な刺激以外の実態が不明なものについて、辛いとか美味いとか喉越しがいいとかで、みんな病みつきに飲み続ける。
それで、とりあえずキヨマには平川信夫さんを探しているということを告げた。掴みはあまり良くなくて、彼は唇を曲げて退屈そうにため息をつくだけだった。
「少し前に、夜中に強盗まがいのことをさせる怪しいバイトに参加しました。覚悟していて、というか、純粋にはじめから分かっていて」
「それは、今日みたいに?」
彼の相槌にうなずいた。
「じっさい、無関係のひとを傷つけることはなかったですが、知らないひとの家を壊したし、同じバイトに参加していた連中とうまくいかなくて、なりゆきで殴って、こっちも殴られました。現場から立ち退いて、車で移動したら、その後は運転手みたいな仕事をして。僕がハンドルを握ってから、はじめの運転手はずっと助手席にいました。シグナルっていう、履歴が残らないチャットアプリがあるんですけど、それで誰かと頻繁に連絡を取り合っていて。それで、マスク越しの顔を見た時、さいしょにもう気づいたんですけど、その運転手だったひと、たぶん気象予報士の平川信夫さんなんです」
さあこの長ぜりふ、元朝ヨーグルトのキヨマにはどのくらいの割合で芝居に見えていたか。ひとを探しているという割に平川さんとの対面シーンをドラマ仕立てで話せなかった無才に自分でがっかりしていると、男は少ししてから「ああ!」と声を上げた。
「探してるひとって、ウスじゃないのね」
「誰ですかそれ」
「ほら俺、大学のサークル出身じゃない。その時の同期でマネやってるウスって子がいてさ、単体ですごい面白かったんだけど、彼は一般人なの。今でも当時の動画がけっこう回ってるからさ、もしかしてにわかファンがどうにかして俺の居所を知って、彼への接近を試みてるんじゃないかと思って」
「まさか」
今度は僕の方ががっかりして口をへの字に曲げた。特にひと探しは進展しなさそうだったので、バイトの概要を聞いておく。
バンケットサービスのバイトと言いつつ、結局やることは男のコンパみたいなものらしかった。テレビの印象だけで僕はキヨマをヘテロだと思っていたから、実際そうなのかもしれなくても、そういう性を使って商売をするというのがやや意外ではあった。少し前に、タレント事務所で大きな問題もあったことだし。僕は別に、自分が未成年とか大人の男に乱暴をされるかもしれないとかそういうつまらない危惧はあまり持っていなかった。身の危険を感じることがあっても、酒と食べ物で怠惰にむくれた成人の肉体よりも自分の身体の方が優れているという謎の自信もあった。厭なら跳ね除けられるという確信。いつかそれは無くなってしまうのかもしれないけれど、今までそれがあるから、僕は妹といつも何度でも外出ができた。彼女を守れるのは僕だけだと思ったし、僕を支えてくれるのは妹でなくてはならないと思っていた。
さて、エミーにこの状況をいったん報告するべきだろうか。見知らぬ子どもを事務所へ招き入れて勧誘だから面接だか分からない何かを勝手に始める大人をどう思うか、答え合わせをしておくべきかな?
ちょうどいい頃合いで左腕のスマートウォッチが光る。小さな画面に浮かぶ通知バーには《GO》の文字。ああ、僕その小説も好き。だけどエミュレットにはくすぐったそうに身をくねらせながら「あんまりトワに似合わなくて」って揶揄われそうだから、それを話したことはない。
「やります。どのみち、しばらく毎日暇です」
二つ返事にキヨマも喜んだ。
「助かるよ。きみ、顔が整ってるし体も鍛えていてとても健康的。モテると思うんだよな。ここが本当に芸能事務所だったら、ちょっとモデルもやらない? って話くらいしてたかもね」
「そういうのはやらないんですか」
「やらない」
彼はすげなく言った。
「俺、芸人やってたの、ウスとまた会いたかったからなんだ。ある時ちょっとはぐれてて。今はもう見つかったから別に。テレビももともと好きじゃないんだよね、あそこに生きてる人間みんな苦手」
平川さんのことも嫌いですか。僕が尋ねると、元人気お笑い芸人は軽く肩をすくめて笑うだけだった。それからデスクのパソコンで僕のカルテみたいなのを簡単に作っていった。丸谷凡三の免許証を見せて、嘘の生年月日を言うと、僕はここでも十八歳の成人になれた。次の相手ははじめから僕の正体を知っているとエミュレットに脅されていたけれど、それは今ではないらしい。
それから、ホテルオークラのプレステージタワー41階が僕の日常に加わった。
朝起きて妹の病院へ顔を出し、スポーツセンターで汗を流してからコーヒーを飲む。昼食は食べる時もあるけれど何も腹に入れない日がほとんど。午後三時くらいに菊川の事務所へ顔を出す。キヨマが僕にその日のスケジュール表を渡す。同じ雛形で日付と人数と主催その他ちょっとした内容が差し替わる情報に従って、虎ノ門まで自転車で向かう。
午後五時、宴会が始まるまではまだ二時間ほど余裕があるが、インゼクトがら派遣された青年たちが続々と宴会場に集まってくる。彼らは僕よりもずっと先輩で、衣装の着こなしもすっきりしているし、何度か会っているであろう客の名前と顔をよく覚えて把握していた。僕に車寄せから宴会場の案内ルートの確認と、その間にお喋りをするネタを二、三、披露してくれた。
何度か入ったシフトで、僕は二十二歳のハマさんと組むことが多かった。客も彼のことをよく覚えていて、ハマさんは客にちょっかいを出されてもまったく怒らない。主催の意図で宴会に女性のコンパを入れない理由は、今の流行り、会場内がクリーンな雰囲気に見えるから、もともとそういう趣向の集まりで喜ばれるから、などなど。ただちょっかいといってもここにくる客はみな品が良くて、体に触れるほどの接触はほぼ求められない。もしもスーツの男性に今夜部屋をとってあるんだ、と言われたらそれはまったく別の仕事で、キヨマからいつ辞めてもいいと思っているなら行ってきていい、とだけ言われていた。ハマさんはその場ではいいも悪いも答えないけれど、何度か行ったかもしれないし、実はそこにおいては清廉潔白かもしれない。
宴会場の客層は種目は違えどほとんどが同じだった。大手企業の管理者研修の懇親会、金融商品を扱うベンチャーの投資者説明会、医師会の定期総会、大学教授会のパーティー、こんなあたりだろうか。同じフロアの似たような規模感であれば仕方がないかもしれないけれど、夏の納涼会シーズンで毎日の既視感が酷かった。給仕の時にうっかり前日とまったく同じ口上をしてしまったことがあって、はじめのうちはこの仕事はあまり向いていないと落ち込んだ。今はそれも当たり前で、むしろ手持ちのセリフのパターンが減れば減るほど、課された役割を満たす人間になっているような気さえした。
毎日たくさんの人間と遭遇するので、僕のことを気に入ってくれるひともいた。医師会の集まりで会った東先生は「おかわりを持ってくる時、前のを飲み終えるまでここにいてくれるかな」なんて甘えてみせてくれたし、印刷会社の取締役の島根さんは、来春から自分の会社に入らないかと冗談を言ってくれた。
お酒でほどよく気分が良くなった大人たちは、とても簡単に扱える生き物になっていた。それがシンプルですごく働きやすい、とキヨマに言うと、彼は珍しく素顔に近い顔で笑った。
「マルもそのタイプか。前にも同じようなこと言うやつがいたよ」
そうだ、僕はチャッキーを探しているという最も重くて大切な任務があった。今できることを、粛々と進めなければ。
四回目のシフトで、意外な人物と再会した。
「……久しぶり。憶えてる?」
顔を見た時は一瞬で何者かを思い出せて、そのあとふと、名前を聞いていたのかも憶えていないことを悟り、うなずこうとしていた頭をぴたりと止めた。僕の微妙な反応は、事実を認めたくないのだと捉えられたらしく、彼はすぐに顔を伏せ、ごめん忘れて、とその場を歩き去った。
揃いの白いシャツにライトグレーのネクタイ、黒ベストと細身のスラックスで僕らは宴会場のビュッフェの傍に立つ。ホテルスタッフがカットや取り分けをしてくれていて、グラスの氷がなくなると奥からデカンタを運んで来てくれる。
他のスタッフは「それはホテルがやるからいいよ」と置いたままにしている、使用済みの食器をまとめて裏手のコンテナへ下げに行くと、さっきの男と出くわした。
「あっ」
僕の方が勝手に近寄っていったのに、彼はみるみる狼狽えていく。取り落としそうになった食器をがしゃんと乱暴に積み上げて、すれ違いざま走り去ろうとしているのを、僕が足をひょいと出すとあっさり躓いた。かわいそうに、こんなの簡単に罠にかかってたぬき汁にされてしまう。転びかかった男の体を引っ張り上げた。彼は今にも泣きそうな顔をしている。
「忘れてない、バールの、ごめん名前しらないから」
ちょっとばつが悪くなってもごもごと語尾を濁すと、男はそれでも安心したみたいだった。
「帰る時、ひとりで車に残して悪かったと思って」
「いや、あれは別に」
「マルがいちばん強かったから。最初の武器を渡してくれたひと、タニがあのあとすぐにやっちゃったんだって。車降りたあと、オノが教えてくれたんだ」
自分が思ったよりたくさん人間が出てきて混乱した。あの晩、僕は平川さん以外にも誰かと会っていたんだっけ?
それで、今日も受付時間になると僕らはエレベーターで車寄せのところまで下りていく。控室から十メートル以上離れると、手首に嵌めたスマートウォッチはただのデジタル時計になった。スマホの本体と連携が絶えた小さな電子機器は時折アラートを出す。会いたいけど会えないね、怖くて震えちゃうね、よしよし。手に巻きついている厄介な機械を心の中で慰める。僕はこれをイモムシに押しつけて鞄の中へ閉じ込めておかなかったことを少しだけ後悔する。
黒塗りのタクシーが何台か続けて止まった。賓客たちの顔をほとんどすべて記憶している先輩たちが愛想良く挨拶してから、回転ドアの脇にいる僕や他の新入りの男子たちに役割を振り分けてくれる。僕は髪をぴっちりと固めた社員証をぶら下げたままの銀行員と思しき男の方へ向かって軽く手を上げ、ご案内します、と声をかけた。瞳の小さなつり目に太い眉毛、背も僕より低いがいい体をしている。中学高校くらいの時に、格闘技とかラグビーとか、フィジカルな仕事をしていた名残が見える。ああこいつ、ネコだ。最近はなんとなく同性が〝そう〟なのか、僕は勝手に見分けがつくようになっていた。どうやら宴会場にボーイが配置されていることを、彼は知らされずにここへきたようだった。先に入ったエレベーターのボタンを押してドアを開けてやる時に目が合う。彼の方も、僕のことを見て何かに気づいたようだった。
「キヨマの会社の子」
インゼクトのロゴタイプが刻まれたネームプレートを指さされる。はい、と首肯すると、気難しそうな銀行員は、微かに眉尻を下げ、へえ、と返した。
エレベーターは41階まで一気にかけのぼる。耳抜きがうまくできずに何度も唾を飲んでいると、向こうは小さくため息をつき、降りたらトイレはどちら側にあるかと聞いてきた。左手の通路を進みます、ご案内します。直方体の窮屈なゴンドラが時間をかけてゆっくりと失速していく。
ドアが開くと別の客人を案内しているハマさんと入れ違いになった。髭を蓄えた壮年の男性の隣で、ハマさんは少し嬉しそうにしていた。ああ、そういうことなのかな、と思いながら降りたエレベーターを譲り、髭紳士の背中を見送った。プレステージタワーの2階には小宴会場があり、脇に着替え室が用意されている。そこで何をするでもないだろうが、何かをしにいったのは確かだろう。
トイレの前まで銀行員を連れていき、受付のところで待っていると告げて会場まで戻った。元バール男もメンバーに含まれている。僕と同じで呼ばれたら断らないスタンスでシフトを詰め込んでいるみたいだ。ここなら危ない目に遭わずに働けると思い、日銭を稼ぐ避難所みたいにしているのかもしれない。もしかしたら彼は、いつか客の誰かにそっと手を握られたり、腰や尻を触られるなんてこと、まったく想像していない可能性もある。それとも、既に不意打ちを食らって、どういうことか困惑を隠しながら、それでも他に良いところがないからと続けているか。
つまり僕は、まさか元バール男が先の銀行員を狙うなんてまったく思っていなかったから、そのあとに起こったことは完全に想定外だった。
トイレから戻ってきた銀行員のところへさっと接近すると、元バール男はあっという間に隣を陣取り、彼の世話係ポジションを獲得することに成功した。ひとによっては「なんと明け透けな」と思えるほど分かりやすい対応だったけれど、銀行員がまんざらでもない顔をしていたために先輩たちの忠告も入らなかった。ハマさんは常々、ルームの雰囲気を調整することが仕事で、目の前の客の機嫌も大事だがそれだけが自分の評価ではないと言ってそういう地味な役回りも引き受けてくれていたが、元バール男の今日の態度はそれとまったく逆だった。臆病なくせに集団での行動において大胆という点においては、あの中村橋のきな臭い夜闇で僕が見た彼とやはり同じ人間だった。
しかし、僕の方もあの生真面目な銀行員のことがかなり気になっていた。どうして自分のネームプレートを指さしてインゼクトのスタッフであることを確認したのだろう。宴会が始まり、近くの出席者と名刺交換を済ませた後も、彼は何度もしきりに会場内を見回し、中の人間の顔を注意深く観察しているようだった。
途中、銀行員のところに体格の良い男性が寄ってきて、なにやら熱心に話し込んでいた。ふたりはいちど話を終えた後、別の場所で立食しつつまた言葉を交わしていた。互いに興味のある領域の相手が見つかりそう、というところだろうか。
今晩の宴席は、メガバンクの投資事業が主催する、個人投資家と起業・新事業などで融資が必要な新興起業とのマッチングを兼ねたもののようだ。出席者のほとんどが少なくとも一回以上融資のマッチングで成功しているらしく、今日も今後のパートナー関係の拡大を狙っての名刺交換会のようなものらしい。
《こんなところにわざわざ来なくても、Zoomでよくない? と僕は思ってしまう》
思わず妹にLINEでそう吐露すると、
《あなたは相手と交際するまでのデートが億劫だからチャットだけでいいなんて言うのかしら?》
と一蹴された。そんないじわる言わないでよ。僕ってけっこう生き急いでいて、知り合って0日でセックスっていうなりゆきでもぜんぜん気にしないタイプ。でもそれってふたりが結ばれるまでの間に、デートしたり連絡を取り合ったりする時間も気ぜわしさもぜんぶ放棄したわけではなく、会った瞬間にもう何もかも決まっていたという意味で、圧倒的に強くて本能的な引き合いだから。むしろ、そうやって手間をかけて時間を過ごす間に、運命からかなり譲歩された打算的両想いの関係が堅実に成り立っていくはずだけど、そこまで自分の体力を賭して努力すべきか、って自問しちゃいそうなんだ。
お金の関係は人間の感情の関係よりもさらに複雑でわかりにくい。利害関係の自分本位は、相手への好意とは決してならない気がする。けれどお互いの自己中心的な思考によって行動した結果、相手の利潤に繋がるという発想は、大人になったらみな当たり前にできるようになるのだろうか。
ハマさんから、演台すぐそばのエリアの食事が足りないからと給仕を頼まれる。そこは着席のテーブルが並ぶ区画だったが立ち話の人間も加わった人口過密エリアで、高尚な論説と笑い声の合間にローストビーフやカプレーゼ、燻製アラカルトなどを欲しているようにみえた。黒い丸盆に皿を斜めに挟んで乗せていっぺんに運び、頃合いのよさそうな人物に話しかけて手渡しをしていく。不要になった食器を下げ、丸盆を持ち替え、また配りに行く。途中で声をかけられればワインでもスパークリングでも届けに行った。面白いくらいに、会場の中には男性しかいなかった。俯瞰で見ればやや奇妙に見える光景も、ハマさんの指示の声が耳に届くとまたどうでも良くなってくる。
定刻で宴会時間が終わり、インゼクトのスタッフはタクシー乗車の案内のため、再び会場から1階までの各所を手分けすることになった。僕が食器の片づけでやや遅れてエレベーターホールへ向かうと、元バール男はその時はまたひとりに戻っていた。あの銀行員からは嫌われてしまったのだろうか。まあ、ネコといってもあくまでも僕からそう読み取れたというだけで、当人に確かな自覚があるかどうかも分からなかったし。
こちらに気づいた男が分かりやすい作り笑いを見せて「今日、疲れたね」と言った。疲れたという単語から、ジムに通っていた頃に日々背負って帰っていた肉体の疲労がやや恋しくなり、できればもっとしっかり筋肉の破壊と再生を味わって寝たい、と本音で答えた。元バール男は目を丸くしたあと、僕を見て今度は普通に笑った。
「面白いね、マルは」
「そう? もっとおもしろいひとが世の中にいくらでもいるからな」
ほら、今日ここに来ているひとたちだって。会場を見回しながらそう答えるついでに、僕はまたあの銀行員を目で探していた。
繰り返すけど、僕のタイプを分かりやすく言えば平川信夫さんで、好きなひとはただひとり、灰野辺千秋だけだ。その他の人間については悲しいくらい興味がなくて、この先の僕の人生において、一塵の疵ほどにも影響のない存在だと思っている。僕を扶養する大人は母さんで、話し相手はエミュレット、楽しみは東京都区内のブックオフ巡り、あと有り余った体力を燃焼する何らかの手段があればそれでいい。今頃ジムがつぶれずに済んでいたのなら、一生おなじ試合の相手をあてがわれても文句は言わなかった。僕の身体は、いつかチャッキーに使ってもらうためのものだから。
エレベーターから車寄せの方へ向かっていくと、雑多に重なり合う会話の中で小さな違和感があった。さっきまでは感じなかった甘ったるい匂いを感じていたからかもしれなかった。すぐ近くの元バール男へ視線を送ったが、彼はまだなにも察知していない。
おかしい、今ここで何かが狙われているとしても、標的がどこかが分からない。サリンみたいに無差別にヒトを攻撃するのが目的だったら、発見が遅れるように無色無臭にするのがセオリーだ。まるで誘っているように漂う香りが猛烈な不快感を呼んだ。女性でも香水だと思う程度の微かな不穏分子を、画面越しだけの会話ではエミュレットにも確かめようがない。せめてヒントの共有くらいできればよかったが、しかも本体から離れたスマートウォッチでは返事は見込めなかった。
「変な匂い」
音声だけ吹き込んで、すぐに違和感の方へ接近した。
エントランスの方へ向かうと、匂いの元は霞んでいき、ほとんど分からなくなってしまう。行方をくらまされた焦燥がじわっと襟足に滲む。静穏の中にできた小さな亀裂は、解へ繋がる思わぬ糸口かもしれないのだ。スーツ姿の群生に紛れて右へ左へと動きながら、見失いかけている標的を追いかける。どこだ、チャッキー、きみを知るひとなら誰でもいい、出てきてくれ、お願いだから。
停車したタクシーのドアが開く動作がふと目に入った。そちらへ歩いていくふたりの男性の影が怪しい。ひとりはあの気難しい銀行員じゃないか。やっぱりあのネコ、はじめから少し変だと思った。
大股で追いついて、銀行員の腰を抱いて歩く男の肩を引いた。会場で再三彼を口説いていた、体格のいい男だった。名前は憶えていない、サイバーセキュリティ関連の商品を取り扱うサーバー屋だという情報だけなぜか頭の中に入っていた。
「あの」
ああ、失敗した。僕はこういう時、体よく取り繕うための飾り言葉をまったく用意しなくて、手だけがにゅっと先に出てしまう。急に呼び止められるどころか、不躾に肩を掴まれた男が振り返る。顔いっぱいに不快感が塗られている。あ、こいつ、先に殴りかかってくる方のタイプだ。ラッキー、やったね。スマートウォッチのベルトを外して、ベストのポケットに素早くしまった。
「何だ」
棘のある声を出して男が振り返ると、がっちりと支えてられていた銀行員の体がぐらっと重心を崩した。鞄を持っていない左腕がだらりと横に垂れる。銀行員の方からさっきの甘い香りがした。レイプドラッグ、ずいぶん古典的な。
まるで自分の耳でむかし聞いたことのように、タクシー運転手のせりふがよみがえった。
〝夜桜に浮かれて、飲まされたんでせう。悪い薬かもしれません。
しめやかに憐れむような口調、戦慄する真佐子嬢の目の前を葬列じみた一行は蜃気楼の如くに失せ——。〟
「トーワ、前を見て!」
エミュレットの声が横やりに刺さった。いや、ここにはいないはずだけれど。もしかしてスマートウォッチが防犯ブザーみたいな役割を果たしたのかな。ポケットにあるデバイスがどんな働きをしたのかを確かめる暇はない。
そこで『輝く日の宮』冒頭の妄想ごっこは終わり。僕は学生運動期にその首謀者と逢瀬を重ねるイイトコの淑女ではなく、読書や考え事でくすぐったくなるとぶつかる相手が欲しくなるような、色恋よりもすっきりした身体的抗争を好む、短絡的な子どもなので。
「僕が持ち帰る予定だった、って言ったら、譲ってくれます?」
返事を待つまでもなく、拳を相手の顎を狙って振った。男は銀行員をつき飛ばして僕の胸座を掴みかかろうとしてくる。どかっと開いたタクシーのドアにもたれかかりゆっくりと倒れる銀行員を、僕についてきていた元バール男が咄嗟に支えた。
今のうちに彼をタクシーに押し込んでくれよ。何ならきみも同乗して、インゼクトに逃げ帰ってくれればいいんだけど。
はじめに会った時に考えがめぐらなかった僕は本当におばかだ。彼はキヨマと同じ陸海大学お笑いサークルROS出身の元マネージャー、本名は石田恒太だけどなぜかあだ名はウス。マネっていうからモノマネ芸人かと思ってた、ぜんぜん違うじゃん。彼は昔のROSの動画チャンネルにアップされたライブ映像で、よく舞台袖から芸人の部員たちにダメ出しの怒号を浴びせるキャラクターだった。各映像がまったくバズを記録したわけではなかったからノーマークだったのだ。僕は清水真人の惚気話を聞かされてただけだったってわけ。
軽く打ったジャブをよけた男は血相を変えて殴りかかってきた。僕以上に暴力において何も思考していない動きだ。ただ速い。嵩があるから腕を振られると不注意な筋肉が一瞬竦む。この反射をわざと殺して四肢を動かすという脳の指示が送れるようになるには、ひたすら反復して、恐怖を感じ続けること。
もっと大きくて重量のある選手たちに殴られ続けた結果、僕は一発目を頭か腹かどこかに食らうリスクを受容し、男の懐に突っ込むことを選んだ。リバー狙いで拳を振るが左腕が交差するように抜けて遮られる。ステップで少しさがり、向こうに作戦を持たせるより先に頬、顳顬、鼻、と顔面をしつこく打った。すぐに胴が無防備になって、相手がそれに気づく。目に怒りと恐怖が滲んでいる。次のアクションは、僕の攻撃にひるまず突進してこようとするものだろう。周囲の人間が騒ぎを止めようと集まってきていて、隙あらば僕と男を取り押さえようとしているのも見えた。というか、この十数秒の間、誰も格闘に割って入ってこない方が不思議だ。もしかして、みんな男の肩を持って〝この生意気な坊主を叩きのめしてしまってくれ〟なんて思ってたりする?
どっと突進してきた男と、その後ろに駆け込んでくる、僕と同じ制服姿のスタッフが二、三人見えた。ジムのスパーではとうてい決まらなかった肝臓狙いのパンチは、今もブラボーとまではいかない中途半端な一発で終わった。でもまあ、楽しいことは楽しい。手のひらがじいんと痺れて口角が上がってしまうくらいには。
相手の男がよろめいて、やっと周囲のスタッフたちがどよどよと詰めて僕らを押さえつけた。元バール男の姿を探したが見つからず、タクシーの後部座席に半分横になって泥のように眠るウスを確かめてから近くのハマさんを呼んだ。
「彼のこと知ってます? 清水さんの友だちなんです」
ハマさんは何も知らなかったみたいで「石田さんは、よくここで会うから知ってるけど……」と言い淀んだ。
「何か盛られてますよね。様子がおかしい」
「気づかなかった、おまえどうして」
動揺するハマさんを半ば強引にタクシーの方まで連れて行き、ウスの脚を座席の方へ折り畳んで入れてから、彼の同乗を促した。
「僕、今日は自転車で来ちゃったんで、ハマさんに送るのお願いしていいですか。すぐに荷物持って菊川の事務所へ行きます」
「本当に、清水さんの知り合いで間違ってない?」
怪訝そうな顔をする彼を何とか説き伏せて一緒にタクシーに乗ってもらう。ハマさんはスマホを持ち歩いていたので、僕の電話番号を清水真人から聞いておいてほしいと頼んだ。
助手席の後ろに乗ったハマさんの膝の上に身を乗り出し、泥酔状態で目を閉じているウスの顔をのぞき込む。指で頬を弾いても、ウスは寝息みたいなのをぷうぷうと立てているだけで、何も反応しなかった。大丈夫かな、と一緒になって顔をのぞき込むハマさんの影で、ウスの顔がいっそう青くなって見える。
「……目が覚めたら、あんたにもチャッキーのこと聞くから。起きたら思い出しておいてください」
薬で朦朧とした意識の向こう側で、ウスはうっすらと目を開けた。両眼はどこにも焦点を合わせず、すぐにまた瞼を閉じてしまった。
車寄せから出ていくタクシーを見守る。踵を返すと、騒ぎの男はちょうどホテルスタッフに連れていかれるところだった。タクシーが発進するまでの間は今すぐにでも自転車に飛び乗ってインゼクトの事務所へ向かうことだけを考えていたけれど、僕もあの男と同じようにしかるべきところに連行される運命だと悟った。
「ちょっと失敗、くらいで許されると思う?」
ポケットの中のスマートウォッチに話しかけてみる。やはり返事はなかった。当たり前か。もしもここで電波の通じるところにデバイスがあっても、こういう時のエミーはいつも、僕に少しもかまってくれないんだから。
*
チャッキーの姿は不意に、思考の奥からぼんやりと浮かんできてこちらへゆっくりと歩いてくる。彼はいつも身軽で両手に荷物は持っていない状態だし、僕が見たことのある服装でしか登場してくれない。匂いの記憶は月日の経過とともに曖昧になるのだろうか、ぼんやり浮かぶ彼からは会った時に嗅いだすえたような刺激臭は漂っていなかった。
再会するチャッキーの像はやっぱりかなり若い。今日は髪を染めていなくて、左の耳たぶが開けたばかりのピアスのせいか赤く腫れていて、物憂げな顔をしていた。
「チアキも一緒に来る?」
風を横顔に受けながら、周りには聞こえない声で話しかけてみる。蛎殻町の五差路まで信号につかまらずまっすぐに走り抜けていた僕の自転車を、思考の奥のチャッキーは幽霊みたいにすうっと並走してくる。
池袋駅南口の有楽町線改札横で、彼が誰にも気づかれないようにそっと座っている姿を記憶から引っ張り出した。タイルにそのまま腰を下ろして、胡座もかかずずっと跪坐のまま、ごくたまに、誰かが不意に落としてしまったもの、故意に不要なものを手から放したもの、行き交うひとからこぼれ出たものを、ゆっくりゆっくり拾い上げて集める。白い皺だらけのポリ袋に、集まった使えないもの、たとえばワイヤレスイヤホンの片側とか、充電ケーブルのコードだけとか、ストラップのカニカン、中身が半分に割れたティッシュ、蓋のない目薬、擦れて色落ちした写真とかが、終の住処みたいにそこで息を引き取るのを待っているようだった。
それが墓場に見えないのがなぜなのか、妹と少し話したことがある。どこかまた行くあてが見つかるかもしれないからかな。唐突に、別のところで需要がうまれるとか。需要って? さあ、分からない。でもあれはただのゴミになるだけで集められたの? チャッキーはそんなことはしないんじゃないかな、意味を見出して、選んで集めているんだよ。
いつか、彼がいなくなってしまう前に、エミュレットがそれに値をつけて引き取ってみようかと言ったことがある。
「彼の生活の助けになるかもしれないし、私たちのいい研究テーマになるかも」
僕はそれを彼に伝え、彼も概ね同意していた。けれどそのあとすぐ、チャッキーはいなくなってしまった。
「今もまだ集めてるの」
幻影のチャッキーに尋ねてみる。もちろん答えはない。ここにいる彼は僕が作り出しただけのものだから、僕が思い通りの彼の応答を妄想するか、何も知らない子どものようにきょとんとして首を傾げるくらいのことしかしてくれない。
赤信号の間にペダルを止めて縁石に片足を踏み締めていると、実態のないチャッキーはすうと傍へ寄って、僕の腰を抱いた。
「今はできないよ」
そう言いつつも、ちゃっかりキスを強請ろうとしていた僕には気づいてくれないらしい。青信号になる。大きな手が腰から簡単に剥がれ落ちた。自転車を漕ぎ出す。彼はまた律儀に同じ速度で横並びについてくる。
ホテルオークラでの騒動の後処理から解放されて僕が菊川へ着いたのは日付を跨いだ後だった。財布が入ったハマさんの鞄と自分のボディバッグは宴会場の控え室から管理事務所に引き上げられていて、免許証の生年月日や住所の番地、ハマさんとの関係を散々尋ねられたけどその先の手続きは進まない。もう返却は無理じゃないかと思った頃、一本の電話の後にあっさりと荷物が手元に戻った。僕の帰りが遅いことを危惧したキヨマが、事務所の人間によく効く魔法の言葉を唱えたのかもしれなかった。
僕に鼻面とボディを殴られた男は、自分はただのインターネットインフラ系の会社の経営者で、銀行員のウスとは投資の話で意気投合したと釈明した。話が盛り上がり、立食の時に強い酒を勧めてしまった。酔わせた自分に責任があるので送り届けようとしていた、とか云々。
僕はそれを聞いて「ああ、海外拠点のサーバー屋って、最近流行ってる詐欺グループで、高校生誘拐して働かせてるってところか。確かに24365監視拠点で流行ってるのはコストのかからない東南アジア」と思った。ウスのケースは単純に弱味を握って搾り取ろうとしただけなのか、それともそういう〝海外拠点〟に赴いても決して不自然ではない人間をコマとして、何からのシゴトをさせようとしていたか。
僕の誇大な妄想は頭の中でふわんと広がっただけでなく実際に口に出てしまったらしく、男はその場で勢いよく立ち上がり、パイプ椅子を振り上げた。避けた僕の代わりにホテルスタッフの男がひとり怪我を負ってあたりは再び騒然となり、このまま警察までご一緒コースかと覚悟していたのに、大人の事情が成立したのか、僕だけそのまま帰された。身分証の提示も連絡先の確認もされなかったのでかえって心配になる。何かあれば責任を負うのは僕ではなくキヨマ、人材派遣の会社もそれなりに大変なのだろう。たぶんこのまま定職の雇用者にも事業主にもならなさそうな僕が考えるだけ仕方のないことだけど。
自転車はコンビニには留めず、菊川のマンションに自転車をそのまま運び入れる。狭い廊下を注意深く通り抜けながら、インゼクトの事務所へ向かった。角部屋のドア前についているアルコープの門を開けて中のスペースに駐輪する。迷惑がってくれるなよ、僕だってウスのことはそこそこに不測の事案だったんだから。
インターホンを鳴らして応答を待つ。ベルの余韻が伸びきって、音が途切れてから三秒、ようやく玄関からごそごそ物音が聞こえた。
出てきたのはボスである清水真人ではなくハマさんだった。そういえば、はじめからこの人の名前だけはちゃんと記憶していられている。どうしてだろう、顔がそこまで好みというわけでも惹かれる何かがあるというわけでもないのに。あれかな、もしかしてやっぱり最近、本当に僕は大人になりかけているのかも。
呑気に考え事をしている間に、ハマさんはちょっと泣きそうな顔になって、「遅かったな」と僕を招き入れた。夜の事務所に来るのは初めてだ。廊下もリビングスペースも灯りが落ちていて仄暗い。目が慣れるまでやや時間が経ってから、廊下の向こうに立っている人影が見えた。はじめ、元バール男かと思って目を凝らしていたが、マスクをした目元だけの顔を見て、すぐに平川信夫さんと再会したことに気づいた。一度目の照合に比べて、今回はやや気象予報士のご当人と同一人物であるかの確定に自信が持てなかった。やっぱりあの晩の強烈なアドレナリンの噴出によって視覚野に歪みが出たのだろうか。
っていうかキヨマもこの人が偽の平川信夫だと知っているのかな? ここにいるということはインゼクトのスタッフ、と考えて良いのか……?
清水さんたちは、と尋ねると、ハマさんは即座に「病院からまだ戻らない」と答えた。返される声に匂いがあるとしたら、僕はそれをちょうど嗅ぎ取ったのだと思う。根拠はない、けれどそれは紛れもない大きな疑念。未だエミュレットと通信できない現状ではあるけれど、大至急その答え合わせをしなくてはならない。普段使わない僕の粗末なCPUのクーラーファンがブウウウンと元気に旋回を始めた。
答え合わせ一、ハマさんは僕に荷物を運ばせることを憶えているか。
「それ、ありがとうな、俺の鞄」
憶えていた。初問はご名答。
答え合わせ二、このタイミングで誰かのスマホが鳴るか。
小鳥のさえずりみたいなメロディが流れる。キッズケータイみたいな音、持っているのは奥の偽平川らしい。ハマさんが怪訝な顔をして振り返り、電話ですか、とぶっきらぼうに言った。平川信夫は答えない、カメラが仕込まれている恐れがある時には声を出すことを禁じているから。
彼のシグナルはまだ生きているらしい。それを確認できる頃にはメッセージが雪の結晶を手に置くようにもう溶けてなくなっている。こちらも正解。
答え合わせ三。
「ああ、ごめん、こんなところで立ち止まって。マルも中で待とう」
僕を招き入れるつもりで、ハマさんは手のひらで大きくドアを押した。フローリングから微かにじゃりっと小石が擦れるみたいな音がした。彼は室内でも靴を履いたままだった。
侵入者ふたりを前にして、僕は後ろ手で停めた自転車を触りながら、じりじりアルコープを下がろうとした。腰を低くする。ハマさんは僕に「おい」と唸り声を上げた。返事をしないでぱっと踵を返す。
「敷島斗和!」
背中に刺さる怒号、エミュレットが言っていた予期せぬ事態とはまさにこれではない? だって答え合わせが三つ揃ったわけなんだし。僕はただ逃げるしかなくなって、ひと跳びでマンションの通路を乗り越えた。石炭みたいなアスファルトをスニーカーでざりざりと擦りながら走る。飛び出た道の左手から2トントラックがこちらへ向かって走ってきたのが見えた。前に進む。複雑な路地で、先が行き止まりの気配がした。川辺に出てからそこに沿って走ろう。戸建ての敷地の中をお邪魔して煉瓦の壁をよじ登り、また乗り越える。先客のキジトラ猫と目が合った。夜の散歩を邪魔してごめんよ。言いながら飛び降りる、ボディバッグのファスナーが開いたままになっていて、中身が溢れそうになるのを咄嗟に手で押さえた。柔らかく飛び出た物体の感触がある。それでようやく、僕は相棒イモムシの存在を思い出した。ありがとうエミュレット、やっぱりいちばん、愛しているのは僕の千世だけだ。
「また呼んだわね、ありえない、どうかしてる、私はそのね、破けた包みが絡んで剥けなくなった魚肉ソーセージの割れ目みたいな名前が! 大嫌いなの!」
僕が壁を飛び降りてすぐ、少し離れたところでアスファルトを蹴る音がした。ハマさんは想像以上に捕捉が得意のようだ。僕は妄想エミュレットの悪態によって両脚にむきむきと元気を送り込み、今なら首都高も走ってエントリーできるかも、なんてばかなことを考えて走った。
一方通行ダンジョンの住宅街を抜け、次のブロックの曲がり角でハマさんと鉢合わせしないかと思いながらぬるぬると入り組んだ道を縫うように突き進んだ。カーブミラーに映る闇に何も隠れていないことを確認して広い通りに出る。猿江橋を渡る手前で怒鳴り声が聞こえたのでいよいよ追いつかれることを覚悟した。
その時、後ろからパッパッとハイビームを瞬かせながら、路肩ぎりぎりを直進する車が一台。赤っぽい塗装のN―BOXカスタムが結構なスピードでこちらへ距離を詰めてくる。
「マル、こい!」
運転手は元バール男だった。自動のスライドドアが開いている。力いっぱい加速してジャンプ、後部座席に大きな音を立てて滑り込む。座席はフラットになっていて、慣性で横向きに吹っ飛ばされた体をマット運動のようにごろんと回転させて衝撃を殺すことができた。それでもあちこち擦りむいて、殴打の痕みたいに体が痛む。僕が起き上がるまでの間にドアはゆっくりと自動で閉まり、車内に響いていたアラートは落ち着いた。オーディオはぷつぷつと音を途切れさせながら短波のラジオが入っている。運転席の男は両手が白くなるくらいしっかりとハンドルを握りながら、「無事い?」とひっくり返った声を出した。
「無事、だと思う、なにこれ」
鼻水が垂れ続けると思って拳で拭うと、手の甲にぬるっと血が付着した。疾走している時にもう出ていたのか、今の飛び乗りでどこかをぶつけて出血したのか分からなかった。
ハマさんの姿は今は見えなくなっていた。さすがに足だけでどこまでも追いかけてはこないはずだ。しかし奥にいた偽平川信夫が例のハイエースを出してN―BOXカスタムを見つけ出すかもしれない。僕は手で鼻を押さえながら「貰います」と言ってダッシュボードに置いてあるボックスティッシュに手を伸ばした。
車は新大橋通りを東にすいすいと進んでいる。車窓を横切るガストやなか卯の看板を見て、そういえばひどくお腹が減っている状態なのを思い出した。手についた血を拭い、鼻に適当な詰め物をする。フラットの後部座席から前へ身を乗り出し、助手席の背面を抱くようにしてフロントガラスの景色を確かめた。
汚れなかった方の手でボディバッグをまさぐった。中にイモムシはいたが、元のように胴に巻きつけたと思っていたスマートウォッチの感触がなかった。どこかへ落としてきたかな。エミュレットは僕の位置情報をスマホから拾えているだろうか。その端末自体もボディバッグにきちんと入れていたかあまり自信がなかった。
さっき、いつかの夜盗の連中へ連絡を取るためにシグナルを使う方のSIMを有効にしてそのままだった。何か動きがあると思ってくれるといいけど。
声が聞きたいなぁ、エミュレット。夜の病棟にこっそり忍び込んで、きみの透明マントで隠れた足の下で蹲って少し眠らせてくれないか。
がくっと一度船を漕いだ時、いけない、と慌てて頭を振ったが、運転席の元バール男はがちがちに肩をいからせているのを見て、見ながらやがてのろのろと瞼が落ちていった。
車の鈍い振動を感じながら、僕はずいぶん寝てしまったようだった。たぶん、ここのところ不真面目だった睡眠生活を取り戻すように、まるまる三日分くらい。
気持ち良く深い眠りにつき、投げ出した肉体を好きなようにされ、目が覚めた時にそれが大きな過ちだったと気づくけれど、もうどうしようもなかった。
頭が目より先に醒めて、重たい瞬きを何度かすると景色が戻ってきた。さっきまですぐそばにいた元バール男の姿はない。目を離すとすぐにいなくなるやつだなと小さくため息をつくと、自然に身震いが出た。身震い? 今はどちらかというと、寝苦しくて起きるくらいの蒸し暑さなのに?
徐々にあたりの様子が分かるようになってくる。体は横向きに倒れたまま思うように動かない。スーツケースのバンドみたいなもので手足をがっちりと縛られ、目の前には煌々と光るタブレット画面が置かれていた。音声のない、静止画をつなげただけのWEB広告調のものが繰り返し再生され続けていた。
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背中の後ろでドアが開く。へえ、この部屋にはドアがあるんだ、乏しい内部の情報がひとつ増えた。苛立った足音、僕が冷静でないからかもしれないが、相手の態度から感情を拾うために、一挙手一投足、すべて躍起になって収集する。
足音しか知り得ない人間の、今は獲物になっている僕は、これからどんな酷い目に遭わされるのだろう。
ボクシングジムが閉業してからの、僕が犯した数々の大罪について振り返った。Xの捨てアカウントを作った。これは誰でもやってる。犯罪に多用されているチャットアプリをダウンロードした。でも、OSのオフィシャルストアから取得できるものだし。夜盗の心得を少々学び、仲間と暴行沙汰になった。こちらはちょっとナシかな。もしかして元バッド男と元ハンマー男からやや恨みを買ってしまっているのかも。虚構の免許証で身分を偽った。重ねていうと、同人グッズのおもちゃほどのクオリティなんだけど……まあ、だめか。故意に提示したからね。無免許運転。これはほんとにアウト。反則金くらいで済むのだろうか。軽はずみな行動でしくじったと思うのはこれくらい。
あとは、平川信夫が偽物だとわかる前にふたり遊びに誘ったのや、キヨマの事務所をなりゆきで訪ねたこと、五反田のブックオフプラスで憔悴を慰めた時間、エミュレットとコーヒーを飲みつつ病棟のベッドに吸い込ませた言葉の数々のすべてに後悔はしていなかった。僕にとっては今が特別危うい生活をしているのかと言われればそうではなくて、これまで別の要因によって自分が死ぬとか妹を殺すとか、もっと最悪の場面が見えたことは何度だってあったのだ。
いいじゃないか、海外のサーバー屋に扮した特殊詐欺の徒党に拉致されたとか、虐待されながら犯罪に加担させられたとか、そんな類のものがこの先待ち受けていても。どんな窮地においてもきっと絶えず脱出と亡命の手段を考えて実行するし、絶望によって僕の暴力がすっかり制圧されることはないだろう。どちらかというと、かえって元気になるたちだし。妹と話ができなくなるのは悲しいけれど、同時に彼女の安全が確保されている分には特に不満もない。
時間をかけて考え事をしていたおかげで、期待通り燻っていた尿意はどこかへ引っ込んでいった。そして同時に最も重要なことを思い出していた。これがないと血が巡り、心臓が鼓動を打たない。僕はずっと人探しをしていたのだ。
「居所が分かれば教えてほしい」
足音が自分の背中にぴったりくっつくように立ち止まった。このまま蹴られたらそれなりに痛いのは分かっていたが、体はそれほどこわばらなかった。
「灰野辺千秋が今、どこにいるのか」
ほぼ直方体の密室の空間は、冴え冴えと静かだった。呼吸の音、耳の奥で鳴る体内の循環、拘束で服が擦れて痒くなり、たまらず僕が身を捩る時に出る軋み音、それだけ。他は本当に、何もない。時間が経てばじりじりと灯りが出す羽音みたいなのも察知できるようになるかもしれない。胸いっぱいに静寂、このまま死ぬのかな、と自然に思える無が降りていた。
にわかにしゃり、と小さな音が顕在した。刃物が擦れるような、大きな鋏状のものを持っているのだろうか。突かれるのも切られるのもかなり痛そうだ。体を縛られているだけのはずなのに、相変わらずごろごろと転がったり身を捩らせたりすることができない。手足の痺れがひどくなってきて、もしかしたら自分の身体が一時的に機能不全になっていてこの状態を打開できないのかもしれないと思った。
気づかないうちに、口角は下がり、ぜえぜえと喉のあたりで息をするようになっている。平静を取り戻すために大急ぎで頭の中のページをめくる。
淑女真佐子が逢瀬に焦がれる夕闇の時間、手紙や言伝で次は何処其処と導かれ、青年の指示した時間と場所へ暇を潰し続けるが、ついに諦めて自邸へ引き返すことにする。夜桜を見たら八九三に拐われるお嬢さんを見てしまい、すっかり困憊したところに窓辺にすうと浮かぶのは青年の白い霊。虐殺された許嫁からの別れの言葉みたく綺麗に結ばれた短編はそれだけで傑作だった。そのあとの本編がどんなにアカデミックでドラマに溢れ、複合的な解釈で読者が不勉強に唸らされても、僕の『輝く日の宮』のサビは0章に集約されている。
こちらもそろそろ急がないと。チャッキーが夜に幽霊になってニコッと笑ったら消えてしまう。
知らない人間は返事をしない代わりに、シャリシャリと鋏の歯を開けたり閉じたりしながら、ぼくの髪を手で梳いて、後頭部の髪を切り始めた。
どうしてそんなことをされるのか理解の範疇を超えた時、ヒトは生存本能により恐怖を覚えるようにプログラムが組まれている。エミュレットはそれがもともと除外されているアンリミテッド型で、僕はトレーニングによって除外の学習をしたリリース型だ。つまり今の状況は、めちゃくちゃ怖い。鋏でメッタ刺しの方がマシ、なんて心から思う日が来るなんて想像していなかった。たぶん中学の時の僕だったらもう泣いてしまっていたかも。
切った後のことは何も考えていない刈られ方をした髪は、そのまま床に落ちて襟足や背中をちくちくと刺激した。気色悪い。これでこちらが滅入るのをよく知っていてやっているのが分かる。目覚めたさいしょは、ホテルオークラでウスを連れ去ろうとして僕と殴り合った男からの報復だと思っていた。目の前のタブレットにはそれらしいADも流れていたし。ハマさんも奴とグルだったと思えば素直に納得できた。ここもサーバー屋のしみったれたアジトに見えたからまだ心の余裕があったのだ。でもそうではない、誰だこいつは。
すっかり刈り取られた、歪な後頭部を考えるだけで身震いがした。ぞり、と襟足にまた別のものが当たる。鋏の柄を擦られたのだろうかと思っていたら、ちりちりと細かな棘みたいなのにもぶつかった。爪を立てられている、ひとの手。怖気で叫びそうになるのを必死で堪える。
「可愛いね、マル、可愛いよ」
猫撫で声の正体は元バール男だった。もしかしたらハマさんの可能性もあると思っていたけどそれも違った、大外れ。謎はひとつ解けたが別の疑念がまた浮かぶ。弱気なヘテロはただの芝居だったのか、もしくはついさっき何かのきっかけで覚醒したってこと? 僕にも責任の一端が……?
どういう風に答えていいか分からず、ただ「どうも」とだけ返し、相手に気取られないように小さく息を吐いた。
やっぱりここにもチャッキーの足跡はなかった。元バール男にいくら詰め寄ってもそんな人間は知らないで終わるだろう。事実、本当に知らないのだろうし、もっと言えばハイエースのドライバーが偽平川信夫で、本物の平川信夫と朝ヨーグルトのキヨマは面識があり、キヨマはウスのことが好きで、ウスは薬を盛られた銀行員だということを知らないのだ。さらに踏み込むと、僕がジム通いを強制終了させられたことも、ネットカフェで思いつきに724106って問いかけたことも認識していない。724106、何してる、チャッキー、あの時のきみの口癖は、僕との沈黙を解くための優しい言葉だった。
ふと、もう彼には会えないことを悟って、僕はさめざめと泣いた。絶望だ、灰泥の浅瀬に浸かった意思の死がぬるぬると広がっていく。このままレイプされても股間を切り落とされてどこかへ出荷されても、なんだかもうどうでもよくなってしまった。チャッキーの存在を思い出さないように生き続けて、ボクシングの代わりを見つけながら僕より少しだけ早い妹の人生を見送るまでの日々を過ごすだけで本当は良かったのかもしれない。でもだめだった。僕は灰野辺千秋を探さないといけなかったし、未だに仄かな匂いがするだけで、やっぱり彼はまだ生きている気がして、どうやったって忘れられなかった。
頬を濡らす涙の感覚もない。奇妙に前側だけ残った髪を掴まれ頭を揺さぶられても何も思わなかった。脳は正常の働きを放棄して、ぼんやりとウスのことを考えていた。銀行員、キヨマと同じ大学、陸海大学お笑いサークル、むかし事件で報道されていたな、白昼の凶行、違う、通り魔的なものではなかった。物々しいキャンパスの風景、肉弾の衝突、ずらりと坂道を囲うたくさんの護送車、市ケ谷解放の文字――。
その名前をはじめて知ったのは、もちろん本人の口から聞いたわけでも、エミュレットがそう僕に報せたからでもなかった。
ある限られた時代において、彼は有名人だった。そして、あまりに有名になりすぎたために、彼の卒業後の生活は有楽町線池袋駅の改札脇の狭い野晒しの区画に集約されたのだ。
首から下がすっかり弛緩して、口までしまりがなくなり涎をこぼしそうな僕に、元バール男はにっこり微笑んだ。
「嘘かと思ったんだけど、本当に探していたんだね。知ってるよ、俺、陸海大の附属高校出身で、彼の後輩なんだ。彼に憧れて高校から入ってくるやつ、前より今の方が多いと思うな」
体じゅうを焼豚みたいに縛り上げられ、髪を刈り取られた僕の見た目に元バール男は興奮していた。完全に勃起した不健康な彼の逸物を、素肌を晒している僕の腹に乗せて愉しそうに腰を振り、顎の皺を寄せながら「はははっ」と笑った。
「かわいそう、ずっと気になってたの? 彼、きっともう死んでるだろうに」
やっぱりそうか、こいつの名前を最後まで覚えられないのは、僕がその存在を自己学習阻害しているからなんだ。殴っても手ごたえのない絶望でデグレードされたくない。
何もできない今、もはやチャッキーのことを考えるしかすることがなくなってしまった。脳内で静かに空白のドキュメントを開く。僕が知っていることを、意識の中のキーボードでぱたぱたと入力してみる。
▽
灰野辺千秋の名前がはじめてニュースに載ったのは、彼が高校二年の時だった。
陸海大学附属高校の生徒会執行部がいちばん古い彼の肩書だ。会長は別の人間だったが、彼の慎重で客観的、場合によりやや冷めて個人主義な言動は、生徒の中で瞬く間に熱い人気を獲得した。
校庭で生徒会執行部と有志生徒八百人による校庭座り込みのデモが決行された。校則の改訂および私服高校の制服導入を次年度より行うと発表した学校法人に向けた抗議活動だった。事前に毎朝新聞の支局に告知した上で報道を後ろ盾に活動は複数回実施され、最終的に活動による校則改訂および制服導入の阻止を達成した。
大人が大目に見てやった結果だとか、職員が煽動したのだとか、ネットニュースでは好き勝手に書かれていたが、校内の灰野辺人気は一時絶対的なものだった。
そのまま陸海大学の社会学部へ内部進学した灰野辺千秋は、附属高校生徒会執行部での活動とはいちど訣別し、派手な金髪頭で常にひとりで過ごした。まるで、ここに危険人物がいるから誰も近寄ってくるなよと警鐘を鳴らすように。社会学部は附属校出身者が少なく、社会人学生が夜間帯の講義を履修する二部制カリキュラムが整備されていたため、彼もほとんどの授業を夜間帯に履修している。
同じ学科の同級生である清水真人とは履修科目の選択でたびたび教室で居合わせることがあったからか、それなりの交友関係があった。清水が外部進学者だったことにも起因するかもしれない。後の清水は灰野辺千秋の行方を追っているというある人間に、ふたりの関係を短くこう語っている。
「二年の終わり頃にバイトを紹介してくれって言われて、一緒にバーで働いてたけど、ある日を境に来なくなったんだよ。だから俺が最後に話したのは、アレより前の話」
灰野辺は三年次以降、大学の講義に出席していない。三年後期以降、履修登録もされなかった(その記録が誰の調査によるものかすら、定かではないが)。在学年限である八年が過ぎた時に満期退学扱いとなる。
次にその姿がフォーカスされた時、彼は学生緊急行動の中核組織に入り、資金繰りと集会の人集め役として八面六臂の働きぶりを発揮していた。淡白な言動の裏に垣間見えるちょっとした心もとなさ、愛嬌を感じる頑固さを汲み取った人間は、もれなく灰野辺千秋に惹かれていく。
以前の学生運動は、中核派による学生自治権の要求で大量の逮捕者を出す騒動が収束した後は、活動は一気に冷風が吹きそれから常に下火、斜陽という言葉がぴったりだった。勢いが弱まればただ子どものわがままのように聞こえていたそれが主力ではなくなった。
ほどなくして、若者の燻りはその様相を変え、こんどはきちんとした政治批判による結成でできた新形態の学生運動に取って代わられる。定期集会は短期のうちに急拡大し、次々に登場する著名人を巻き込み、デモは拡大し、社会へ一気に波及していった。
招聘された多くの演説者の中には、清水真人の姿もあり、ふたりが言葉を交わしている映像も残っている。しかし灰野辺との接触について言及はされていない。
灰野辺千秋はそこで一年半あまりの活動を経て、ふたたび忽然と姿を消した。脱退の少し前、学生運動とは名ばかりで同じ世代の人間の関心を集めるにいたらなかったこと、やがて政党と相互関係で行動していく運動のあり方、集会がノルマ化していく実態に意義を唱えることもあったという。
以降、彼の消息は不明。一部では事故による死亡がネットニュースで報じられているが、情報は定かではない。
▽▽▽
はーい、ここからはわたし、エミュレットが補足するよ。どうやって割り込みしたかって? 今の時代にそんなやぼなことを聞くひとっている?
その後のチャッキーが、何をどうしていたかはちょっとよく分からなかったけど、彼は有楽町線池袋駅改札そばで浮浪者をしていました。タイルにずっと踵を立てて正座してるんだけど、たまに、本当にごくたまに、誰かが落としたペンのキャップとか、イヤホンの片側とか、キャッチが取れたピアスとか、そういうものを丁寧に拾って、ポリ袋に集めていたの。
それが彼の経済に影響していたかは分からないわ。お風呂は入ってなさそうだけど、ご飯はちゃんと食べている感じね。
ちょっと気になって当時の防犯カメラの映像なんかを家捜ししてみました。大変だったのよ、過去に戻ってっていう作業が、そりゃもうね。基本ストリーミングでログはサーバーに置かないスタイルだし、そもそも防犯カメラの閲覧は悪趣味の覗き魔くんたちが違法でやってることだから、まあ、そこらへんのことはおいといて。
自動化してる顔認証ちゃんが見つけてくれたところによると、わたしとトワに会っていた時のチャッキー、ある別の人間とも接触していたの。少なくとも二回、しかもそれが、石田恒太だった! すごくない? トワって本当、何か持っているのよね。頭はわたしに似なくてちょっぴりおばかなんだけど。
石田恒太、つまりウスはチャッキーと同じ高校で、あの校庭の座り込みメンバーだった。地方紙のブツブツの白黒写真でも、ウスの仏頂面ははっきり見えたわ。彼のことを最後まで応援していた人間、本当のチャッキーを知っていて案じていた昔の仲間、ってことだったんじゃないかしら。
だから、あのタクシーの後部座席に頭を突っ込んでチャッキーの名前を呼んだのは、効果てきめんだったというわけ! ウスがチャッキーのことを無視できるわけなんてない、キヨマだって知らないわけなかったのよ。ねえ、どうしてあの時に平川なんたらっていう男の話なんかしたわけ? 信じられない、絶対トワがあの日に、ブルーボトルコーヒーをお代わりしたせいに決まってる、それで正体不明の高精細バグ取りマシーンが一瞬だけ動きを狂わせて歯車を噛み違えたのね。
でもとにかく、チャッキーはもう見つかってる、すぐそこに、ちゃんと生きてるの! ねえトワ、お願いだからもうちょっとだけ起きていて。わたしのこと呼んでくれるだけでいいの、できるでしょう、今度こそほんとに、妹の名前を呼び間違えないでね。
▽
どこからも聞こえていないはずなのに、ちゃんと話しかけられている感覚がある。脳内のドキュメントをジャックした妹は、きっと肉体は今も病棟で憩んでいるのだろう、いつも通り元気そうで良かった。
「千世」
首から下は感覚がぼんやりしたままだったが、まだ声は出すことができた。名前を呼ぶと、僕が十七年間、全身に延々と水銀みたいに溜めこんできたものがぐつぐつと疼いて仕方がなくなった。歯を喰いしばって四肢をぶるぶると震わせる。自己を覚醒させ心身のパフォーマンスを最大限に発揮させるためのガソリンってなんだと思う? 僕の場合はたったふたつで、美味しいコーヒーと理不尽な怒り。
そして今、健やかに怒りは爆発中だ。
「千世! 次に会ったら覚えとけよ! なんでもかんでも僕に秘密ばっかり!」
僕を見下ろしていた元バール男が驚いて飛びのいた。縛り上げて焼豚状態にされていても、突然大きな声を出すというのはそれなりに効果があるらしい。さらに効果があったのは、僕以外の場所でも爆発が起こったからだった。
壁の隅に寄せられていたごみ箱が吹っ飛んでいる。むろん、捨てられた鞄の仕業だ。ただスマホや機器の故障は考えられなかった。しっかり暴発のための材料が仕込まれている感じ、しかしどこにそんな仕掛けを入れておける余地が?
あ、イモムシ。あれ、千世って呼ぶと爆発する機能がついてたんだ。じゃあ、普段はオフモードだったってこと? もしもの誤作動が確率的にゼロじゃなければ、僕の心臓がもう五回は粉砕している。
「あっぶな」
そういうこと、先に言っといて。最後に悪態を漏らしたが、もう妹との思考の同期は終わってしまったみたいで、返事はこなかった。
僕を拉致監禁してぐるぐるに縛り、その上勝手に頭髪を猟奇的に刈った男は、小さな手榴弾のような物体の爆発で、すっかり放心してしまったようだった。血中に満遍なく怒りが行き渡った僕はやがて起き出して、体を捩って紐をむしり取り、ほぼ素っ裸の恰好で誘拐犯に向き合った。東南アジアの変なところへ連れて行かれたり、レイプで尻穴をおかしくされたり、ペニスをちょきんと落とされたりする前でよかったと思う。不思議な安堵で、僕は彼に「ありがとう」と言いそうになっていた。
あたりを見渡すと、なんだか見覚えのある間取り。爆発音を聞いて、玄関や奥の部屋から次々に足音が聞こえてくる。どかどかと土足で上がり込んできたのは、偽平川信夫、キヨマこと清水真人、どうして呼び名がウスなのか未だに不明な石田恒太、まだ後ろから誰かが来る。ハマさんではない別の人間だった。大人の男たちがぞろぞろと乗り込んできて、元バールをあっという間にくちゃくちゃにしてしまうと、彼らは申し合わせたみたいに僕の焼豚バンドを解いてくれた。憤怒のパワーで全開状態だった体は、圧迫を解かれると萎みかけの風船のようにまた気怠さが逆戻りしてくる。
「わ、なんだその頭」
ウスが言った。まだ顔が青い。このひとこそ起きて動いて平気なのかと心配だったが、スーツを脱いだ体の方ががっしりとしていて頼もしかった。もともと体力のある人間は怪我も寝ているだけで治すと言うし。いや、さすがにそれは幻想かもしれない。
「これで終いな。マル、ハマは仕置き済みだから」
キヨマは眉間に深い皺を寄せてこちらを見下ろしていた。地上波や動画ストリーミングサービスでひっぱりだこだった〈朝ヨーグルト〉とはまったくの別人、今は面白いことなんてひとつもひり出せなさそうな顔をしている。
「敷島斗和、本物なんだな」
偽平川信夫は、そう言って僕の手を勝手に取り、こちらをまじまじと見つめた。まあ、ハイエースの車内でも、ある時はこうやって睦み合っているみたいに急接近しそうなことがあったけれど。しかし悔しいなぁ、偽物だって分かっているのに、想像より随分歳を取っているのが分かるのに、やっぱり顔だけはかなり完璧。
ウス、キヨマ、偽平川さんをまた順々に見て、言われたことをひとつひとつ反芻してから、僕は最後のひとりと向き合った。彼はここに来てから、何も話してくれていない。
「よく分からない」
正直にそう言うと、大人に難しい質問をされて何も返せない小さな子どもに戻ったみたいだった。幼児の時から僕の百倍喋るし、もう三回目の成人式を迎えた後くらいのエミュレットのどっしりとした構えようはいつでも羨ましかった。あーあ、エミー、僕は今、目の前に好きなひとがいるのに、やっぱりぜんぜん自分じゃどうにもできない。
手を伸ばしたら触れるところに、灰野辺千秋が立っていた。再会したチャッキーは、もうホームレスの恰好でなければひとりぼっちの顔をしているのでもなく、旧友に囲まれてとても静かだった。外から川が流れこんだりしない、湧水だけでできた沼地みたい。
「トワ、憶えてる」
目を潤ませたチャッキーが、僕の禿げた頭を手で覆って撫でながら、抱き寄せてよしよしと背中を叩いた。おかえり、変かな、これを言ったら。ずっとどこへ行っていたの。それももうどうでもいいや。妹のことも憶えてる? 右手がふわふわパンみたいで、両脚は透明ランドの銀行に預けっぱなしで、左手は素早く器用、お喋りと詮索が大好きの、きみがとても可愛がってくれた。すべて伝えたい大事なことだけど、質問はぜんぶ口に出さずに引っ込めた。だって彼がどんなふうに答えをくれるか、もうぜんぶ分かっているもの。
「うわ、わあん」
情けない泣き声を聞いたら、チャッキーが僕を軽々と抱き上げてあやしてくれた。体をくっつけるとあたたかいグラタンの匂いがした。喫茶テプテプで待ちぼうけをしていた真佐子嬢の好みは確かトーストみたいな芳しい青年、だったような。僕はまだ子どもだから、鼻いっぱいにグラタンのあたたかい匂いを吸い込んで、おなかいっぱいになるのがいいや。
*
僕が閉じ込められていた部屋は、なんと事務所インゼクトの二軒隣、同じマンションの同じフロアにいた。驚いた、世界ってこんなにも狭い。たまたま賃貸に出たばかりだったのか、元バール男が三日前に契約したばかりだったらしい。眠った僕をどうやって運んだのだろう、スーツケースにでも押し込んだのかな。
ハマさんは、ウスを介助する騒動に紛れて事務所の現金を持ち出そうとしていたら、偽平川信夫に見つかっちゃうし、僕と鉢合わせするし、万事休す、ってところだったみたい。こちらよりよほどパニック状態だったかも。だからって僕を追いかけたりする? 逃げなきゃいけないのはそっちだっただろうに。
偽平川信夫はあの気象予報士の平川信夫さんの弟なんだって。朝ヨーグルトのファンで、僕が記憶していた餅つきのロケを彼も見ていて、兄からキヨマと相方のジリンを紹介されて親交が始まったらしい。闇バイトは彼自身の金策ではなく、定期的に住んでいるところの近くを見回りしつつ、時折ヤバそうな案件を見つけて登録しては搬送車役をやって、ハイエースで僕らみたいな人間を安全なところへ送り届けているみたいなことを言っていた。それって何か意味があるの、と聞いたら、本物の平川信夫さんの息子が高校一年生の時、闇バイトらしい何かに参加するという連絡を最後に失踪して今も行方不明らしい。あんなに若くてイケメンなのにもう高校生の息子が? というのと、テレビに出る有名人でもひとの親、子が攫われてそのままなんてことあるのだなというのと。平川さんくらい知名度があればむしろ身代金の要求など真っ先に連絡が来そうなのに、息子は姿を消したまま、本当にぷっつり。行方を知る手がかりは今も見つからない。ドライバーをしている彼が善人のようにふるまわないのは、蒸発した甥っ子が巻き込まれたかもしれない最悪の事態を、もう何度も想像してしまっているからなのだと思う。
僕の名前を叫んだのは偽平川信夫だった。実は、少し前からチャッキーの方が僕のことを探していて、その話を聞いて当然のように協力し始めていたウスがキヨマに喋って、キヨマがある時きまぐれに「ドライブのついでに見かけたら教えて」と伝えられていたらしい。だけどそんなこと言われても、面識のない他人を人相だけでアッと閃き思い当たる、みたいなことは起こらないよね。キヨマもウスも僕と会っていてもトワには気づかなかったわけだし、僕だってひとの顔を憶えたり情報を一致させたりするのはいちばん苦手かも。偽平川さんは免許証の嘘ではなく敷島斗和を正確に見つけ出していた。そのあと運転を交代させたのは、ぼくを観察するための時間を稼ぎたかったのだそうだ。シグナルで共有される身分証、全員分チェックしてるんだって。そこまでくると執念だよ。
僕はそんなひと探しの仕方はできない、すれ違う人間の顔ばかりか姿だってほとんど見てなくて、だけどその中で目的の人間だけをふと見つけることはできそうだ。本当に好きなひとの顔くらいしかできない、本当に忘れられないひとしか。
チャッキーに、今はどこで何をしているのかと尋ねたら、寂しそうに目を細めて「何もしていない」と言った。嘘。妹に聞いたらいっしゅんで暴かれるよと詰め寄る。彼はちょっとだけ笑ってくれる。
「選挙カーの近くで、キッチンカーを出す嫌がらせをしている。いつか匂いで当選する日がくるかも」
僕が何かを言う前に、エミュレットが僕の思考にVPN接続して「やだあ、すてき!」と感嘆の声をあげる。良かった、彼女との意思疎通システムが戻って。そう思っていると、みんながきょろきょろとあたりを見回しはじめた。もしかして僕の頭がスピーカーになってしまったのかな。エミーの声がだだ漏れだった? 狼狽えて手で顔を覆うと、キヨマがごみ箱から黒い板切れみたいなものをひょいと取り上げる。イモムシの爆発で焦げた僕のスマホだった。
「マル、電話、千世ってやつから」
▽
あーあー、聞こえますか、どうも、エミュレットです。いったい誰でしょう、わたしをまるでパックの縁部分に挟まれて水気を失いかぴかぴのうんちと変わらない姿になってしまった、調味料として永遠に使われることのない味噌の残骸みたいな名前で呼んだひとは。あなた? お願いだから気をつけてちょうだいね。今度こそほんとに爆発しちゃうわよ。
おかげさまで先週、やっと退院できることになって、わたしは今、自由自在に動くパラマウントベッドに甘えきった格好で座位にさせていただいている生活をしてる。病棟のマットレスの硬さは実は結構好き。体はぜんぜん元気じゃないんだけど、入院中の心持ちは強化合宿って感じかな。ヘルパーさんを傷つけずにやってほしいことを的確に伝えたり、看護学生にとってためになる障がい者っぽい言動につとめたり、ご飯は面倒くさがらずに経口で摂ったり、まあとにかくやるべきことがたくさんあるありがたみね。毎朝じゃれにくる兄もいるし。
で、そのトワはレスパイトの時にだいたいいつも拗ねて変なことを始めるんだけど、今度のはなかなかわんぱくな冒険になったんじゃない。普段ジムとブックオフに行くだけの、家庭に居場所のない中年男性みたいな過ごし方をしていた反動かしら。
この数週間のあいだに、何度かトワのGPSアラートで飛び起きたのは内緒。彼、私に追跡タグを持たされていて、時速六十キロ以上で動くと、自動で保護者に通知がくるようになってるの。いつもはキャリアメールに通知がくるだけだから未開封スルーしてたんだけど、おわりの方はさすがにちょっと心配だったかな。ただ、追跡タグもこないだ、ダメにしちゃったみたいで。国産神話がなくなった今でも、勝手に爆発までされたら、これだから外国製造のデバイスは、とか言いたくなっちゃう。あれ、別にわたしのおまじないとかじゃないからね。哀れなイモムシちゃん、また新しい子をそのうち探さないと。
退院するまでの間に、トワは髪を短く整えて、三回くらい学校に行き、母さんと数日間冷戦みたいに喧嘩して、さいごには反省したのか、関係修復のために生垣の剪定をやったって。兄は昔からタスクを淡々とこなすのが得意だった。手早く計画を立てて、それを試しに実行して、うまくいかなかったところ、足りなかったところまであとできちんと考える。おばかなのに、それだけは不思議と訓練されたみたいにきっちりしてるのよ。母さんはそれを、子どもの時に少しだけ利用していたシッターのおかげかも、っていちどだけ話してくれた。呼ぶのはいつも、金髪の学生シッターだったって。でもトワからそんな話聞いたことないし、わたしもまだ生まれてない頃の話。
ただ、こんどのチャッキー探しは、聞き込みとかビラ撒きとかじゃなく、ただ嗅覚だけであちこち潜っていったのが、そこもまた彼らしくて面白かった。わたしだったら、きっとそんなふうに考えたりなんて絶対しないもの。せいぜい日本と東南アジア圏の防犯カメラとログデータでチャッキーの消息探しをするくらいしか、効果が出そうなひと探しはしないかな。
じゃあわたしはもうチャッキーが最近どこで何をしているか知ってたはずじゃないかって? まさか。さすがにそこまでなんでもかんでも知っているわけじゃない。もしも兄があれだけ強烈にチャッキー探しに一途になっていなかったら、彼はあの夜の闇バイトで思いもよらぬ働きを見せて、仕事ぶりを気に入られちゃって強盗やったり詐欺をやったりして、もっと稼げるバイトがあるよって言われてパスポートを作り、ベトナムの拠点に行ったきり帰ってこないなんてことがあったかもしれない。気づいたらどこかのゲリラ兵になっていて、中東を拠点に黙々と殺生し、ふと我に返ってそこも脱け出て、次は難民の移送コーディネーターになってたりして。
強靭な直感を持っているトワなら、それでトルコからポーランドまで流れ着いたとしても、結局そこでチャッキーに再会できたんだと思う。その根拠なんてまったくないけどね、ただなんとなくそうなんだろうなって分かる。
今もトワは前と変わらずわたしの在宅ケアをしてくれるし、散歩や映画鑑賞にも付き合ってくれる。ココアが飲みたい時は本当に一滴も体が欲していなくても必ず喫茶店に付き合ってくれるし、彼がひとりで外出する日はどこかで一回は妹にビデオ通話をかけてくる。
「そんなことだといつまでたっても彼氏できないわよ」
って言うと、前はわたしを軽くあしらって終わっていたのに、今はちょっと泣きそうな顔になるのよ。きっと真剣に悩んでいるんだわ。
勢いでいっぺん抱いてもらえばぜんぶうまくいっちゃうかもしれないわよっていう助言にも悲観的。そんなファンタジーな展開なんて夢見るだけ侘しいって。
どちらかといえばトワの方が、ひとりの世界に浸るのが好きで時たまなかなか帰ってこない。みんな、この話がぜんぶ彼の夢の中の世界だって思ったんじゃない?
ねえ、やっぱりチャッキーは脈なしなのかな。わたし、あっちの方こそトワのことが大好きだって考え……。あ、ちょっと待ってよ、ねえ! きーらーなーいーで! ……
▽
雲ひとつないまっさらな空を見上げながら、南池袋公園の芝の上に寝そべっている。貸し出し用の茣蓙はまだいくつも残っていたけれど、尖った草のちくちくに頬がやられるのが実はちょっと好きで、今日は敷かなくていいんだってチアキに言っておいた。あとで背中にくっついた枯芝を彼が払ってくれるかも。ここで僕にご馳走してくれるって意気込んでいたから、フィッシュアンドチップスとアイスコーヒーをお願いしておいた。チアキの職場であるキッチンカーはドーナツスタンドだったから、一日じゅう車内いっぱいに甘い匂いにあふれている。それに飽きたんだろうって笑われたのがちょっと悔しい。彼には僕がまだ子どもに見えていることは、ちゃんと分かってるつもりだけど。
さらさらとした風が吹いている。上向きの体をぜんぶ撫でられると、さすがに少し肌寒い。束の間の秋、やっと長袖が着られると思う頃には、もうダウンを出さないといけないなんて考えるようになるのだろうか。
日々は再び緩急のない静かな反復に戻っていた。週に三回、妹をデイケアへ送迎するついでにジムで汗を流し、誕生日を迎えてから通い始めた自動車教習所では順調に第二段階へ進んでいる。週末はチアキの車に乗せてもらってドーナツ販売を手伝い、週に一度の洗車のあとにふたりでドライブに出かけるのが楽しみだった。学校の登校日もスキップしてあまり真面目に勉強しない僕のことを、チアキは特になにも言わない。べつに彼の過去を持ち出そうなんてしないから思ったことを好きに伝えてくれればいいのに。きっと自分よりキヨマやウスと会っていた方が僕のためになるとか、そういうどうでもいいことを考えていそうだ。
人間の幸福はもっと些末なものでできている。山手線の内側にあるブックオフで、神保町でも発掘できなさそうな絶版本の初版に出会えた時の驚嘆とか、右耳にピアス穴を開けた時、左耳とほとんど場所がずれずにすごく綺麗なバランスだった時に何日もその話をしたくなるくらいうれしかったとか、そのくらいがちょうどいい。抱き合った時、襟足の匂いを胸に入るだけいっぱいに吸い込んだら、ジムのシャワー室に置いてある石鹸に似ているなと思ってなぜか涙腺が緩んだとか、チアキが電話をくれた時、端末から聞こえる声が普段よりずっと優しく聞こえてもっと好きになってしまったとか。本当に、それくらいでいい、それより上を望んだところで何かが得られるというものでもないから。千世はこの先ずっと左腕一本で生きていくし、母さんはきっと死ぬまで世の中のほとんどの人間を信用しないだろうし、キヨマは青年たちを集めてボーイ派遣会社をこれからもつつがなく運営していくだろうし、ウスは勤め先で何年もかけてちょっとずつ堅実にえらくなっていくだろうし。
読みかけのページを広げたまま胸の上に伏せていた単行本をまた持ち上げる。片手の親指と小指でページを抑え、もう片方の腕を枕にして頭を少し立たせ、続きの数行を読み進めてみる。傑作『輝く日の宮』は、手のひらを置くだけでもう小さな挫折を感じるくらい長大で、僕にはまだ難解だった。終始使われる旧仮名遣いだけでも時たまくじけそうになる。0章は主人公の女性学者が中学の時に手いたずら感覚で書き上げた習作という設定だからもうたちが悪い。今は大人になった真佐子嬢改め安佐子がシンポジウムで論争の只中。ここ、今年だけで何度読み直しをしているだろう。
頭の近くでバイブレーションが鳴ったので、寝返りを打ってボディバッグの中を漁った。ファスナーを開けたいちばん手前に二代目のイモムシが横になっている。へんな形の触角。妹にこれは何のキャラクターなのかと尋ねると、「ちゃんと公式だから」としか教えてくれなかった。僕にはオタクの作法みたいなのはちょっとまだよく分からない。
「おはよう、エミー」
すぐに応答すると、スマートウォッチの画面に閉じ込められた妹は、珍しく機嫌よさそうに手を振った。
「もう二時だけどね」
「まあね」
「昨日、帰ってこなかったから。チャッキーと一緒?」
「ごめん」
耳まで真っ赤になっているのを自覚して、本を芝に置くと顔を手で覆った。
「ぜんぜんいいけど、素敵なことがあったみたいね。セックス気持ちよかった?」
「やめろよ」
何と返せばいいのか決めかねて、枯芝がついたパーカーの袖で額をごしごしと擦る。きっと千世は僕の尻をシリコンの穴かなにかだと思っているんだ。ちっともそうじゃないから、きみの経口以外の食事の摂り方とだいたい同じ意味で。ミラクルではあるけどフィクションの都合よさとか清潔さとかはまったくない。
「トワ、髪伸びたね」
「毎日会ってるだろ」
「そうなんだけど、画面越しに気づくことってあるよね、今はそれ」
「ああ」
カフェスタンドがテイクアウト客で混みあっているのか、チアキはまだまだこちらへ戻ってこないようだった。僕は彼に背中の枯芝を払ってもらうという儚い願望をひとつ諦めて体を起こし、胡坐をかくと鞄からイモムシを取り出した。僕の背中越しに青空が映ったのか、妹が眩しそうに画面から顔を離す。今はトイレに行った前後らしく、ベッドではなく彼女の愛車の上の様子が画面に映っていた。
「……もしかして、僕がいの一番にきみに報せなかったこと、少しだけがっかりしてる?」
きゅっと口角を上げ、唇の端に八重歯をのぞかせた妹は、ぜんぜん、まったくと否定した。
「いつもはブックオフの店を出たとたん電話してくるのにって?」
「ジムが無くなってがっかりした時にはわたしが聞いてあげたのにって」
「息せき切って妹に夜の感想を言うやつって世の中にいると思う?」
「そういう可愛いお兄ちゃんがいたって良いと思うのよ」
笑っていた妹は、あっと声を出して画面のやや左上を仰ぎ見た。互いの姿が鏡映しに送られているから、彼女の目線の方向通り、僕の右側に戻ってきたチアキが腰を下ろす。
「ハイ、チャッキー」
画面の向こうにいる少女へ手を振り返しながら、彼は僕に「俺をおぼえてる」と驚いた声で耳打ちした。
「うん、憶えてるよ。ふたりとも忘れてなかったから、チアキが今どんなふうにしているのか、僕は気になった。本当にシンプルに、それ」
「面白い、仲が良い兄妹が、お互いじゃなくて他人に関心があることが」
「そう? 僕たち、人間ってきっと、自分のことより他人の面倒を見る方が、楽で簡単だと思う生き物なんじゃないかな。ここからここまでは僕が面倒見られるところ、って決めている範囲があって、その内側のひとたちとかかわる。そうしている間は、別の誰かが僕の面倒を見てくれている気がして、僕が自分の面倒をみなくても許される気がする。できあがっていない自分をそのまま置いておけるというか」
「なるほど」
「だから、チアキもこの中にいてほしい。きみの面倒は僕らが見るから、チアキは僕やエミーを少しだけ見てほしい。そんなふうに思って、きみを探すことにしたんだ」
どうしてそれがチアキなのかは分からないけれど、僕にはチアキだけだったんだ。
話し終えてからしばらく、芝生のふたりと画面の向こうのひとりは誰も何も言わなかった。チアキは横から僕を見て、つぎにイモムシに貼りつく小さな妹と目を合わせ、それから両手の飲み物とスナックを脇に綺麗に並べて置いた。僕の顔の下に手を差し伸べ、ぽつぽつと落ちていくそれを大事そうに受け止めた。
まんまるの粒になって僕から分離した涙は、溢れた部品が溶けてなくなるみたいに見える。まだ何かを探し続ける未完了な今の僕を、チアキがそのままとっておいてくれるような気がした。
〈了〉
引用文献
丸谷才一『輝く日の宮』(2003年)講談社 ISBN 4062118491
