5/4文フリ東京42新刊『銀色の夢』サンプル
こんにちは、26です。
5月4日の文学フリマ東京42新刊のお知らせです。
◤T-19 にろて屋◢で参加します。今回も純文学ジャンルです。よろしくお願いします!
まだここでは死にたくないと思って、走って、走って、走った。
物語はふたつの世界を行き来する。
ひとつは2000年代初頭の現代、高校生の連と郁、年子の兄弟の世界。
もうひとつはここではないどこかの世界、共感覚で文字に色が見える「カラーズ」と、彼らを迫害する「クリア」の世界。
カラーズのイクスはクリアのレッテンと協力して逃亡の日々を送るが、彼のけがをきっかけにふたりは別行動に。最後に再会した時、大きな地震に襲われる。
既刊『カラーズ』を自己翻案した戦争ファンタジー小説。

『銀色の夢』
丹路 槇
1.
赤と緑と青の小さいバー。三本一体のそれが、縦にも横にも夥しい数で並んでいる。ただ12型テレビだったら、画面の長辺短辺それぞれ並んだカラーバーの数を目が潰れる前にかぞえきれるだろう。じっさい、自分が小さな子どもだった時に、縦が83で横が56、とカウントしたことがある気がする。気がするだけの、でたらめの記憶かもしれないけど。
フォーカスされた三色バーから徐々に視点は離れていく。長方形がばらばらに光っているだけのように見えていたそれは、画角の中央に吸い寄せられるみたいにぎゅっと縮小し、緩やかな凸面にせり出した分厚いガラスをちかちかと光らせた。三色が絵の具のパレット上でぐちゃぐちゃに混ぜられたようになって、さまざまな色彩が見える。分厚いベゼルにつながる平たくて広い頭頂にはレースのドイリーが敷かれ、その上には鮭を咥えた木彫りの熊が置かれていた。リビングのブラウン管テレビだ。見えているものをようやく認識すると、ぬるぬると視界が後退し、部屋全体が映し出されるようになった。
食卓に並んだ皿から、バターの塗られたトーストを持ち上げる。かじるとパン粉がぼろぼろとダイニングテーブルの木目に散った。母の好みで給仕される特濃牛乳の味が気に入らなくて、ひと口も飲まずにぬるくなった白いグラスが右手のそばにある。テレビの画面がぱっと切り替わった。
中央分離帯が引かれたアスファルトが横向きに押し上げられている映像が流れる。高波みたいにそそり立った灰色の壁は家屋の上にのしかかりながら風景の奥まで伸びていく。ビデオカメラが追う先には、途切れた高架の道路と、とり残された乗用車がぽつぽつと残っている様子が順番に記録されていた。はじめ、地震の爪痕を伝える映像は新潟中越のものかと思ったが、家のブラウン管テレビから流れるものなら一九九五年一月当時の阪神・淡路大震災だということが分かった。
その時たしか、俺と弟は同じ保育園に通っていて、年長と年中だった。朝食は俺ひとりがテーブルについている。母は弁当の支度だろうか、キッチンにこもったきりだった。
弟は俺の足のあいだにいる。つまり、テーブルの下へ潜って、床に尻をついて座っている。この時まだ、指しゃぶりがやめられなくて彼はずっと人差し指を吸っていたかもしれない。左手には立派なすいだこができていたけれど、ひととちがう手の形になっていることを、彼はまったく気にしていなかった。
弟は毎日、配膳された食事を可能な限りもっとも短い時間で腹の中へ詰め込み、食べるという彼にとって苦痛なルーティンから解放されると、とっとと俺の足の隙間に挟まりにやってくる。テーブルの下から俺と同じテレビ映像に釘づけになり、時たまちゅばっと大きな吸い音を立てながら、太字で書かれたテロップや取材班が撮ってきたばかりの現地の映像から何かを読み取ろうとしていた。
ふた口目のトーストを歯で噛みちぎりながら気づく。今見ているこれは俺の夢だ。むかしのできごとを突然思い出して見てしまった、不確かな記憶の断片映像。認知能力も子どもの時に巻き戻っているのか、テロップの文字をほとんど読むことができない。アナウンサーの声が頭の中で何度も繰り返される。
小さな体は当時の日常生活を粛々と遂行している。意思を伴わずに左手が先にプレートの上のミニトマトを取り、ひとつ握ってテーブルの下へもぐらせると、弟の頭をこづいてそれを分け与えた。弟の髪は寝起きの癖でふっくらと立ち上がる、なめらかな直毛だ。
ミニトマトを探す手に触れる。自分も子どもの手だったが、弟の方がそれよりさらにちんまりとしていて柔らかい。
「れんれん」
舌足らずの弟が俺を呼ぶ。見上げた時にしくじって、頭をテーブルの横板にごつんとやった。
「なに」
「れんれん、すき」
弟が笑った。
「トマト食いたいからだろ」
いじわるく返すと、弟は口に運ぼうとしたミニトマトを俺に返そうとした。いいから、ほら。小さな口に赤いつやつやした果肉のボールを押し込む。頬で包むのに失敗したら、ぶちっと種が吹きこぼれそうな危うい大きさを、弟が一生懸命頬張る。ん、ん、と口を塞いだまま何か言っているのを、聞こえなかったふりをしてテレビに視線を戻した。街が燃えたり一階が押し潰されたりした建物の映像が紙芝居のようにぱらぱらと送られる。救助された汚れた顔の人、救急車の後部ドアから運び込まれるストレッチャー。この後のことを知っている俺は正方形に近い縦横比のブラウン管の小さな画面でそれを見ても大きな衝撃を受けることはなかった。二〇〇〇年代も日本では何度も大きな震災が起こり続けている。
これは俺が意思に反して適当に呼び起こした、過去のおさらいのようなものらしい。こんな懐かしい夢、今になってどうして急に。
パンをかじるのを怠けていると、ブラウン管の画面がぐるんぐるんと横向きにロールし始めた。じりじりと大きな亀裂が何本も入り、激しい砂嵐で映像が乱れる。
思ってもないのに、俺は母親を呼びつけていた。俺の声に反応して弟がぱっとこちらを見上げる。股のあいだで目が合う。弟のことがあんまり可愛くて、当時俺は彼を犬か何かだと思っていた。顎を撫でると、彼は指しゃぶりをやめて、俺の手のひらをくんくん嗅いだ。
母親がキッチンから出てくる。腰巻きエプロンで急いで念入りに両手を拭くと、ドイリーを敷いたテレビの天板を手のひらでバン、バンと叩いた。
「もう、アイワなのに。また買い替えは嫌よね」
はい、どうぞ。画面のロールが止んだのを確認して、母親はスリッパの音を立てながら視界の外へ出た。テレビはずっと震災の報道をしている。冷めて硬くなったトーストを唾液で溶かしながらもぞもぞと朝食の続きを消化していった。弟が俺のふくらはぎを抱いて、時おりぎゅうっと指を食い込ませる。
夢が途切れて目を開けた時、そこが自分のシングルベッドの上だったことに安心した。小学校卒業と同時に解体して捨てた二段ベッドで目を覚ますような気がして嫌な感じがしていたのだ。俺が下段で弟が上段だった。こちらの起きる気配を察知すると、弟は手を伸ばしてタッチをせがんでくる。
双子みたいなふたりだったが、年子の兄弟だった。パンツも靴下もどっちがどっちのを履いても構わないくらい体格も変わらない。違いがあるとすれば、俺のほうが肩幅が広くて、弟のほうが靴のサイズが一センチ大きい。ハンカチやベルトなど、小物は弟がだいたい俺の分も選んで色違いを買ってきた。彼は白っぽいものを身につけるのが好きで、俺は面倒だからまっ黒にしてくれと買う時にいつも頼んでいた。
面倒、っていうのは、色の組み合わせを考えるのもそうだけど、その違いがほとんど分からないからというのもある。俺は赤の仲間を見分けるのがすごく苦手だった。色鉛筆であれば擦った跡で塗ったところが分かるが、蛍光ペンはピンクやオレンジで塗られても場所がまったく視認できない。赤と黒はすぐに区別できるけれど、桜色とか橙とかになると別の色が混在している中で見つけるのはもうお手上げだった。
色の話について家族に確認されるのが昔から億劫で、ほとほとうんざりしてしまったから、弟に「お前が使うのと反対の色にして」と頼んだ結果がこれだ。
ベッドの上で伸びをしてから立ち上がる。箪笥を五センチだけ開けていちばん手前に詰められたヒートテックの肌着を引っ張り出した。デスクの向こうにある木の引き戸を乱暴にノックする。子ども部屋はつけ外しができるスライドドアで仕切られていた。二段ベッドを置いていた部屋の半分ずつをそれぞれひとりで使えるようになっていたのだが、正直、あまり意味がない。喋る時と喧嘩する時はだいたいどちらかの部屋に行くし、ふたりとも体が大きくなっているし、狭くて窮屈で過ごしづらかった。それでも俺たちの怒鳴り合いが聞こえると、母親は仕切りでばらばらに分けておきたい気持ちになるらしい。
「郁、おい郁」
俺が呼ぶと、隣の部屋のかりかりとものを書く音が止んだ。
引き戸の隙間越しに目が合う。夢の中では仔犬みたいな面で俺を見上げていた弟が、今は至極うっとうしそうに俺をじとっと見据えている。お前、さっき俺に、れんれんすきって笑ってたぞ。もしも本当にそんなことを言おうものなら、彼は手近にあるものをあたりに投げつけて、キンキンする声でキレ散らかし、「クソ連、死ね」 という貧相なボキャブラリーで俺に噛みついてくるだろう。引き戸を取っ払って俺が腹を蹴る。弟が髪を引っ掴みめちゃくちゃに殴る。母親が発狂する。兄弟揃って遅刻。何度やったかな、それ。まあいいけどさ、戦いのあとにあまりにくだらなさすぎて電車の中で笑えてくるから、弟も根負けして「ばかばかしいねぇ」って諦めのため息を漏らして終わるし。
引き戸の向こうにある憎たらしい顔面は早朝の勉強を中断させられて苛立ちを募らせていた。前髪の隙間から見える眉間の皺の形が俺の想像する通りの形になっているかをそっと確認する。
「ねえ郁ちゃん、これ俺の?」
揶揄うのではなく、それは自然にこぼれ出たせりふだった。しまったと思ったがもう知らない。目の前のクソうざい弟がまだ小さい天使だった時についさっきまで会っていたのだから、ちゃん付けで呼びたくなるさ、そりゃあ。
息もできないくらい気まずい沈黙が一秒二秒、三秒は経っていないだろうか。俺が本気で狼狽えているのを察したのか、あるいはその部分について聞こえていなかったのか知らないが、戻ってきたのは「それは僕のだよ」と当たり障りのない返事。突き出した手をさらに奥へ突っ込んで、母親が俺の箪笥にしまった弟のヒートテックをベッドの上に投げ入れる。ボディラインにぴたりと吸いつくようなつるつるした素材が解けて手から滑り出た。かけ布団の上に袖が落ちるより先に、立ち上がった弟がそれを掴み上げる。片手でくしゃくしゃと適当に小さく丸めると、彼は自分の箪笥から別のインナーを出して俺に渡した。おそらくそれも母親が誤って収納した、本当は俺が着る用のものらしかった。
「連のはぜんぶ黒って言ったろ」
差し出された弟の手を見て、顔を見て、うなずいた。郁の顔は眉尻が自然と下がり、心なしかいつもよりすっきりしていた。
「お前あのさ、さっき同じ夢みた?」
「は?」
「十年くらい前のやつ。朝テレビ見てて、お前はテーブルの下、俺がミニトマトくれてやったの。なんかおぼえない?」
すると、彼はがばっと立ち上がり、それからすぐに俺に背を向けて、ぴしゃりと引き戸を閉めてしまった。クソ郁、態度悪いんだようっぜえな。俺が大声で悪態して、引き戸を軽く蹴っても、何も言い返してこない。
変なの、耳まで真っ赤にして怒って。今のは別にキレなくてもいいやつだろ。
弟は俺より気が短いやつだったし、俺に対しては眉を吊り上げて苛々するみたいな怒り方が常だった。いつにも増して鬱陶しい機嫌の損ね方にこちらもわだかまっていると、案の定、出がけに玄関で肩がぶつかるという些細な事件が起こった。腹が立っていた。俺は振り上げた左拳を郁の頬と鼻にぶつけたし、下駄箱と明かり取りの窓には弟の鼻から出た血がありえない飛距離によって付着した。母親がヒス声を上げたので、そっちにも苛立って靴のままリビングへ行こうとすると、今度は郁が俺に張り手を寄越した。パーってなんだよ、女か。
クソゴミ野郎、罵る前に、同じ言葉を郁が叫んでいた。どうでも良くなって、あはっと肩の力を抜くと、郁の腹を殴った。子どもの時みたいにウッとうめいて涙をこぼし、降参の格好でさめざめと泣かれることを想像していたが、鳩尾に埋めた腕を両手でむずと掴まれた。弟が激昂でぶるぶると震えている。
「気に入らなければ無視すればいいでしょう!」
なんだか知らないが横から入ってきた母親に怒鳴られた。それは俺も同じことを思っている。しかし何をされるにしても苛立って掴みかかりたくなってしまうのはもう仕方がない。すべて弟の顔と、声と、生意気でわがままな行動のせいだ。小さい頃にミニトマトを弟に与え続けて育ててしまったからこんなクソ高校生になってしまったのかもしれない。
血の斑点を残したまま、俺が先に家を出た。弟は鼻血が止まってから登校するらしい。通学経路は俺の学校より近いし、進学校だし、遅れてもちゃんと学校には行くのだろう。ぺしゃんこのスクールバッグの取っ手を一本だけ肩にかけて家を出た。もちろん一冊も教科書は入っていない。古本屋でたまたま見つけて買ったiPod Shuffleの電源をつけて付属の白いイヤホンを耳に押し込む。ディスプレイのないクリップ型の端末だからボタン操作はプッシュ音が頼りだ。適当に再生する音楽を聴いて、あまり気分じゃない曲が聞こえるとスキップする。まだアジカンとミスチルのアルバムしか端末にインポートしていないから、ぜんぶの曲の冒頭を確認し終えるまでの時間はあっという間だった。
家を出た後に携帯電話を持ち忘れたことに気づいた。あれがなければ不便で退屈な一日を過ごすこと必至だった。まずい。だるい。でも引き返すか。弟に今さら何を言われてもどうでもいい気持ちにちゃんと戻っている気がする。
大通りにべったり塗られた横断歩道の白線の手前で踵を返し、また数分歩いて家に戻った。玄関の鍵は空いていて、後片付けはすぐに済んだのか、母親の姿もなかった。廊下を歩く音を察知したのか、母親がリビングから出てくる。
「なに」
「ケータイ」
「そう。郁さっき出たの、すれ違った?」
「いや知らない」
「あんたたち本当に……もういいや。行ってらっしゃい。気をつけて」
ため息を漏らす疲れた声に見送られてもういちど家を出た。戻った道と別の道で駅まで向かってみたが、弟の背中は見当たらなかった。
シャッフル再生のアルバムを一曲ループ固定にして、その曲の歌詞とメロディのことだけを考えるようにする。駅のホームで電車を待っている間も、弟の姿は見つけられない。郁でも母親に隠れて学校をサボることがあるのかと妙な感動を覚えたが、すぐに弟がバイトも部活もしていない携帯不所持の根暗人間だということを思い出し、どうせ図書館にでも逃げ込んだのだろうと決めつけて、ほどなくして駅に来た電車に乗った。
2.
古い木の湿った匂いを嗅ぎながら、半分朽ちた物置小屋の隙間に体を差し込んで身を隠していた。途切れるひとつ前の記憶の時、何週間もずっと常葉樹の枝によじ登って寝ていたから、それよりかは幾分かまともなところへ行き着いたみたいだった。
ただ、以前にはいた仲間の気配がすっかり消えてしまっていた。仲間というのは僕が大人とはぐれて行き先を決められないまま彷徨っていた時の、みなしごたちでできた泥棒の集団でもなければ、森の中で生活する方法を教えてくれた、痩せた少年たちでもなかった。彼らにはそれぞれ小さな社会秩序がしっかりと形成されており、僕ははじめそのうちのいちばん下で、それからすぐに一目置かれる存在となり、あっという間に集団の最上位の少年から排除されるという決まりのシナリオを辿っていた。だから今は人間の子どもとはつるんでいない。少し前にずぶぬれの野良犬と一緒になって、墓地の中にある地下納骨堂を棲家に暮らしていたが、潜伏しているこの物置小屋は以前いた墓地とは違う場所らしい。
らしい、という不確かな状況の整理は、つまり僕の記憶がいちど途切れた状態だということにある。ポケットの中をまさぐったがくしゃくしゃになった銀紙が出てきただけだった。大事に残していた最後の食糧も尽き、ひとり小屋の隙間に潜んでいる。ということは、追っ手から逃れているのだ、今は。
うろが浸食して穴の開いた木の壁の向こうで、砂利を踏む靴音が聞こえる。歩幅の違う音がふた組、それとは別に爪でひっかくみたいな乾いた音も。短い息づかいが大げさなのは、動物が足音についてきていることを報せている。
軍人ふたりと犬が一頭、彼らの決まりの行動スタイルだった。逃亡者を探している、大人も子どもも構わずに、できるだけ多く、どんなに些末な不審でも漏らさずすべて。
僕は奥歯をぐっと噛み直して、可能な限り息を止め続けた。息をしなければ筋肉が緊張して揺れたり重心がぶれたりすることがほぼない。この瞬間、体ができるだけ死に近づくことを祈っている。見つかって軍人に捕縛され、収容所のあるカヤフやガトロナへ送り込まれるのと、ここで殺されるのと、窮状を脱して生き延びるのとで、だいたい二対七対一くらいの割合で起こりえそうだなと思っていた。軍人たちの寄ったりばらついたりする足音がすぐ近くを通る。犬はとっくに潜伏する人間の匂いを嗅ぎ分けていてもおかしくない。僕にだけ特別気づかないようにしていてくれているのか、あるいは鼻を曲げられるような、犬にしかわからない強烈な臭いを誰かに嗅がされ麻痺しているのか。
僕の背中の後ろを軍人たちが通りがかった時、そのうちどちらかがとつぜん「止まれ」と鋭く言った。小石が踏まれてかちかちと鈍ったおはじきみたいな音が鳴っているのを聞いた。
布袋を被せられたように音がぼやけているが、辛うじて会話の様子が聞き取れる。
「こんなところで何をしている」
「これはどうも。見ての通り、廃材をもらいに来ただけです」
応答しているのは軍人とは別の若い男だった。声と口調でそれが誰なのか分かった僕は、口から心臓が飛び出そうになるのを必死にこらえた。
「何に使う」
「何にって、寒いんだから、ここのところ特にね。薪にするんです。いいでしょう、地区を出た連中はみんな送還されてしまったし」
「カアサの居住区は直ちに解体に取りかかる。貴様がクリアなら希望にあわせていつでも居住地登録の変更ができるはずだ。お前の登録状況を確認する。IDを」
青年は無言になった。数秒の間に攻防があった末、彼は渋々軍人に個人識別のカードを渡しているようだった。読み取りと照合を終えると、軍人は小さく咳払いした。
「よろしい。最近どこかでカラーズを見かけたことは」
「だから、そういう連中はみんなカヤフに移送されたじゃないですか。年寄りも女も、赤ん坊も病人も」
「何が言いたい」
「いいえ、何も。俺たちはただ、自分の家の中が静かで誰にも脅かされない場所であることを、約束してもらいたいだけです」
軍人のふんと鼻であしらう音で会話は終わった。外の声を聞き取るのに注意しているくらいなのに鼻が鳴る音だけ大きく聞こえるのはおかしい。自分がガラス瓶の中に入れられている気分だった。
軍人ふたりが連れの番犬とともに立ち去っていくようだ。耳に残った足音が擦れている感覚に耳を軽く塞ぐと、物置小屋の壁に長い影がにゅっと生えた。
彼は軍人を警戒していて今も無言だ。両手を耳に当てている僕を見つけた双眸がしぱしぱと光った。
僕はそれでようやく、これまで空白になっていたある期間の記憶をとり戻してひと続きに思い出せるようになった。つまり、今はこの若い男と共に行動していることも。犬は狂犬病を疑われて、年をとった森番に殺されてしまった。ずいぶん長い日をその野良犬と過ごしていた僕は、最後の別れに抱擁のため駆け寄ったが、節くれだった手に邪険に突き飛ばされ、何も感染されたくなければ今すぐに立ち去れと恫喝された。
死んだ犬の目は真っ黒で潤んでいて、息絶えたあとも僕と目が合う間は光っていた。今は僕を探しにきた青年が、犬と同じ目をしている。
折り重なる廃品と木箱の隙間からゆっくり腕を伸ばすと、男は僕の体を包み込み、そっと物置の外へ連れ出した。軍人たちが歩き去ったのと反対の方へ行き、空き家の壁にふたりで体を寄せる。安全を確認するとまた移動して、いくつか寂れた家々を渡り、農家の荷馬車のそばに腰を下ろした。僕はそこでようやく、男の名前を呼んだ。
「レッテン」
男は嬉しそうに口元を緩ませる。頭の中で綴りをなぞると、ふわりとキンモクセイの花の色が広がった。
「入った小屋の暖炉の奥に缶箱を見つけた。すっかり固くなっているけれど、中には干し葡萄がたくさん、干し柿もあった。しばらくこれを食べながら移動できそうだ。俺はラワウに行ってみたいと思う」
少し残っていた干し草を集めて、日没までの時間をしのぐ場所を作った。缶は錆びて蓋が歪んでいたが、レッテンがいちど開けた後だったので簡単に中身を取り出すことができた。干し柿は八つしかなかったから最後に食べることにして、僕と彼で干し葡萄を四粒ずつ分けて食べる。ラワウはここから川を渡って東へ二時間あまり歩けばたどり着く。僕がどうしてそれを知っているのか分からないけれど、まるで以前その道程で移動をしたことがあるみたいに、僕の頭に自然とそのことが浮かんでいた。
「川沿いを進んで、渡りやすいところを探さないと。きっと橋はいくつか落ちてしまっている。物置小屋の近くの家で地図を見つけたんだ」
そう言って痩せた腕を伸ばし、粗末な布地で誂えられた大きな胸ポケットから折り畳まれた紙を抜き出した。当たり前だけど、途切れた記憶とは別に、僕の体は物置小屋での潜伏より前の時間も連続して行動している。しばらくの間、自分のふるまいを読みとることによって、意識のある場面より前の時間に起こった出来事を知り、なんとなく空白の記憶を補うというのがいつものことだった。
今の僕はイクスという名前でここにいる。歳はたぶん十歳か十一歳くらいで、いちど死にかけて右腕に深い傷があり、肘から先に痺れがあって今もうまく動かせない。ここの世界に両親や友人はいなくて、僕についてくるのは連だけだった。
連ははじめ、僕にこっそりとお菓子を持ってくる親切な軍人だった。その次は犬、そして今はクリアの青年、レッテン。イクスには兄がいたがそれは連ではなかった。ここにいる彼は僕と年も離れているし、時によって姿形が人間ではない時もある。犬は死んだけどまた他の人間が連の入れ物になっている。レッテンがいなくなってもまた別の何かに入りこんだ連がくるのだろう。
眠っているのに、起きている間と同じように日々が過ぎていく不思議な長い夢をもう何年も見ていた。話はひと繋ぎになっていて、僕は郁が睡眠中に別の世界にいるイクスの体を使って行動を続けている。こちらの世界は住民をすべてIDで管理していて情報機器が発達し、空には鳥ではなく自動運転の小さな飛行物体が行き交っているみたいだが、僕らが知る都市のような人口密集地のない、うらぶれた風景が広がるばかりだった。
荒廃のありさまが、爆撃を受けたような一時的な破壊ではなく、長い年月でその姿へ変遷していったように思えた。ここはいったいいつ頃の、場所はどのあたりなのだろう。なぜだかはじめから読むことのできる文字をたどるため、僕は膝の上で折り目を伸ばした地図をのぞき込む。
地図は擦り切れた四色刷りで、川や道路、鉄道路線の上に古いタイプフェイスで書かれた地名が配置されていた。それぞれの地名にぼんやりと色が浮かびあがる。軍人たちが躍起になって探し出そうとしているカラーズと呼ばれる人間たちは、こうしてそれぞれの文字から色を見ることができる。それがこの世界にある不思議だった。軍人たちはみなクリアと呼ばれるもとの世界の僕らと同じ普通の人間で、レッテンもクリアのひとりだった。カラーズの僕をなんとか匿おうとしている彼は、本当であればこの世界でまともな職に就き、それなりの生活を約束されている人間だったにちがいない。
僕は地図の上を少し北側に遠回りしながら東へ向かう経路を示し、土地の成り立ちや親和性で同じ色に見えているところをなぞったけれど、今の風紀や危険度については測れないと伝えた。レッテンは僕の肩に頬が擦れそうな距離でうなずいた。
「それでも、イクスの道で目指そう。風土が同じなら仲間も見つかりやすいかもしれない。それに、これまでもぜんぶきみが決めてくれた」
彼は指に挟んだ最後の干し葡萄を僕の口に押しつけてそのまま食べさせてしまった。子どもに食糧を分け与えている場合ではない。今ここで最も生き延びられる可能性があるのは、成人した男のレッテンなのだから。
ラワウに着いたら仕事と少しの食べ物、それから寝床を確保する。しばらく耐えしのげる場所を見つけて、カラーズの掃討が次に行われる大きな動きの前に体力を回復させておきたい。
僕が決めた経路を、ふたりでできるだけ速く慎重に進んでいく。拾った地図に記された地名を掲げた看板や道路の目印はほとんどがその姿を留めていて、僕とレッテンはゆっくり歩いたり隠れたりしながら、半日かけてラワウへ到着した。前にいたダットより圧倒的に栄えていて、逃走の末にしばらく追いやられていたワグチカやビワラほど煩雑ではない、整備された都市の様相だった。第一印象は、綺麗な街で隠れるところが少ない、だった。僕はそれを正直にレッテンに伝えた。こちらに同意するけれど特に適当な返し文句がない時、レッテンは小さく肩をすくめる。彼じゃない、あっちの世界にいる方は、もっと違う反応をするのに。夢の世界での時間が経過すると、僕はいつも元の自分の名前や年齢を忘れた。夜のラワウを歩き回っている間に、僕の意識はすっかりイクスになっていたし、カラーズの能力も冴えて体に馴染んでいくように思えた。
目に映るあらゆる文字に色がついて見えることは、何かの規則により情報がラベリングされているということだった。ここへ来て僕が知ったいくつかのこと。カラーズはあるひとつの文字に対して、すべてのひとに同じ色として見えている。ただし個人の感度により、十二色の色鉛筆くらいのバリエーションしか持たないものもいるし、カラーコードみたいに細分化した色識別が可能なものもいる。文字は集合や羅列、分離によって色が変わる。文字情報の色分類で見出せるのは、あくまでも占いに近い元来の性質のみであり、その時の状況を示唆する意味はない。
僕たちカラーズは、見えた色について説明をするのがすごく不得意だった。色は目の前にガラスや薄紙みたいなものがあって、文字のところに水彩絵の具をのばして色をつける感覚でじわっと湧き出る。視線を外すと色は勝手になくなっている。瞬きで消えることもある。頭の中に文字を思い浮かべればそこにも色はつくけれど、どのみちそれを他者に伝えることはかなり困難だ。
この言葉はどんな色? 私の名前は何色に見える?
分からない、僕にも。こちらは曇り空の色だって思って見ているけど、ひとによって空の暗さの感覚はきっと違うだろうから。
ただ、僕がそれを曇り空と呼んでも、便宜的に灰色と説明しても、置き換わった言葉にかかわらず、カラーズは全員それを同じ色で見ていた。クリアにとって僕らが邪魔で危険な理由はそれだった。
ラワウでいくつかの商店を見て回る間に、レッテンはすぐに新しい友だちを作った。僕を連れて立ち飲みの酒場へ連れて行くと、笑顔があたたかいおかみさんに気に入られて、ご主人の上着と僕より少し大きな子が着ていた子供服を分けてくれた。どちらももうこの世にはいないのかもしれない。レッテンはラワウで使える通貨を少し持っていて、ふたりでジャーマンポテトを分け合った。僕を自分とテーブルの間に挟んで立たせ、時々ビールの泡を舐めさせてくれる。レッテンには男女問わずいろんな人間から誘いがくる。彼との会話は退屈しないのに、大人どうしの会話はぜんぜん頭に入ってこなくて、すぐに瞼が重くなってしまう。
眠気を醒まそうとテーブルの隅に立てかけてあったメニューを手にとってめくった。使えるお金は食べ物以外に残しておくべきだろう。アルコールのメニューは種類が豊富で、発音は分かるけれどどんなものなのか想像ができないものばかりだった。
種別に分かれた飲み物には黒い靄がかかった名前が点在していた。同じ色の食べ物を口に入れて酷い目に遭ったことが何度もある僕は顔をしかめてメニューを閉じた。
ふと顔を上げると、レッテンが男の客に酒を勧められている。使い込まれた店のジョッキに書かれたブランドのロゴが黒い煙に包まれていた。僕は連れの男の腕に縋った。
「飲まないで」
懇願した。僕はレッテンを守りたかった。
周囲は一瞬で事態を理解した。レッテンは僕の手を引き、大急ぎで店を出た。行き交う人に肩をぶつけながら、彼は大股でほぼ走るみたいにしてぐんぐん夜の暗がりの中へ進んでいく。
素性が知れたことよりも、せっかく代金を払ったジャーマンポテトを完食できなかったことに僕は泣いた。レッテンは険しい横顔のまま、何も言わなかった。
犬と一緒にいた時には身軽な子どもで良かったと思ったけれど、今は小さい体が不便でならない。青年はどうして僕を捨てずにこの遁走の日々を過ごしているのだろう。
無理やり足を前へ前へと運ぶ。呼吸がすぐに続かなくなる。まだここでは死にたくないと思って、息をするよりも足を動かすことだけに集中して、走って、走って、走った。
〈後略〉
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
この作品だけで完結していますが、前日譚として『カラーズ』も楽しんでいただけると嬉しいです。全文公開しています▽
おしながき情報は追ってnoteでお知らせしますのでお待ちください。
たくさん楽しんでいただけますように! 26
